花の言葉に誓いを
差し出された手ぬぐいを礼を言って受け取り、挨拶してまわると稽古場を後にした。 控えの間に戻ると、片手で帯を解きながら携帯電話をチェックする。 習慣になった一連の動作が“右京”から“依織”に意識を切り替えていく、この瞬間がたまらなく心地よかった。 「……すず? いま終わったよ」 “依織くんっ、おつかれさま!” 「ふふっ、ありがとう」 “もうすぐ依織くん家につくところだよ” 「僕は、そうだね……一時間くらいで着くかな」 “はーい! 待ってるねー” 会話を終えると、途中から背後に感じていた気配に向き直る。 「……皇、何か用かい?」 「いや……」 次に口にしようとしている内容をためらっているのが、空気で伝わってくる。 「その……快く思ってない、人がいる……俺が言えた事じゃないけど」 言いよどんだ様子から、相手が誰なのかを悟った。 「わかってるよ、皇」 差し出された手を振り払うようなセリフだと思いながらも、先を続けないわけにはいかなかった。 「だけど、ほっといてくれないか……舞台には、関係ない」 間に埋められない奈落を挟んで、視線だけで会話をする。 先に目をそらしたのは皇……たった一人の弟だった。 「じゃあ、お先に」 キーを掴むと、戸口をふさいでいる影の脇をすり抜ける。 背中に感じる視線を無視すると、夕暮れが迫る街の中へと踏み出した。 帰宅を急ぐ人々が詰まった車が群れをなし、秋風が舞う道路を横目に駐車場へ向かう。 エンジンをかけると重低音が返事をした。 ふぅ……と息を吐き出し、ダッシュボードのサングラスを手に取る。 日差しを考えればもう必要の無い物ではあったけれど、復帰するという噂を聞きつけたマスコミが動き出している現状では、用心するに越した事はなかった。 そのせいですずにも不便な思いをさせている……。 苦々しい気持ちを込めてアクセルを踏み込むと、急かされた事に不満そうなエンジン音が答えた。 「おか……あ、えっと、お邪魔してます」 はにかんだ笑顔でドアを開ける仕草に、強張っていた唇が柔らかく溶け出す。 「すず、おかえりでいいんだよ。その為に合鍵を渡してあるんだし、その方が僕は嬉しいのだから」 「でも、何だか慣れなくて」 「どうして? 一哉の家ではいつも素敵な笑顔で言ってくれただろう?」 「素敵だなんて……あの、おかえりなさい」 「ただいま、すず」 赤く染まった頬に唇を寄せながら、この腕の中の存在こそが“依織”になる最後の鍵なのだと改めて感じる。 傷一つない陶器のような肌に、朱を染め付けるようにキスを繰り返した。 「ん……あっ…………い、いおりくん?」 「うん?」 「ごはん、できてるからっ……ぁ」 なごり惜しさに引き戻されそうになる唇を放し、かわりに指で伝いながら、破られるはずの無い約束を取り付ける。 「続きは……その後で?」 ほんの少し上下する顎は、限りなく幸せな返事。 「いい匂いがしているね」 「今日は肉ジャガと……」 「ふふっ、すずの事だよ」 「依織くんは、すぐそういう事いうんだから」 「すずがあんまりにも可愛いから」 「依織くんっ!」 他愛の無い賞賛にすら、恥じらいをみせる様子に目を細めながら、連れ立ってテーブルへ向かう。 こうして二人同じ時間を過ごすことが、僕にとってどれだけ大きな意味を持つか。 以前のような半ば依存に近い恋ではなく、自然に隣にいてくれる存在そのものの愛。 二度と思い出したくも無いと思っていた過去さえ、冷静に振り返らせてくれる君を、どれだけ褒め称えても足りないというのに。 「あ、そうだ! 真っ先にお知らせしようと思ってたのに忘れてた!」 「何かあったのかい?」 「うん、一哉くんが電話をくれて。あのね、もうマスコミが動く事はないから安心して専念してくれ、だって」 「一哉が?」 