重なる気持ち

 姿が見えないのは承知の上で辺りを見渡すと、深呼吸を一つして息を整えた。
 肺に突き刺さる澄んだ空気がすごく美味しく思えて、火照る顔を片手で扇ぎながら近くにあったベンチに腰掛けると、時間を確認して照れ笑いを漏らす。
 待ち合わせの時間までは、まだ十分以上ある。
 一秒でも遅れるわけにはいかないから、昨日の晩は目覚まし時計を三つもセットして準備したんだから当然。
 目覚ましセットした時間よりも早く起きて、鳴り出すと同時にベルを止めたくらいだから、意味がないんだけどさ。
 あれこれ悩んで服を決めて、朝ごはんもなんとかかき込んで、それでも全然進まない時間にもどかしくなっちゃって、結局予定よりも随分早く家を出た。
 だから走る理由はなかったんだけど、気持ちが昂って途中から自然と駆け出してしまったんだ。
 走ればその分、早く香穂ちゃんに会えるような気がしちゃったんだ。
 また時間を確認して、一分も進んでいないのを目にすると、座ったばかりのベンチが暖まる間もなく立ち上がった。
 ジッとしてなんかいられない。
 なんたって、今日は香穂ちゃんと、その……デートなわけだし。
「デートって……うわ」
 口にすると照れくささと恥ずかしさが同時に襲ってきて、やっと収まった動悸がまたテンポをあげて刻み始めた。
 耳の中で大音量のファンファーレが鳴り響いてるみたいで、頭がクラクラしてくる。
 言葉一つでここまで動揺するなんて、本人に会ったらどんな顔をすればいいんだよ。
 落ち着け……落ち着けと、呪文のように繰り返しても顔は熱くなるだけで口の中が乾いてしまう。
 家に居ても落ち着かないから、待ち合わせの時間には早いと知りつつやって来たってのに、どこにいても落ち着かないのに変わりないなんて、余裕が無さ過ぎて情けなくなってきた。
 柚木は毎日あれだけ女の子に囲まれてても、眉一つ動かさないでいられるのにさ。
 いくら柚木の方が半年早く生まれてるとはいえ、同じ年なのに大違いだ。
 いままでは性格が違うんだからと気にもしていなかった事が、心にひっかかって仕方ない。
 こんな俺を見たら、呆れるかなぁ……香穂ちゃん。
 髪の毛を掻き毟りながら天を仰ぐと、十二月に入ったばかりの澄んだ冬空から、弱弱しいけれどあたたかい陽の光が降り注いでいた。
 俺はこんなだけど、せめて天気が良くてよかった。
 日陰はさすがに底冷えがするけど、風がないぶん陽にあたっているとあったかくすら感じるほどの快晴に、強張っていた唇が自然と綻ぶ。
 天気がいいだけでここまで気楽になれるなんて我ながら現金だと思うけどさ、女の子は寒いのが苦手だっていうし、香穂ちゃんに寒い思いをさせながら歩くなんて嫌だ。
 かといって、寒さを感じるたびに喫茶店で休むのは、高校生の財布事情じゃちょっと難しい。
 限りのある小遣いをやりくりして、いくらかまとまった金額を残しておきたかった。
 ……クリスマスもあることだし。
 まだ誘ってもいないイベントのために、こういうのを捕らぬ狸の皮算用っていうんだっけ?
 でもちゃんとプレゼント用意したいし、いつもの寄り道先よりは気の利いた店でお茶くらい……そ れもこれも香穂ちゃんに喜んで欲しいから。
 想像がどんどん膨らんでいるのに気がついて、ため息混じりの苦笑いが零れた。
 今日だって、誘うまでどんなに苦労したのか……。
 思い出してまた苦笑いをすると、振り払うように大きく背を伸ばした。



