キスはいつの日かの福音


 息も忘れる一瞬の静寂のあと……場内を拍手が包み込んだ。
 一人ひとりの拍手が重なると、こんなにも大きいうねりになるってはじめて知った。
 舞台に集中していたあまり空っぽになっていた心に、じわじわと感情が戻ってくる。
 あたしも加わろうと膝から手をあげたのと同時に、隣の席に座っていたおじいさんが、どこにそんな力があるのかと驚くほどの声量で賛辞の屋号を叫んだ。
「びっくりさせてごめんなさいね。うちの人、歌舞伎になるとこうなのよ」
 驚いて体を震わせたのを不快に思ったと勘違いしたのか、熱狂的に拍手をしているおじいさんの向こうから、申し訳なさそうな顔をしたおばあさんが頭を下げてくる。
 ただただ首を横に振って、謝ってもらうような事じゃないと無言の返事をした。
 こんなに大きな声で屋号が飛べば、依織くんも嬉しいはずだから。
 あたしも嬉しいから。
 首を振り続けるあたしに首を傾げたおばあさんが、ふと穏やかな笑みを浮かべてから何かを差し出してきた。
「よかったら、使ってくださいな」
 ぼんやりとした視界に映ったのがハンカチだと気がつくまでに、やけに時間がかかってしまう。
 興奮で頭の中がまだ、もやが掛かったままだからかもしれない。
 それとも、いろんな感情が入り混じって、考えることすら出来なくなっているからかも。
「いえ、あの……だいじょ……ぶ、です」
 意思とは関係なく途切れる言葉に自分が一番驚いていると、いいからいいからと手に握らされて、素直に頭をさげた。
 観客の歓声はまだ納まる気配すらない。
 そして、いつの間にか溢れていた涙も止まる気配がない。
 心を落ち着ける香りが漂うハンカチを、目にそっと押し当ててから舞台に視線を戻すと、音もなく幕が閉まり始めていた。
 舞台の上では、豪華絢爛な衣装の役者が動きを止めて幕が閉まりきるのを待っている。
 まるで一枚の絵のようにぴくりとも動かないけれど、胸のうちにあるだろう誇らしさや興奮が無言の中から伝わってきて、また涙をつれてくる。
 誰よりも、彼がこの舞台に全てを捧げてきたのを知ってるから。
 積み上げた稽古でも拭いきれなかった不安を、隣で目の当たりにしてきた。
 劇場を包み込んでいるこの評価に、どれだけ安堵しているのかわかるからこそ……。
 あたしは拍手を送りもせず、見知らぬ人の優しさに顔をうずめて涙をこぼし続けた。





 そろそろかなと見上げた時計が、あと二時間でイブが終わると教えてくれた。
 依織くんが帰ってきてから並べた方がいいのか、それともすぐに食べてもらえるよう準備していた方がいいのか、少し悩んでから脚をキッチンにむける。
 温める必要のあるもの以外は、テーブルに並べていても大丈夫。
 あれだけの舞台をこなした後だもん、お腹が空いてるはずだし待たせたくない。
 打ち上げには参加しないで、まっすぐ帰ってくると約束してくれた依織くんの気持ちを、無駄にしたくないじゃない。
 歌舞伎のことはまだあまり詳しくないけど、独特の人間関係が残る世界だから、いくらクリスマスイブだからといって簡単に恋人を優先させるわけにいかないくらいは分かってる。
 なのに、そんな素振りを一切見せないで、おいしいご飯を用意して待っててくれないかと微笑んでくれた依織くんの気持ちに応えたかった。
 新鮮なハーブを散らしたサラダの隣に、こないだ開発した自信作のドレッシングを添えてから、ぐるりとテーブルを見回し満足のいく出来にほっとため息をつく。
 高級なレストランには負けるけど、あたしの精一杯の気持ちを込めて用意したんだもん。
 ……帰ってきてから急いで仕上たとはバレないよね?
 スープの火加減を確認しに戻ろうとして、突然鳴ったチャイムにびくりと体が震えてしまった。
 こういうタイミングが、ほんと依織くんらしいんだから。
 疑問を抱かせるような声になっていないか、目の赤みは引いたか、慌てて鏡を覗き込んで確認してから鍵をあけた。
「ただいま、遅くなってすまないね」
「おかえり」
 優しく抱きしめられて、頬に依織くんの鼓動が伝わってきた。
 依織くんの香りに混ざって、しんと澄んだ冬の匂いが鼻先をくすぐる。
 そんなに急いで帰ってきてくれたんだ。
「おつかれさま、依織くん」
「ありがとう」
 短いお礼の中に抑えた感情が溢れていて、おもわず強く抱きしめ返した。
 お礼を言うのはあたしの方。
 あんなに素敵な演技を見せてくれた。
 直接、感想を伝えられないのがもどかしいくらい。
 いつものように見送ってから、奇跡的になんとか取れたチケットを握り締めて、こっそりあたしも家を出たから依織くんには内緒。
 だから、興奮を隠し味にしたお料理が、せめてものお礼になればいいんだけど。
「お腹すいたでしょ? もうほとんど準備できてるから」
 楽しみだと笑う依織くんの晴れやかな顔がまぶしくて、頬を赤くしながらテーブルへと誘った。





