相合傘未満



 一日中どんよりとしていた空がとうとう溢れたのは、仕事帰り、特殊部隊の庁舎から一歩踏み出したその時だった。
「うっわ、最悪。傘……あー、持ってくんの忘れた」
 掌を上に向けながらロッカーの中を思い出すが、置いていた傘はこないだ同じような事態の時に使ってそのまま寮だ。
 逡巡したのも一瞬で、次の瞬間には脚が勝手に駆けだしはじめる。
 背に腹は代えられないとグラウンドを突っ切ったお陰でいつもより早く寮にはついたが、靴を脱ごうとして目に入ったスーツの裾は案の定、泥でぐちゃぐちゃになっている。
「ほんともう、ついてない」
 クリーニングで別料金かかんないといいけど。
 せこい願いを真剣に思っていたせいで、玄関先の人だかりの脇を通り過ぎようとしてから気付く。
「なになに、どうしたの」
 中に同期の顔をみつけて訊ねると、憮然とした仕草で掲示板を指さされた。
「節電の徹底勧告だってさ」
「節電?」
 寮暮らしだと、そんな今更な、な言葉だ。
 いたるところに節電のチラシが貼ってあるが、生活に埋もれて注意する事もなくなっているくらい寮イコール集団生活イコール節電だ。
 こんな大騒ぎする程のものじゃないと思うけど、と掲示板を覗きこんだ直後、同期と同じ顔になったのが自分でも分かった。
「節電の効果が見られない場合は、居住区内での電化製品の使用を制限、もしくは禁止―!?」
 強い文言に、こちらも大きな声が出てしまう。
「なにそれ、今でさえ制限されまくりだってのに」
「でしょ? しかもこの梅雨真っ最中に。これから真夏来るってのに、電化製品禁止なんて熱中症推奨勧告だっての」
 同期の愚痴ももっともだ。周りからもうんうんと同感の頷きが返って来る。
 寮に持ちこめる電化製品は大まかに基準が決められている。
 火が使えない、勝手な工事が出来ない中で夏は扇風機、冬はコタツが定番で。そこに住人と部屋の個性で、冷蔵庫やテレビ、パソコンと続く。
 梅雨真っ最中の蒸し暑さをかろうじてしのげるくらいの電化製品は認められているが、嗜好品と呼ばれるものはほとんどが申請を出しても却下されてしまう。
 柴崎が「超音波美顔器がアウトってのが痛いわー」とぼやいていたのを、ふと思い出しながら再び勧告に目を通すが、文言は変わりなく固さを誇っていた。
「だったら部屋にエアコンつけてよね」
 誰かは分からないけれど心の底からの呟きに、またもや周囲から賛同の声があがる。
「女子はまだいいだろ、男子部屋は四人だぜ? 扇風機一人一台ねぇと無理だって」
「でも男子はドライヤーなくても平気じゃん」
 喧々諤々の議論が始まるのは、不平不満があろうが見てしまった以上は各自節電を意識する裏返しかもしれない。
 叩き込まれた規律が上からの命令を無視できないようになっているからだ。
 それぞれ好き勝手に愚痴を吐いて憂さを晴らしたタイミングで、自分もやっと部屋に戻る。
「おかえりー、今夜は熱帯夜だって」
 うちわを仰ぎながらの柴崎のセリフに、これからの長い夜を想像して庁舎を出た時よりもうんざりした気分になった。





