生涯のオムニア


 鍵を開けるという行為ほど、人によって捉え方が違うものはないと、手にしたキーホルダーを鳴らしながら思った。
 一哉の家からそれぞれが巣立ち、もう1年近くたつ。
 すずがやって来るまで、あの家で鍵を開けるというのは、ただ住まいに帰るという意味しかなかった。
 すずが迎えてくれるようになってからは、その姿を目の端にでもいれることが出来ればと、祈りながら鍵を開けた。
 そして今の僕にとって、稽古を終えて自宅に戻り鍵を開ける、その瞬間は笑い出しそうなくらい幸福なひと時だ。
 彼女が僕だけに“おかえり”と言ってくれる、これを幸福以外に表現できない自分を笑いたくなる。
 僕の価値観は、すずの全てに委ねられていた。
 彼女が笑い、悲しみ、憤り……全ての感情を受けて、松川依織という人間が動き出す。


 全て……。
 キーをポケットにしまうと、手にした袋が僕に代わって笑ったのか、カサッと音をたてた。


 扉を開けると、中から溢れた香りが僕を包む。
 甘く室内を漂う正体は、今日この日に関係した香り。
 口元が笑みで緩むのを感じながら、身に纏ってきた“右京”を脱いで依織に戻る。
「ただいま」
 マフラーを外しながら声をかけて、元気な返事が返ってくるのを期待した。
 一拍……二拍……?
 耳にすれば疲れが吹き飛ぶほど弾む声が、いつものように返ってこない事に違和感を感じて玄関へ視線を戻すと、確かにすずの靴は存在している。
「すず?」
 首をかしげながら名を呼んで、灯りがついているキッチンへ向かい、なにげなく戸を開けた。
「すず!」
 カウンターの前に置かれた椅子、その上でぐったりしているのは……。


 目にした瞬間、全身をつめたい血が駆け巡った。


 まるで凍った手で心臓を鷲掴みされたような感覚に、肺が呼吸を忘れそうになる。
 急に僕の周りだけ、酸素が消え去ったと感じるほどの閉塞が身を縛る。
 手にしていた荷物が床にあたった鈍い音に、はっと我に返り、急いで傍へ駆け寄るとくぐもった呻き声が耳に届いた。
「んー」
 よりハッキリとした呻きが、突っ伏した腕のすき間から聞こえて、見えない糸に引っ張られるようにぐらりと背が揺れた。
 まるでスローモーションを見ているみたいに、ずるずると崩れ落ちそうになる体を慌てて受け止めると同時に、腕にかけておいた筈のマフラーがふわりと床の上に舞い落ちる。
「しっかりして」
「あ……いおりくん」
 詰めていた息を吐くと、しなやかな腕が首筋に伸びてくる。
 肩にもたれかかる顔から、甘い香りが満ちている室内を縫うようにして、ふわりと別の匂いが掠めていった。
「おっかえりー」
 傾いだ体を椅子の上に座り直させてその目を覗き込むと、艶かしささえ感じるほど潤んだ瞳が、僕を捉えて微笑みを返す。
「どういうことか説明してくれるかな?」
 うんっと元気良く首をふった後、頭を押さえて顔をしかめているすずに、やれやれと横に首を振った。





