約束された家路


 足元を乾いた秋風が通り過ぎていく。
 一歩外に出たとたんに汗が吹き出ていたのはつい最近までの事だと思うと、なおさら季節の移ろいが身に染みた。
 あっという間に夏が過ぎ秋がきて……また一つ年をとる季節になったのか。
 ふと目を上げれば、緑溢れる街路樹の中もところどころ黄色く染まり、風が吹き抜ける度にはらはらと幾葉が舞う。
 澄んだ青空との対比が目に鮮やかで、ふと襲の色目を思い出した。
 数日すれば、この光景もあっという間に色を変えるのだろうと思うと、日本人として生まれたこと、それ以上にいま日本にいることが嬉しく感じる。
 アメリカにも四季はあったはずなのに、いくら記憶を辿ってもおぼろげで曖昧なものでしかない。
 きっと周りに向ける感情の度合いが違うからなんだろう。
 あの時は、まわりがどうなっていようが構わなかった。
 自分自身、この先どうなるのか不安定ですらあったから。
 感情に蓋をして、あえて感じないようにしていたせいもある。
 そんな状態で帰国して再び祥慶に通うようになり、彼らと出会った。
 ──そして、彼女と。
 知らず知らず微笑んで、追い抜く風に負けじと脚を早めた。
 どこからか“歌舞伎の……”、“松川右京?”という囁きが聴こえた気がしたけれど、愛想を振りまく余裕なんてない。
 これも以前の僕なら考えられない行動だ。
 声を掛けるか掛けないかは別として、囁きを耳に留めるくらいはしていただろうに。
 けれど、今年は一秒でも早く帰りたい。


 今までは、誕生日というものに特別な思い入れはなかった。
 特にここ数年は、当日の予定を巡って数多の女性との駆け引きを楽しむまでの日で、すずが知ったら 不誠実だと詰られるに違いない。
 過去を消してしまいたいと思う気持ちも少なからずあったけれど、それも含めて好きだと言ってくれるすずに応えるために今日は稽古すら投げ出したかった。
 遅々として進まない針へ、苛立ちをつのらせるごとに怪訝な視線をいくつも感じ、その度に気を引き締めながら終わらせてきたのだから、駆けて帰りたいとすら思うのは仕方がないだろう?
 今頃は皆、帰り支度をしながら僕の噂話に興じているかもしれない。
 けれど、どの憶測も外れていることを、同門者が知る機会はないと断言できる。
 この松川依織が、愛しい恋人が祝ってくれる誕生日を心待ちにして我を失いそうだなどと、想像すら出来ないだろうね。
 “プレゼントはもう用意してあるの。お食事も期待してて!”
 唇の動きさえはっきりと思い出せるほど脳裏に浮かんだ顔に、稽古の名残で張り詰めていた神経がゆるんでいくのを実感した。