「やっと、こうしてお姫さまを抱きしめられる」
 珍しく、食器の片付けを後にしたらと言う依織くんに首を横にふったからか、終えるのを待ちかまえていたように体を包まれた。
「この一ヶ月、何度もこうして君の香りを感じて、温もりに浸って、どれだけ愛しているか伝えたくてたまらなかった。寂しい思いをさせていないか不安になったよ」
「理由なくほっとかれてたわけじゃないもん。それに、くたくたになってるのに毎日時間つくってくれて」
「例え一分でも、すずと話をするのを支えにしていたからね。僕のエゴだと言ったら呆れるかな」
「ううん、うれしい」
 台本を読みながら眠ってしまう日もあったくらい、依織くんと松川の家は今回の公演に力を入れていた。
 新しい試みも含めた長い公演になるから、しばらく舞台中心になってしまうと告げられた日の出来事が、昨日のことのように蘇ってきた。
 単純な好奇心から、あれこれ質問するあたしに嫌な顔一つしないで付き合ってくれた最後に、一哉に甘えてばかりもいられないからと、ぽつりと呟いた依織くん。
 出資をしてくれている一哉くんに感謝してるのと同じくらい、申し訳なく思っているんだよね。
 あたしには、男の人の気持ちはよくわからないけど、依織くんの気持ちだったら心の底で感じることができる。
 他の人以上に、この公演にかけていたものは大きいもんね。
 はっきりと言葉にされたわけじゃないのに、隣にいるからこそ解るから、寂しさなんてこれっぽっちも感じなかった。
 それでも、明日は丸一日、依織くんを独占できると思うと嬉しくて頬が緩んじゃう。
 依織くんの好きな海までドライブして、場所はまだ内緒っていうレストランで食事をしよう……って。
 特別な日を楽しい思い出に出来るように、少ない時間の中でも二人を繋ぐ希望を語りあって、明日どう過ごすかはすでに決めてあった。
 明日があれば、大丈夫だと信じられた。
 たとえ会う時間は少なくても、気持ちが繋がっていればこれから先も大丈夫。
「今日は疲れたでしょ? 明日も早く出るって予定してたし……あ」
 だからもう寝た方がいいと、そう続けるのを見越して先回りしていたのか、そっと頬を撫でた手の平が唇の上で止まって言葉を止めさせた。
「もうすぐイブが終わるね。明日は一日オフだから覚悟しておいて。一瞬たりとも離す気はないから、ね」
 デートの約束のことを言っているのか、もっと深い意味があるのか、艶のある瞳で見詰められるとわからなくなってくる。
 視線一つにどれだけの威力があるのか、多分……依織くんはわかっててやってる。
「それ、反則」
「うん? 何のことかな」
 穏やかに笑う口元が、やっぱり意図があってのことだと告げていた。
「あたしの考えていること、お見通しなんでしょ」
「すずが、どういう意味で受け取るのかは自由だよ」
 離す気はないというセリフがぐるぐると頭の中でまわって、顔が赤くなるような方法を浮かび上がらせる。
 嫌じゃない、期待してる、でも恥ずかしい。
 落ち着きを失ったあたしを、相変わらず笑みを浮かべて見詰めながら、耳元に降りてきた唇がかわいいねと囁いた。
 体中の血が、いっきに顔に集まったんじゃないかってくらい、熱くなってしまう。
「こんなにかわいいお姫さまが、俺の腕のなかにいるのが未だに信じられない時もある。もっと……」
 ほとんど唇を動かしているだけの言葉も、耳元で伝えられれば直接、頭と心に響いて心臓が壊れてしまいそう。
「もっと、すずの事を知りたい」
 どんな方法で!?
「あ、あたしっ、分かりやすいんじゃないかな」
「どうかな?」
 いまだって、ドキドキし過ぎて立ってるのもやっとなの、分かるからそんなに強く抱きしめてるんじゃないの?
 触れる距離が縮まれば縮まるほど、もっとドキドキしちゃうんだけど。
「分からないことだらけだよ。だから、教えて欲しい」
「でも、もう遅いしっ」
 悔しいほど落ち着き払ってる依織くんの声に比べて、あたしの声はなんでこんなに掠れて飛んでるの?
「夜はまだはじまったばかりだろう? 教えて……そう」
「なっ」
「なぜ俺に内緒で舞台を観に来たのか、とかね」