「まったく……いけないお姫様だね」
 ラム、ブランデー、コニャック、コアントロー……ずらりと並んだ、それも度数が強いアルコールばかりにため息をつく。
「ちょっとしか、ほんとに舐めるだけ、ぐらい」
「慣れていないのに、無茶もいいところだ」
「だってぇ」
 ひくっと喉を鳴らして、いつもより甘えた声音が異議を申し立てる。
「味がわからなかったら……じょうずに作れないと思ったんだもん」
 視線がカウンターの先へと向けられた。
 丁寧に器に並べられたチョコレートの中身が何なのか、頭を働かせなくても想像できる。
「すず……いくつ作って、いくつ味見をしたの」
「んー」
 指を折って数える姿は、大きな子供のようだ。
「4種類つくったの、だから味見したのも4種類」
「そうみたいだね」
 確かに、一つ取り上げたボトルを灯りに透かしても、量はさほど減っていない。
 けれど慣れていないすずには、それで十分だったらしいね。
 頬を紅く染めてニコニコと微笑む姿はとても愛らしいが、だからといって流す事はできない。
 腕を放しても倒れないか気をつけながら、静かに離しながら立ち上がり、冷蔵庫を開けると食べられるのを待つだけの料理がずらりと並んでいた。
 これだけの種類を用意するには、すずだってかなりの時間と手間がかかった筈だ。
 夢中になるとまわりが見えなくなるから。
 まさか、と思った瞬間に唇が動いた。
「すず? 昼食はなにを食べたの」
「ちゅう……あ、お昼ご飯? えーーーーっと」
「忘れていたんだね」
「みたい」
 空腹の状態で、本人はそれすら自覚していなかったとはいえ、慣れない酒をストレートで胃に入れればどうなるか、その結果が椅子の上から笑顔を絶やさずに見つめている。
 ミネラルウォーターのボトルを取り出して蓋を捻ると、力の入らない手に無理やり持たせた。
「これを飲んで」
「うん」
 そう返事をしながらも動く様子のない手から、ボトルをそっと取り上げて口に含む。
「んっ」
 驚いて目を見開くすずにお構いなしに、冷えた水を口移しで渡すと、喉がなって素直に飲み下していった。
「酔い覚ましに一番、効果があるんだよ」
 また一口含んで繰り返す。
 互いの唇がひんやりとし出した頃に、ようやくボトルが空になった。
「……あたし酔ってないよ」
「酔ってる人は皆そう言うね」
「へぇー、そうなんだぁ」
 勉強になったと言いたげに目を輝かせて、くすくすと笑い声をあげはじめた。
 軽やかな笑い声は、好きだけどね。
「すず」
 少しだけ感情を込めて名を呼ぶと、笑い声が収まって、代わりにみるみる申し訳なさそうな表情があらわれた。
「ごめ……なさい」
 目線を落としてうなだれる頬に手を添えて上向かせる。
「怒っているわけじゃないから安心して」
 探る視線に微笑み返すと、目の奥で少しずつ緊張が解けていく。
「なにか……病気や、怪我でもしたんじゃないかと」
「え?」
 虹彩さえ確認できそうなほど、近い距離で見上げる目元にそっとキスをして、心を探りつづける視線を逸らした。


 すずの姿を目にした瞬間、湧き上がった感情はまぎれもなく恐怖だ。


 最悪の想像が頭の中を支配して、心を侵食されるような恐怖に我を失いそうになった。
 波が大地を少しずつ削るように、出会ってから今まで、すずの全てが僕の壁を削り新たな形を作り上げてきた。
 自然の営みが繰り返されるのと同じで、ごく当たり前に不愉快さを感じる事も無く。
 それが突然、奪われるかもしれないという恐怖は、常に心の底で渦巻いている。
 もう二度と愛する人を手放す痛みは味わいたくない。
 だから僕の全てで慈しみ、一瞬一瞬を大切にする。
 それほど愛していると、もう何度、自覚したことか。
 そのたびに深まる気持ちは、尽きるところを知らない。
 今日がバレンタインデーだというのも関係しているのだろうか?
 世界中が恋人達を祝福している日に、また愛を確認している。


「あまり驚かせないでくれないか、すずの身になにかあったら……そう考えるだけで耐えられない」
「うん、ごめ……」
 また謝りそうになる口を軽く指でなぞると、狙い通りに言葉が吸い込まれて消えた。
 謝って欲しいわけじゃない。
「……僕のために、そんなに張り切らなくていいんだよ。ただ傍にいてくれるだけで嬉しいのだから」
「でもっ」
 必死さが言葉をさえぎる。
「あたし、喜んで欲しくて……あまり甘いの好きじゃないでしょ? でもやっぱりチョコを渡したくて、どんなチョコにしたら依織くんが喜ぶか、それだけしか頭になくて」
「うん、ありがとう」
 その気持ちを疑ったわけではないのに、このお姫様は。
 強張って椅子をつかんでいる指を持ち上げ、優しくあやすように唇を寄せる。
 わかっていると気持ちを込めて微笑むと、ようやくいつもの愛らしい笑顔が浮かんだ。
 僕が望んでいるのは、この笑顔を絶やさずにいてくれることだけ。
「すずが作るチョコレートなら、どんなものでも嬉しいのに」
「ほんと?」
「たとえその辺のコンビニで買ってきた物でも、すずが僕のために選んでくれたというだけで喜んだよ」
 去年のバレンタインを思い出して、同時に笑った。
 あの時は一哉が大変な事件に巻き込まれていたから、付き合っているといってもすずはそれどころじゃなかった。
 僕もそれを咎めるつもりなんて無いからこそ、二人の間で笑い話に出来る。