 あぁ、僕だけのお姫さまが待つ家へと、早く帰ろう。





 緩みそうになる口元を堪えてドアを開けると同時に、弾んだ声が耳に飛び込んできた。
「依織くんっ」
 二十と一年、馴染んだ自分の名も、スポットライトをあてられたように輝く顔で告げられれば、極上の福音になって心をくすぐる。
「ただいま、すず」
「きゃっ」
「少しだけこのままで。朝から会えなかった分、すずを補給させてくれないか」
「たった半日だよ? それに毎日会ってるのに」
 くすくすと笑う声は駄々っ子をあやすような響きがあって、自分がまるで大きな子供になった気にさせられる。
 すずしか知らない本来の自分に戻ったようで、それもまた心くすぐられると言ったら呆れるかい?
「お姫さまに関して僕がどれだけ辛抱できない性格か、知ってるだろう?」
 染み付いたポーカーフェイスで僅かな羞恥を覆い隠して、余裕ぶった笑みを浮かべても、口をついて出るのは本能に忠実な独占欲の塊だ。
「……うん、知ってる」
 照れから戸惑いを引いた声で、恥ずかしそうに頷くすずを抱きしめると、柔らかな髪に顔を埋めた。
 そっと回された腕を強く引き寄せるかわりに、隙間がなくなるほど胸の中に閉じ込めて、稽古の間……たった半日の間に失ったすずの温もりを取り戻す。
「あっ」
 短くあがった驚きの声に首をかしげると、おかえりなさいと少し遅れた挨拶が返ってきて、ついに堪えきれなくなった唇がゆるゆると融けだした。
「……ただいま」
 もう一度すずの元へ帰ってきた挨拶をして、昂った感情に逆らいもせず愛しい恋人へ口付けを落とすと、つかの間驚いて震えた唇がやがてしっとりと迎え入れてくれる。
 ただいまと言うのが、こんなに嬉しいなんて。
 帰る場所が待っていると確信できるのが、こんなに幸せだなんて。
 すずは自分の存在がどれだけ大きな意味をもつのか、わかってくれているだろうか。
 その輝く瞳で僕を待ってくれているのが、どれだけ心強いか。
「愛してるよ」
 溢れる気持ちを表すのに、こんなありふれた言葉しか出てこないのが歯がゆくもあり、役者として悔しくもある。
「うん、あたしも……愛してる」
 あぁ、けれどすずの口から出れば、同じ言葉も無数の彩を含んで、全てを浄化しながら心の奥に降り積もる。
 幾度も重ねて、いつしか僕の中がすずで埋められる日が来ればいい。
 またキスをして同時に見詰めあうと、すずの顔が花開くかのようにふわりと綻んだ。
「えっと、依織くんとこうしてるのは好きなんだけど。ずっとここにいるわけにもいかないね」
「確かに」
 胸のうちで逡巡する想いと裏腹に、片手で事足りる言葉しか交わさず抱き合ってる場所は、いまだに玄関だ。
 すずを前にすると辛抱できないという先ほどの言葉を肯定しているのを、声に出して笑いあいながら、身じろぎする体をそっと離して覗き込む。
「今日はまた、一段といい匂いがしているね」
「えへへ、だって」
 嬉しそうに頬を染めたすずが唇を寄せると、とても大切な事実を告げるかのよう厳かに言葉をつむぐ。
「今日は、依織くんの誕生日だから。……おめでとう」
 生まれて来た事が、今まで通ってきた過去が、全て祝福されている一言に胸の奥が熱くなる。
 他人も自分さえも信じることが出来ずに、松川依織という仮面を被って生きていた日々に飛び込んできた少女が、なにより大切な存在だと気がつくのに時間はかからなかった。
 絶望さえ必然だったと思える出会いを、運命と呼んでもいい。
 出会うべくして出会ったと、空気より自然に思える相手が気持ちを返してくれるのを運命としか表現できなくても、負の感情は浮かんでこない。
 大仰に賛辞を重ねて褒め称えるより、シンプルな言葉一つしか思いつかないのがただただ喜ばしい。
 すず……僕だけのお姫さま。
「僕にとっては、すずが生まれてきてくれた日の方が大切だけどね。ありがとう……祝ってくれる気持ちが何より嬉しいよ」
「やだなぁ、依織くんってば」
 面白いことを聞いたという風情でころころと笑うすずが愛らしくて、大きな子供に戻った僕は逆らえない。
 言葉一つすら思いつかずに、抱きしめる。
 玄関から一向に進まないと、お叱りを受けたのはついさっきだというのに、ね。