◇◇


 
「楽譜を選ぶのを手伝って……は、ありきたりかぁ」
 折った指を元に戻しながら、思いついた口実を削除した。
 楽譜なら学校にいっぱいあるんだから、わざわざ外で会う動機にしては不自然だよね。
 第一、やってる楽器が違うのに楽譜を選ぶ手伝いを頼むって、そこからして不自然だ。
 素直な香穂ちゃんは疑うことなく誘いにのってくれるだろうけど。
 学年も学科も違うから、偶然、学校の中で会える機会なんて滅多にないからなぁ……。
 付き合いが悪くなったななんて、冷静にひやかす柚木にもごもごと言い訳して、昼休みや放課後のわずかな時間を香穂ちゃんと過ごすようにしてるけど、全然たりない。
 毎日でも、何時間でも、香穂ちゃんと一緒にいたい。
 会って何をするかなんてどうでもいいんだ。
 他愛の無い話をしたり、香穂ちゃんのバイオリンを聴いたり、そんな普通の時間がすごく大事に思えるから。
 一緒にいられるだけでいいんだ。
「コンサート……は、こないだ行ったし」
 曲げかけた指をすぐに戻して、いい案が浮かばない不器用さを嘆く。
 騙しているみたいで気が引けるけど、時期が時期だけに誤解をされたくないから、いつくもの案を思いついては打ち消すのを繰り返していた。
 香穂ちゃんが覚えていてくれてる確信なんてないけど、もし……そう、もしも知っていたら催促しているみたいで恥ずかしい。
 ただ少しでも一緒にいたいから誘うのに、その数日後が俺の誕生日だなんて。
 本音は、一言おめでとうって言ってくれたら、飛び上がるくらい嬉しい。
 もっと本音を言えば、俺だって男なわけで。
 ふとした瞬間の笑顔とか、すっごくかわいい仕草とか見ちゃうと、とっさに抱きしめてキス……したくなる。
「あー、もう」
 そういう下心がバレてやしないかと不安だから、休みの日に誘うのをためらっちゃうんだよ。
 とにかく嫌われたくない。
 でも、会いたい。
「買い物、したいものなんてないし」
 曲げては戻すのを何回も繰り返して、まるでピストンを押さえてるみたいだ。
 さっきから動かしてるのは一つ目の口実すら決まらない親指だけで、トランペットを吹いてる状態みたいに人差し指たちは動いてくれないけど。
「……よしっ」
 うじうじしててもいいアイデアが浮かばないなら、気分かえてみよう。
 ケースから相棒を取り出して、冷えたマウスピースに息を吹きかける。
 それでも唇に触れたとたんに、ひんやりとした金属の質感が背中を震わせ、逆に気持ちが引き締まった。
 ベルを高く掲げれば、もっと気持ちが引き締まる。
 すっと息を吸うと、あちこちから聴こえる楽器の音に負けないよう、呼気を音楽に変えた。
 あれだけ大人しかった指が、生き生きと動き始める。
 やっぱり俺はトランペットを吹くのが好きなんだ。
 悩みとか全部吹き飛ばす勢いで頭の中のいろんなことを音にして、俺にしか創れない音楽を奏でていくのがすごく楽しい。
 考えるよりも先に動く指に任せていくつかの練習曲を吹き終えると、背後から拍手が聞こえてきた。
「先輩の音楽って、いつも元気いっぱいで思わず聞き惚れちゃいますね」
「香穂ちゃん! いつから?」
「けっこう前からですよ。廊下を歩いてたら聴こえてきて……先輩の音だってすぐにわかったから急いで来たんです」
「そっか」
「はいっ」
 嬉しくって、顔が緩んでしまう。
 練習室を取れなかった生徒が、学園のいろんなところで練習をしてて、もちろんその中には俺以外のトランペットの音もあったのに。
 俺が創る音を聴き分けてまっすぐやってきてくれたことも、にこにこと笑って見詰めてくれることも。
「香穂ちゃん、耳いいんだね」
 照れくさくてとっさに思いついた言葉をかけると、一瞬きょとんとした顔になってからくすくすと笑われてしまった。
「先輩の音だからですよ。あたし、先輩の吹くトランペットなら、どんなに小さな音でもわかる自信あるんです」
「そっか」
「はい」
 同じセリフのやり取りを繰り返す。
 けど、嬉しいと思う気持ちはさっきよりも大きくて、胸の奥が熱くなるくらいの感情に変わっていく。
 素直で優しい香穂ちゃんのなにげない言葉が、俺のことをどのくらい想ってくれてるのか現してるって感じたって、自惚れじゃないよね。
「あのさ、あの……」
「なんですか?」
「今度の日曜、どっか行かない? 香穂ちゃんと一緒にいたいんだ」
 心に浮かぶ気持ちそのものを言葉にしたら、あれこれ悩んだ口実なんてきれいさっぱり消えていた。
 スマートでもないし、余裕もない。
「わたしも、です」
 でもさ、香穂ちゃんが少し顔を赤くしてうなずいてくれたから。
 ただ一緒にいたいって気持ちに嘘や偽りがないって、俺の音と同じくらいまっすぐに伝わったんだと思ったら、香穂ちゃん以上に顔が赤くなるのがわかった。



◇◇



 ふと呼ばれた気がして顔をあげると、時間を確認してから辺りを見渡した。
 ほんの数分の間に人気が増えた公園のいたる所に、親子連れや恋人たちの楽しそうな顔が溢れてる。
 気のせいだったのかと思った瞬間、人の波の向こうから待ちわびた顔が駆けてくるのが見えた。
「先輩っ」
 風に乗って聴こえた名を呼ぶ声につられて、脚が勝手に動き出す。
 何十年も会っていなかった人と再会してるみたいだなんて思いながら辿り着くと、お互いに白い息を吐き出しながら照れ笑いを浮かべた。
「……走ってきちゃいました」
「はは、実は俺も」
 目が合って同時に吹き出すと、待っている間に冷えた体が底から温かくなってくる。
 ささいなことだけど、香穂ちゃんも俺に会うために走ってきてくれたってのが、すっごく幸せだから。
 一緒に過ごす時間を楽しみにしてたのが自分だけじゃないって、すごくすごく嬉しいから。
「じゃあさ、どこ行こうか」
「あ、その前に……ちょっと早いんですけど」
 差し出した手に、香穂ちゃんの腕じゃなくて綺麗に包まれた箱が乗せられた。
「これ……って」
「学校で渡すの、恥ずかしかったから……。三日早いけど、誕生日プレゼントです」
 心の中にはファンファーレが高らかに鳴り響いてるのに、いまの気持ちを表現できる言葉が見つからない。
「ありがと、香穂ちゃん。俺……おれ」
 こんな言葉なんかじゃ、全然伝わらない。
 感情にまかせて抱きしめると、はにかんだ笑顔が冷たい空気のせいだけとは思えないほど赤くなって、そしてゆっくりと唇が動く。
「誕生日おめでとうございます、先輩」
 なによりも嬉しい言葉を贈られて、周りの景色が消えていく。
 囃し立てる子供の声も、驚いてる視線も、海から流れてくる潮の香りも……。
 腕の中の温もりに敵う物は何一つなくて、抱きしめる力をわずかに強めた。