 記憶がふいに巻き戻りはじめた。
 あの日、申し訳なさそうに差し出してくれたあの瞬間は、記憶の中で甘い匂いとともに薄れずにいる。
 他の思い出と一緒で消えることはなく、これからもそんな幸せな記憶が増え続けていくのだろう。


 繋いだままの指先から記憶がシンクロして、すずの笑いがさざ波のように伝わってきた。
「去年は間に合わせになっちゃったから、今年はずっと前からどうしようか考えてたの。けど、張り切りすぎて余計に心配かけちゃった」
「とりあえず、もうお酒は口にしないこと。自分がアルコールに弱いってわかっただろう?」
「うん、もう飲まない。味見くらいなら平気かなって思ったのに、ちょっと時間たったらお腹の中が燃えてるみたいで、頭もくらくらして来ちゃって」
 その瞬間を思い出したのか、軽く眉をしかめている。
 酔った初体験はすずの中で苦い思い出になりそうだね。
「それに、法が許す年になっても、僕以外の男の前で呑まないこと」
「なんで?」
 ふと脳裏に浮かんだ姿に、知らずと嫉妬を滲ませて告げる僕を、すずが少し驚いて見つめ返した。
 柔らかな肌の感触で苦々しげな口調がわずかでも和らいでくれれば、そう思いながらその顔に手を添えて口を開く。
「目元を赤く染めて、甘えるように寄り添ってきて……そんなすずを他の男の目に一瞬でも見せたくない」
「あ、あれは依織くんが帰ってきたから、嬉しくなっちゃっただけで」
 普段なら恥ずかしがって自分から抱きついたりはしないすずに、わざわざ思い出させるあたりが我ながら子供っぽいと思うのに止められない。
「俺以外のやつが目にしてどう思うか、想像するだけで胸を掻き毟られそうだよ」
「そんな」
「約束してくれるね?」
「……うん」
 一度、離してから、また絡ませた小指をそのまま引き寄せて、キスで約束を刻み込む。
 嫉妬で足掻く男の強引な約束を、どこか嬉しそうに受け入れるすずに思わずキスが唇へと移動した。
「ふふっ、お酒の味がするよ」
「お酒……あっ」
 何を思いついたのか、唐突に立ち上がろうとしたすずがふらっとよろけた。
「急に動いたら駄目じゃないか」
「でも、チョコ渡さなきゃ。自分の手で渡したいの」
 視線を前だけに向けて、進もうとする体を止めても無駄だと、ため息交じりの笑いが漏れる。
 こうと思ったら何があっても考えを変えない、無鉄砲なお姫様。
 そういうところも好きになった僕の負けだ。
「ちょっと予定が狂っちゃったけど……はい」
 レースペーパーの上で、着物の重ね目のように少しずつ色味の違う褐色が、艶を放っている。
「ありがとう」
 礼を言いながら受け取ると、期待に目を輝かせているすずに感謝を込めたキスを返した。
「あっちで頂こうか」
 大分はっきりしてきたとはいえ、まだ覚束ない背に手を添えてリビングへ促すと、床に放り出されたままの紙袋が目に飛び込んだ。
「すっかり忘れていたよ」
 帰宅してからの騒動で頭から消え去っていたそれを、苦笑しながら拾い上げる。
「それ何? ファンからの贈り物?」
「さあ、なんだろうね」
 軽く振って大事がないか確かめて、すずと一緒にソファーへ座った。
 すずからのプレゼントを一先ずテーブルに置いて、渡されるのを待っている袋を差し出す。
「すずが作ってくれたチョコレートを食べる前に……これは僕からのバレンタインプレゼントだよ」
「えぇ!? だって、今日は」
「日本ではね。恋人が互いに贈り物をしあう習慣の方が世界では多いんだ、それに店先でみかけて余りにも僕の気持ちにぴったりだったから、ついね」