「んもう……冷めちゃうよ」
 知らずに見るものがあったら、どちらが年長かわからない態度の差をたしなめられて、すず自身の芳香に混ざって僅かに漂う美味しそうな匂いを吸い込むと、しぶしぶ腕を開いた。
「すずが腕によりをかけた料理を、台無しにするわけにはいかないね」
「そうだよ、依織くんが好きなのばっかり作ったんだから」
 だからこういうのはもうお終いと背をむける間際、桜色に染まった頬を膨らませていた様子に悪戯心を刺激されて、テーブルへと誘う後姿へ自然と口が開いた。
「まずは、すずの手料理で食欲を満たして、次は」
「な……っ」
 振り向いた顔は桜から紅梅へと華をかえ、ほのめかした要求を理解したと雄弁に告げている。
「依織くんっ」
「なにかな、お姫さま」
 しれっと訊ね返した態度に、呻きとも唸りともつかない声をあげてから逸らした顔には、はにかみの中にも期待が見え隠れしていて十分満足させられた。
「ぅ……とにかく、ごはんにしよ」
「ふふ。かしこまりました、お姫さま」
 いくら僕のために用意してくれていたとはいえ、触れ合いよりも優先されたとあっては男のプライドに関わるから。
 そんな事にこだわって、すずをからかうような真似をしている方がよほどプライドに関わると思い当たり、口の端に浮かんだ笑みが自嘲で崩れた。
「こんなところを見られたら、どう囃し立てられるか」
「ん、何か言った?」
 漏れていた呟きに反応したすずが、振り向くなり不思議な顔をして首をかしげる。
「少し思ったんだ。こんな僕をみたら、皆……あの冷静沈着な一哉でもさすがに驚くかな、と」
「みんな……あっ」
 てっきり大笑いでもされるかと思ったのに、すずは短く高い声をあげるとパタパタとスリッパを鳴らし駆け出していった。
「真っ先に伝えようと思ってたのに、忘れるとこだった!」
「どうしたんだい」
 ダイニングとは違う方向、リビングへと向かった先からごそごそと物音が響いてくるのを聞きながら、ゆっくり後を追いかける。
「今日ね、みんなからプレゼントが届いたの。依織くんにって」
「みんなって、一哉たちかい?」
「うん、一哉くんがこれでしょ……こっちは麻生くん。あと、なんかよくわからないのが瀬伊くん。そしてこれが」
 次々と並べられる大小さまざまな箱を目にして、嬉しさよりも先に素直な驚きが沸き起こった。
 同じ屋根の下に住みながら、お互いに存在すらどうでもいいと割り切っていた元同居人が、誕生日を覚えていて贈り物までしてくるなんて。
 記憶力がいい一哉なら意外ではないけれど、麻生や瀬伊までとなると驚くことしか出来ない。
 男に贈り物なんて、彼らの範疇にないだろうに。
 ソファーに腰を下ろして手近な包みを一つあけると、有名な演目が記されたやや質素な冊子が顔を覗かせる。
 歳月を重ねた墨跡から察するに、そうとうな値打ち物……かな。
 一哉らしい。
 シルバーのアクセサリー、なにに使用するのか理解できない人形、どれも彼らの個性がでている。
「はは、なんて言えばいいのか」
 昔の自分に教えても、ありえない事と切り捨てていただろう。
「驚いた? 連続で届けられたからビックリしたけど、みんなの仲のよさは変わりないんだなーって、あたし嬉しくなっちゃった」
 爛漫に話すすずの中に、彼女がやってきた当初の冷え切った関係の記憶が残っていないと、なぜか安堵させられた。
 彼女は常に前を、そしてまわりのいい所を見ているからかな。
 同じ視線で僕を見てくれているのが、何気ない言葉で裏付けられて気持ちが浮き立つ。
「あ、それでね。これが皇くんから」
「皇?」
「うん、わざわざ自分で届けに来てくれたの」
「……ここに?」
 差し出された包みに膨らみかけた気持ちが一気にしぼんで、奥のほうから不快な蠢きがざわざわと這い出てきてしまう。
「ほとんど毎日のように稽古場で顔を合わせているのに」
「直接渡すのが照れくさかったんじゃない? 皇くんってそういうの苦手そうじゃない」
「確かにそういう性格ではあるけど」
「きっと、明日会っても知らんぷりするかもね」
 隣に座るなり、確信めいた口ぶりで皇を分析しては頷いているすずの様子に、子供じみた嫉妬が胸を貫く。