「……出遅れた」
 ベッドに入ってからもあまりの蒸し暑さにTシャツを脱ぎ、ジャージを脱ぎ、これ以上はいくらカーテンで閉めているとはいえさすがに限界のスポーツブラとショーツになったというのに、一向に眠りはやって来なかった。
 ベッドでごろごろするのも限界で、自販機に涼を求めに来たというのに迎えてくれたのは“売り切れ”のランプ達だ。
 普段ならだれが買うのかも分からないけれど、ずっとエントリーされているおしるこすら売り切れている始末というのが、節電の徹底で皆、部屋で控えているのが透けて見える。
 寝苦しい熱帯夜を節電で乗り切るために、周りも考えることは同じだったらしい。
 お茶やスポーツドリンクはなくなっているかもしれないけれど、ジュースならどれかは残っているかと期待していた反動で自販機にもたれかかる。
 つめたい飲み物ばかりが入っていたはずの機体はほんのりと暑い。しぶしぶ着直してきたタンクトップとジャージが重い。
 こんなことなら、もっと早くふんぎれば良かった。
「……デカい図体して中身空っぽなんてー、この役立たず」
「なにを自己紹介してるんだ、お前は」
 返って来るとは思ってもいなかった本心に掛けられた声に、びくりと肩が跳ねた。
 自販機の陰から現れた堂上と小牧、二人の上官の姿にほっとしたのも束の間、頭が認識した言葉に背中が伸びる。
「自己紹介って、それってあたしがデカいのに中身空っぽで足引っ張りってことですか!? あんまりです、それは!」
 気色ばんで噛みついたのに、堂上はしれっと流すことにしたらしい。
「そうだな、さすがに役立たずは撤回して謝罪する」
「デカい図体は残ってるじゃないですかー!」
「そこは事実だろうが」
 不快指数に釣られてテンションがあがっている自分に対して、あまりにさらっとしたものだ。
 そこで、堂上が手にしているものに気が付いた。
「お酒は売り切れてないんですね」
「これ一種類だけだがな」
「ビール、チューハイはなかったけどね、日本酒はかろうじて」
 そういう小牧の手にもワンカップがぶら下がっている。
 軽くゆすって言う小牧の顔よりも、その中身に目が釘付けになってしまう。
 あぁ……なんて冷たそうで美味しそう。
 水滴が浮かんでいるガラスの瓶の中で揺れる液体を、一気に飲んだらどんなに気持ちいいだろう。
 ごくりと喉が鳴る音が、人気のない廊下に響いて我にかえる。
 日本酒なんて強いの一気できる体質じゃないのに、何であんなに美味しそうに見えたんだろう。絶対、蒸し暑さのせいだ。
 そこでハッと二人の顔を窺うと、小牧は苦笑して、そして堂上は呆れた表情を浮かべてこちらを見ていた。
「……や、あの、何でもないんで気にしないでください」
 人のものに物欲しげな視線を注いでいたと気付いたせいで、恥ずかしさで余計に汗が噴き出る。
「じゃ、おやすみなさい」
 踵を返した背に、堂上の声が追ってきた。
「ちょっと待て、どこ行くんだ」
「どこって、コンビニですけど」
 自販機が軒並み売りきれなら、残る選択肢はコンビニしかない。往復しても門限までは余裕だし。
 何を当然の事を聞くんだと聞き返したのに、堂上の表情はみるみる険しくなっていく。
「その格好でか」
「はい」
 だって、もともと飲み物を買うつもりで財布は持ってきている。携帯は常に持ち歩くのが特殊部隊入りしてからの癖だ。
 一分一秒だって早く涼みたいのに、わざわざ部屋に戻る理由なんてない。
 コンビニに行く予定はなかったから、ベッドに入った時と同じタンクトップに下はジャージだけど、コンビニレベルならまぁアリな格好だろう。
 コンビニの中はどんなにか快適だろう。
 選ぶのに迷っているふりをして、ほんのちょっと長く飲み物の入った冷蔵庫のドアを開けていてもいいかな。
「大丈夫です、門限には間に合うように帰るんで」
 早く、早くコンビニ行きたい。
 もう一度、向かいかけた体が同じ言葉で止められた。
「ちょっと待て。……俺も行く」
「は?」
 振り返ると、堂上は手にしていた日本酒を小牧に預けてこちらに向かってくるところで。
 小牧は苦笑を深くしている。
「じゃ、俺は先に部屋に戻ってるから」
「あぁ」
「え、ちょっと待ってくださいよ、少し外出するだけで上官についてきてもらう必要なんかないですってば」
 二人の間で進んでしまう話しを止めようとするのに、堂上はさっさと靴を出してしまう。
「酒の補充ついでだ。ほら行くぞ」
「え、えっ!?」
 困惑でタンクトップの中の胸の間に汗がつたう。
 谷間って言えないとこが残念だけど、ってそれどころじゃなくて。
 傘立てにある傘を掴んだ堂上を、ほぼ条件反射で追いかけてしまう。
 確かに帰寮の時みたいに、いつ雨が降るかわからないから傘は必需品だけど、だけど……。
「早くしろー」
 あたし、傘もってこなかった。
 玄関のドアが閉まってから、そのことに気付く。
 ……てことは、もし雨が降ったら。
 一人だけ傘をさして、こっちは濡れさせるような人じゃない。きっと一緒に入れと誘ってくれる。
 ひとつの傘に、二人で。
 さっきよりたくさんの汗が胸をつたう。
 くらくらするのは暑さなのか、それとも何かうまく言葉にできないこの感情なのか。
 わからないまま堂上の隣に並んだ郁は、いつの間にか暑さよりも緊張で汗をかきつつ歩いていることに気付いていなかった。

あとがき

むしむし薄着の郁に教官ムラm……
こういう事があって、後の「コンビニくらいならいつでも付き合う」発言
につながってたらいいなー☆なんて妄想