「つい、が多すぎだよ……依織くんは」
「嫌かい?」
「ううん、嬉しい。けど、あたしのために、そんなにしてくれなくていいのに」
 それは僕がさっき言ったセリフと同じことだと、気がついていない様子のすずに温かい気持ちが増してくる。
 互いに互いを想いあって、それでもまだ足りないと……そんな付き合いを重ねて一生が過ぎてしまえばいい。
「開けてみて」
「あ、うんっ」
 かさっと音をたてて中から取り出したのを見ながら、手にしたチョコレートを一粒口に入れた。
 すずがリボンを解くのと同時に、舌の上で薄いチョコの壁が解けて、中から溢れたアルコールが喉を焼け落ちていく。
「これはブランデー、かな」
「これ……香水?」
「そう」
 計ったように同じタイミングで口を開いて、同時に微笑を交わす。
 それすら喜ばしい祝日の奇跡かもしれないね。
「うん、美味しいよ」
「えへへ、よかったぁ……あれ? なんだか変わったボトルの形だね」
 インフィニティーを模ったボトルに入っている香水の名は、ラテン語で“全て”を意味している。
 無限大の愛情を全てすずに注いでいる僕が、ふと立ち寄った店でこれを見た瞬間に手にしたとしても、無理もない話しだろう。
 また一つ口に入れるとラムの香ばしい香りが口の中に広がった。
 見た目からはどれも同じに見えるチョコレートが、次々に違う顔を見せる様すらすずらしい。
「あれ? これ……開けられないよ」
 苦戦している指から香水を受け取り、手本を見せてから首筋に香水を纏わせた。
 濃厚でスパイシーな香りが肌の上で暖められて、二人を包み込む。
「すずのイメージからは少し早いかなと思ったんだけど……うん、そうでもないね」
「うわぁ、いい匂い」
 首筋に寄せた手首を顔に近づけて、吸い込んでいるすずが官能的な表情になった。
「この香水のラストノートには」
「ラストノート?」
「最後まで残る香りの成分、残り香といったところかな? そう、それで何が残ると思う?」
「んー」
 眉を寄せて悩む様子に、口元が緩む。
「ホワイトチョコレートだよ、他にもいろいろ調香されているけれど」
「そうなんだ! あ、じゃあ」
「バレンタインデーにぴったりだと思わないかい?」
「ほんとうに!」
「ラストノートは、つけてから半日くらいたたないと判らないんだ、それも肌にほんのり残る程度で、その人自身の香りと合わさってしまうから、ほとんど他人には気付かれずに消えてしまう」
「ちょっともったいないね、半日しないとホワイトチョコわからないんだ」
「僕に教えてくれるかい? すずの上でどう変化して、どう薫るのか」
「え、だって……あ」
「そう、僕に会う日は……朝つけてきて」
 どうやって隠れているチョコレートを確認するのか、想像したらしいすずの顔が酔いが覚める前以上に赤くなる。
 その様子に微笑みかけて、また違うチョコレートボンボンを口に含んだ。

あとがき

フルキス大人組は、とことんむぎを甘やかすと思います
よって、バレンタインデーも貰いっぱなしじゃなくて
何か用意してそうだな・・・特に松川さんは・・・
と思ったので、つい

タイトルに名を使ってますが
オムニアは実在するパルファムで、意味もその通りです
ラストノートにホワイトチョコというのを偶然知って
「ネタに出来るじゃん、これ」
と温めておりました

キャップを開けるのに苦戦・・・実話です(笑)


何はともあれ
スイート・バレンタイン!依織&むぎ