グレーゾーンの色は青



「あー、なんもなく夏が終わっちまったなー」
 十月に入ったというのにしつこい残暑を逃れて、ファストフードの百円ドリンクをすすっていた時だった。悠馬は参考書から顔を上げ、隣でぼやいた大河に怪訝な視線を向けつつ今朝の天気予報を思い出す。
「予報じゃ今週まで残暑厳しいって言ってたよ」
 本来、十月と言ったら秋本番で、涼しさより寒さを感じる日があってもいいくらいのはずだ。けれど今年は夏に強烈な台風が来て以来、気候はおかしさを修正できないままで、さすがに朝晩は涼しいが日中はまだ汗ばむ。現に悠馬と大河の高校も先日、暦に合わせて衣替えになったというのに制服が重い。
 これはやっぱり地球規模の環境破壊のツケか。季語も将来的には意味をなさなくなるかもしれない。受験が終わるまではもってくれればそれでいいけど。
 そんなことを考え、暑さの話題は終わったものとして再び古文の参考書に向かった悠馬に「そうじゃなくて」と呆れ混じりの声がかかった。
「そうじゃなくてさ、高校生らしい夏休みがなかったって言ってんの」
 今度は大河の言わんとするところがわかった。ようするに、彼女と海やプールに行っただの、花火大会で手を繋いだだの、キスとかそういう夏休み明けにクラスメイトが盛り上がっていたようなイベントがなかったと言いたかったらしい。
「しょうがないだろ。夏季講と図書館の往復だったし、生徒会の活動もあったし」
 ふてている大河にこの夏の現実を突き付ける。中学で生徒会に入り、そこで自分の目的より皆の目標を叶えることの充実感を覚えた悠馬と大河は、自然と高校でもその道を選んだ。
 生徒会メンバーで文化祭の準備に奔走した夏は、悠馬にとっていい思い出になった。恋愛事の優先順位が二の次、三の次と低くなるくらいには。
 そうではない大河に子供だと暗に言われている気がして、
「そもそも大河、相手がいないじゃん」
 一番イタイ現実で刺すと、親友は露骨にしょぼくれた。
「悠馬、容赦ねーなぁ」
「長い付き合い故の阻喪な発言を陳謝する」
「ま、ほんとのことだからいいけど」
 意識して使わなくなっていた物言いをやはり長い付き合い故あっさり流した大河は、それでも諦めがつかない様子で残りのコーラを一気に飲み干す。
「来年は受験でそれどころじゃないじゃん。今年が最後の夏だったんだぜ」
 これまたタイミングが悪いことに、店の前を手を繋いで歩く制服カップルがいて、大河はばたりとテーブルに伏せた。
「あー終わったー」
 本当に心残りらしい。普段は明るい大河がこうなったら気分転換が必要だ。
 過ぎた夏と同じことになるから却下されるかと、内心わずかに躊躇いつつ図書館へ誘うと
「柴崎さんいるといいなー」
 にわかに調子を取り戻した様子にほっとして荷物をまとめる。
 大河の夏が味気なく終わったのは会いたい憧れの相手がそこにしかいないからで、悠馬もそれは同じだったので揃って勢い良く残暑に飛び出した。





「やっぱ柴崎さんって美人だよなぁ」
 図書館でいくつか本を借りながらカウンターに入っていた憧れのお姉さんと話が出来た大河は、図書館を出るなり花を飛ばしそうな雰囲気で呟いた。今日だけで何度「柴崎さん」を聞いたか分からない。
「あの人、年とらないよな。悠馬もそう思わねぇ?」
「……まぁ確かに変わらないかも」
 はじめて会ったのは三年前。世間の子供扱いが不愉快だったけれど、いま考えれば、やることなすことまさしく子供じみていた中学二年のときだ。
 考える会への抗議なんてその最たるもので、思い出すと頬が火照る。あの時は真剣に自分たちの行動が正しいと信じていた。どんな顔をして『武器』のロケット花火を買ったのか、店に防犯カメラの映像が残っていたらそこだけ消して欲しいとさえ思う。
 本当に未熟だった。
 自分を恥じる気持ちはそのまま、大人に準じた存在として大人の喧嘩の仕方を教えてくれた図書隊への憧れにシフトした。その中でも特に大河は柴崎へ、悠馬は特殊部隊へ。
 あれから自分たちも少しは大人になったつもりだけれど、柴崎はいつ会っても隙のない大人だ。