「……え」
 意外な言葉に慌てて見上げると、茶目っ気のある瞳が笑いをこらえているのか、わずかに細められてあたしを見ていた。
 彼の揺動作戦にまんまと乗ってしまったんだ。
 焦りが顔に出たのか、依織くんが声を出さずに笑って頭を撫でる。
「気がついていないと思ったかい?」
 さっきまでと変わりなく穏やかな声音から、怒っているとか不快だったという訳ではないとわかったけれど、表情の中にどうしてバレたのかという疑問への答えは見出せない。
 気のせいだと誤魔化しても、通じる相手じゃない。
 だったら。
 覚悟を決めて視線を真正面から受け止める。
「だって、あたし、かなり後ろの席だったよ」
「それが? 僕の目はいつだってすずを見つけられる。幕が開いたとき、驚いたよ」
「うん、内緒にしてたのは謝る。驚かせてごめん」
「歌舞伎に興味があったのなら、僕に言ってくれれば席を用意できたのに」
「あのね……」
 うまく言えるかな。
 なんで黙って観に行ったのか、ちゃんと理解してもらえるだろうか。
 余計なことだと嫌な思いをさせてしまうかもしれない……。
 黙っていればわからないだろうと考えたのは、今も胸をよぎる不安のせいだけど、依織くんが気付いたのなら全部しゃべってわかって欲しい。
「前もって依織くんに相談したら、そう申し出てくれるだろうって思ったから内緒にしたの。あたしは、依織くんの彼女としてじゃなくて、松川右京のファンとして舞台を観たかったから。彼女として、どれだけ稽古をしてどれだけ悩んできたのか知ってるから、矛盾してるかもだけど」
「そう」
「それに一度ちゃんと観たかった。依織くんの一部の松川右京を。観て、知りたかった」
「……すず」
 名前と一緒に、強く抱きしめられた。
 いつもより早い鼓動が、依織くんの気持ちを教えてくれる。
「もっと、依織くんを理解できるヒントになればって、そう思ったら止まらなかった」
「嬉しいよ」
 良かった。
 嬉しいって言葉が嘘じゃないと、優しく繰り返されるキスが答えてくれる。
 あたしが依織くんの事をすごく好きで大切だと思うのと同じくらい、依織くんも思ってくれてるのがわかるキスは、甘くて幸せな興奮を伝えてくれる。
「好き、依織くんが大好き」
「あぁ、俺も愛してる」
 重なる言葉は、なによりのクリスマスプレゼント。
「あっ、そうだ」
 ポケットにしまったままの、涙のしわの残るハンカチを取り出して、依織くんに差し出した。
「隣の席だったご夫婦とプレゼント交換したんだよ。舞台に感動してあたしが泣いてたら貸してくれて、そのまま返すわけにもいかないし。自分のハンカチをバッグに入れてたのを思い出して、代わりに受け取ってもらったの」
「素敵なプレゼントだね。俺にとっても、嬉しいプレゼントだ」
「そのご夫婦のおじいさんね、歌舞伎が大好きなんだって。おばあさんは一緒に観るのが好きなんだって」
 お互いのハンカチを手に、頭をさげあいながら別れた時の光景が脳裏によぎった。
 寄り添って去っていく二人の背中は、何十年と積み重ねた信頼と愛情で輝いてみえた。
「あたしも、そういう仲になりたいな」
 思わず漏れた自分の声に、はっと身を強張らせる。
 これって、なんだか将来の約束っていうか、まるでプロポーズじゃない。
「いく歳を重ねればと断言はできないけれど、俺がすずを、すずが俺を……。その気持ちがあれば、そう遠くない未来だと約束できるよ」
「……うん」
 握り締めたハンカチに、そっと手を重ねられる。
 気持ちまで重なり合うように。
 誓いのキスを交わしながら、仲のいい夫婦のサンタさんがプレゼントしてくれた未来に、思いを馳せた。

あとがき

もう読み終えてくださった方へ、ここで書くのもなんですが
ゲーム中に登場しないオリジナル人物(老夫婦)を出してしまってごめんなさい
馬鹿の一つ覚えで、依織=歌舞伎ですいません

恋人が役者なら、一度は舞台を観てみたいと思うんじゃないかなー?
と想像しての話
猫百匹なら思うので
もし自分が演じる側なら、ぜってぇ嫌だ見に来るな!と言いますが

なにはともあれ
メリークリスマス依織&むぎ