「その……気にしてるみたいだったから、この前ちょっと相談したの」 「……そうか」 「勝手に、ごめんなさい」 「あぁ、不快に思っている訳じゃないよ。すずに気を使わせてしまって申し訳ないと思ってね」 マスコミに追いかけられた所で、すでに自分には揺るぎない物がある。 気にしていたのは、すずの事を面白おかしく書き立てられる事への不安だけだった。 相談を受けた一哉もそれを案じたのだろう。 すずは気がついていないのだろうが……気付かせるつもりもないが。 「依織くん?」 「僕は幸せ者だね、ありがとう、すず」 「よかったぁ、依織くんが笑ってくれた」 花開くような笑顔につられて、またキスを降らせる。 「あ……これ、じゃ……いつまで……たっても」 「そうだね、せっかくのご馳走が冷めてしまう」 「うん、あったかいうちに食べて?」 ここしばらくは、こうして夕食を共にする事しか出来なかった。 何も後ろ指をさされる謂れはないのに、こそこそと通わせる自分に歯がゆい思いが募っていたが……その点では素直に一哉に感謝しないといけないようだね。 すずと一緒に行きたい場所はいくらでもある。 日中は無理だとしても、夜の海をただ静かに見に行くだけでも……それすら贅沢だと思っていたが、これからは。 「すず? 今度の」 所狭しと手料理を並べているすずに視線を向けると、その先にひっそりと飾られている花に気がついた。 「なぁに、依織くん? ──あ、これ? うちの庭先に咲いてたから」 「……秋桜か」 たしか花言葉は……。 「なんて事ない花だけど、あたし結構好きで」 “乙女の真心”それに 「少しでも華やぐかなー? って思って。あ、今のダジャレじゃないよ!?」 「……まいったな」 「わっ、だから、そんなつもりで言ったんじゃないのっ」 「すず……お願いがあるんだ」 「あぁ、もう、恥ずかし……え、お願い?」 手をとって椅子へといざなう。 「今度、稽古場に来てくれないか」 「お願いって、その事?」 「そう……僕は役に入り込んでしまう性質だから、すずの相手は出来ないだろうし、見ていてもつまらないかもしれない、だけど“松川右京”の僕も見てもらいたい」 「いい、の? だって、大事な時期じゃ」 「全ての僕を見て欲しい」 「うん、わかった」 まだ完全には納得していない顔で頷いている。 この場で自分の気持ちをすべて説明するには、言葉はあまりにも頼りなかった。 言葉にしたら却って陳腐になるだろう。 目で耳で……感覚でわかって欲しいと願うのは我が侭だろうか? すずにとっては何気ない行動の、ただ俺を喜ばせようとした気持ちの先に、なにが待っているのかを。 「いお、右京……その、いいのか?」 「何がだい?」 「だって、今日は」 「余計な事は考えずに、おまえはおまえの演技をすればいい」 戸惑う視線の先には、かしこまって座るすずがいた。 なにもあんなに緊張する事はないのに……本来、緊張するとしたら僕の方なのだろう。 けれど心からも体からも余計な力が抜けていた。 目を閉じると、あの秋桜のある光景が浮かんでくる。 すずが何気なく贈ってくれた、あの花の花言葉……乙女の真心……そう、彼女はいつも心から接してくれる。 その気持ちに応えるには、今の自分には不完全なところがある。 ──もう一つの花言葉 ふと肌で感じる空気が引き締まった。 屋号が染め抜かれた暖簾をくぐって入ってきたのは、父……それよりも師匠であることが長い存在。 稽古場にいる全員がはかったように一礼する脇で、すずが慌てて頭を下げたのをちらと見て、問いただすような視線を向けてくる。 やがて静かに腰を下ろすと、心の奥まで覗き込むような目で告げた。 