 いまさら、過去を蒸し返してあいつを責めるつもりはないけれど、何故……疑問が不審と共に渦巻いていた。
 狂気一歩手前の、執拗な独占欲が薄れたとはいえ、大事な女性を失うかもしれない恐怖はおいそれと消えるものではない。
「急ぐから、代わりに渡しておいてくれってすぐに帰っちゃったけど、コーヒーくらい出せばよかったかなぁ」
「すぐに帰った?」
 さっきから語尾があがってばかりだ。
「うん、それに不思議なこと言ってた。あたしへのお礼も、とかなんとか。ぶっきらぼうに言うだけ言っていっちゃったから聞き返せなかったけどさ」
 あいつがすずに何の礼を、すずがあいつに何を施したというのか、目のあたりにするために恐る恐る皇からの包みを剥がしはじめた。
 一枚、また一枚と剥いでいくと同時に、中からちりちりと転がる音がする。
「うわぁ、かわいい」
 やがてゆっくりと現れたのは、紅葉をかたどった大小揃いの飾りだった。
「ストラップかな。さっきから聞こえてたのは鈴の音だったんだぁ」
「これは根付けという着物用のアクセサリーだよ。同じ物をふたつだから、かわいいサイズの方はすずに、というとこだろう」
「いいのかな、依織くんの誕生日なのに、あたしまで」
「あぁ、貰ってやればあいつも喜ぶと思う。お礼だと言っていたのだろう?」
 流れるすずの言葉につられて、自然と口から出た言葉がハッと真芯に突き刺さった。
 あいつの本意を問いただしたわけではないのに、これに他意はないと急に靄が晴れたかの錯覚をおこす。
 兄弟の血がそう悟らせたのかもしれない。
 邪推して、疑うような真似をしたけれど、皇のいう“礼”とはきっと、すずが僕を救い出してくれたことへの感謝だ。
 僕が救われれば、悔やみつづけている皇も同時に癒されていくのだろうから。
 なるほど、だったら直接渡しに来なかった理由もわかる。
 過去は僕達の間で、けして口には出さないと暗黙の了解になっていたから、二つ揃ってあることの説明も出来ないだろうし、すずの鋭い分析を借りれば皇にとって苦手な事の筆頭だろう。
 素直に腹をわって話すことができないから、すずを挟んで探り合うのか。
「まったく、ひねくれているね」
 皇も、僕も。
 いつかはそんな関係が変わるだろうか、……なにもなかった幼い頃のように、並んで笑う日が来るだろうか。
「ひねくれてるっていうか、すごく不器用なだけじゃない? 依織くんが大切だって気持ちは伝わってくるもの」
 目の高さに掲げてしげしげと見詰めているすずの手で、根付けがちりんとささやかな音をたてて揺れ、光を受けた朽葉色が内から輝きを放ち始める。
「そうなんだろうね。きっと」
 きっと、すずがいれば大丈夫。
 耳に届く鈴の音のように、彼女が導いてくれるから、迷い迷ってもう奈落に落ちることはない……、二人とも。
「にしても……何のお礼なんだろ……あたし何かしたっけ?」
「すず」
「なに?」
「今度、これに合う着物をあつらえて出かけようか。あぁ、そうだ……紅葉狩りなんていいね」
「うん、いいね」
 隣で微笑む彼女の肩を抱き寄せながら、近い将来と長い未来を思い描くと、触れ合う先から幸福が染み込んでくる。
「では、その話は料理をいただきながらしようか」
「そうだった! もう完璧に冷えちゃってるよ」
「それでも美味しいに決まっているさ」
「そうだといいんだけど……。自信があるのは料理くらいなんだもん。みんなのプレゼントがどれも素敵だから、あたしの用意したプレゼントでガッカリされちゃうんじゃないかって不安だよ」
 僕がすずに関して辛抱できないのと同じくらい、すずがしてくれた事で落胆するなんてありえないのに。
 不安をかき消せればと、抱く腕にそっと力を込め何度目かのキスを交わした。

あとがき

卒業後に、二人で暮らしているという設定で

大人気ない松川さんを書きたかったのになぁ……
呼吸より自然に女性を褒める究極フェミニストの松川さんを書きたかったのになぁ……

書いてる途中で流れが変わるのは、よくあることですのよ

にしても、私が書く誕生日おめ話には
それだけじゃなくて通常の創作にも
食事を作るシチュが多いですわー
飢えてんのか?

なにはともあれ
誕生日おめでとう!松川さん