「はじめなさい」 音が消えていた稽古場に、衣擦れと息遣いが戻ってきた。 三味線と長唄が響く。 そして“右京”が舞い始める。 稽古とはいえ、意識は役の中にしか無かった。 この瞬間はすべてを歌舞伎に。 自分の持ちうる、全てを出し切って……。 再び音が消えた空間で、自分の荒い呼吸を耳にしながら、ただ一人の声を待ちわびる。 「……この調子で精進しなさい」 声の主はそれだけ語ると、端で固まっているすずの前を通って場を後にした。 一瞬の後、周りを人が埋め尽くす。 「素晴らしかったです、右京さん!」 「これで復帰公演の成功は約束されたようなものですよ」 次々に寄せられる賞賛の言葉。 その垣根の向こうで、すずがそっと席を外したのが見えた。 稽古場の外を見渡しても姿が無い。 駐車場まで行っても見当たらない事に、わずかな不安が胸に差し込む。 一度引き返そうとした耳が、わずかな物音を拾い上げた。 「すず?」 車の陰にうずくまる姿を発見して安堵のため息をつく。 「探したよ」 「ゴメ、あの、あたしっ」 ごしごしと顔を擦ると胸に飛び込んできた。 「うまく言えないんだけど、いろんな気持ちがいっぺんに浮かんできちゃって、我慢してたんだけど……依織くんのお父さんが」 「父が? なにか君に」 「依織をよろしく……って」 では、あの時……? 歌舞伎に関する限り、決して口にしない名をあえて使ったという事は、認めてくれたという事なのだろう。 「そしたら止まんなくなっちゃって……お稽古を見てる途中も、キレイとか凄いとか、いっぱい思ってて」 ぎゅっと腰にまわされた腕に力が入る。 「本当に歌舞伎が好きなんだなって……なんか嬉しくなっちゃったの。あぁ、あたし、そういう全部の依織くんが好き、本当に好き……もう何いってるんだろ、あたし」 返す腕にも自然と力が入る。 「すず、すず? ……ありがとう、そう思ってくれて、感じてくれて」 道を行き交う人の視線も気にならなかった。 「僕の方こそお礼を言わせてくれないか」 「え? なんで」 「君がいるからこそ今の僕があるからだよ。もう舞台に立つ事もないと、家族や誰とも気持ちを通わす事もないと思っていた僕に和を取り戻してくれた」 秋桜のもう一つの花言葉……“調和” どこか欠けていた感情を取り戻してくれた君がくれた言葉。 すずは、知らず知らずのうちに周囲に輪をなじませ、和ませては作り上げていく。 あの晩、かけがえの無い存在に応えるために、もう一歩、踏み出さなければと思った。 稽古をしながらずっと感じていた不安定さは、自分の内にあった壁のせいだと、気付かされた。 父や……皇と、完全に心通う日はまだ先になるだろう。 けど、この腕の中の君が、これからも傍にいてくれる限り、それは想像より簡単なことなのかもしれない。 「すず、気がついていた? 今日が僕の誕生日だって」 「もちろん、忘れる訳ないよ」 「さっきの言葉、なによりも嬉しいプレゼントだったよ」 「あたし」 「本当にありがとう……愛してる」 「あ、あの、人が見て」 「かまわない」 敬愛を込めてそっとキスをする。 おずおずと、生まれ変わった心に栄養を分け与えるような、キスを返される。 “依織”──“右京”──どの顔の僕も受け入れてくれた君に、ゆるぎない愛を永遠に。 肌に当たる秋風に、心の中の秋桜が微笑むように揺れていた。 |
あとがき
松川さん、誕生日おめでとう!と、いうつもりの話
だけど、誕生日の事がまったくといっていいほど出てこない話
まいったね
そしてまた、むぎを泣かせてしまったよ
それに激しく偽者だよ、松川さん
秋桜を見て花言葉が気になり、ちょっと調べてみたら「松川さんとむぎっぽい」と思ったのです
花言葉は厳格な定義がないので、あくまでも代表的なものを使いました