 ごめんね、笠原は今日お休みで出かけてるの。また来てね。

 悠馬は去り際の柴崎のセリフに子供のあしらい方をされた気がして皮肉混じりに相づちを打ったが、大河は同意を得たとばかりにうなずく。
「年齢不詳って柴崎さんみたいな人のこと言うんだろうな」
「不詳って……。確か今年二十六でしょ」
「例えだよ例え。それから悠馬、女の人の年齢は口にしちゃいけないんだぞ」
「先に口にしたの大河じゃん」
 揃って苦笑いをして図書館近くの公園へ入る。図書館帰りの定番コースだ。
 短い時間でも空調の効いた図書館に慣れたせいか、残暑がいやに重い。木陰のベンチへ座ると、大河は制服の前を外しぱたぱたと扇いでいる。喫茶店で喉も涼めないのが小遣い制の高校生の辛いところだ。
 大人なら、と更にいじけかけたところで大河がやけに明るい口調で再び「柴崎さんてさ」と前置きした。
「柴崎さんて今はフリーだって聞いたけど、結局いい男と付き合うんだろうな」
 散々美人だと褒めていても、憧れているだけというのがそのセリフに現れている。現実にどうこうなりたい訳じゃないのだ。安心して憧れられる対象が柴崎で、芸能人にはしゃぐ心理と良く似ている。
 彼女を欲しがりながら矛盾に気がつかない大河に安心する。
 大河のように十も年上だと対象から無意識に外してしまうのは、男の側の傲慢さかもしれない。これが女性なら相手が十幾つ年上でも対象範囲内の人もいるだろう。
 じゃあ女性は十も年下ってどうなんだろう。
 頭の中で特定の女性が浮かびかけたところで
「悠馬と大河じゃん!」
 現実の声におぼろ気だったイメージが一気に固まり、動揺のあまり腰が浮いた。
「奇遇だねっ」
「笠原さん!」
 声をかけながら公園の入り口から駆けてきたのは、悠馬の頭から飛び出した郁だった。
 タイミング悪いよ笠原さん! というのは悠馬一人の葛藤で、当の本人は立ち上がった悠馬の動揺を勘違いしたのか
「わざわざ立たなくていいのに、ほんと悠馬は生真面目だなぁ」
 と笑っている。
 相手の勤務先では会えなかったのに、偶然の出会いではしゃいでいる大河が図書館に行ってきたばかりなこと、今日借りた本を説明したところで、まともな挨拶をしていないのを思い出した悠馬は軽く頭を下げた。
「お久しぶりですね、笠原さんは今日は……」
 そこまで言って、上げた視線の先にのんびりと追いかけてくる人の姿を認めて声が途切れた。
「お前な、突っ走る前に一声かけるくらいしろ」
「あ、ごめんなさい」
 追い付いた堂上のセリフは、図書隊と関わってきた悠馬には聞き慣れた上官としてのものと変わらないのに、その一言で悟ってしまった。分かってしまった。何より照れ笑いをする郁の表情が雄弁に物語っている。
 今は上官と部下じゃないんだ。
「……デートでしたか」
「えっ! やだ、そんなハッキリ」
 嫌だと言いながら嬉しそうな様子に、ずしんと何かが重くのし掛かる。
 あぁ自分は、この人より十も下の自分は、それだけの扱いなんだ。
 苦笑して郁の頭を軽く小突いた堂上の顔は、悠馬が知っている表情ではなかった。
 こんな柔らかい顔をする人だったんだ。
 まじまじと見つめられていることに気付いた堂上が咳払いを一つして、二人に向き直る。
「木村と吉川は図書館か。夏休みもほとんど通い詰めだったんだろ、柴崎から聞いてる。熱心だな」
「褒めていただくことではありません」
 デートかと尋ねたときは平静な声が出せたのに、馴染みの子供を労うかのような態度に答えた声は我ながら頑なだった。
 そうだ、褒められることじゃない、なんで通い詰めたか理由も知らないくせに。本も図書館も図書隊も好きだけど、でも。
 知らないはず、が前提の反目が過った後で、図書館を去り際の柴崎のセリフを思い出してじわりと焦る。
 この人、柴崎さんから何をどう聞いてるんだろう。
 知っていて目を瞑ってくれているのか、それとも相手にすらされていないのか、どちらにしても屈辱的で俯いた先で握り込む拳が見える。
 フォーラムで結果を出してからは、ちゃんと大人の男の扱いをしてくれていた堂上だからこそ、悔しい。
「悠馬ぁ、せっかく褒めてくれたのにー。堂上さん、すいません。今度模試があるから、今日はその対策っていうか悠馬は余裕だけど俺はちょっとヤバめで」
 ほんの一瞬流れた沈黙を打ち消したのは大河だ。いつもと様子が違うことに気付いたのか悠馬の返事を待たず、気にするなというように小さく手を振った堂上とそのまま世間話をしはじめる。
 大河らしい空気の読み方に感謝したのと同時に、無礼な態度を謝るきっかけを失い、どう思われただろうかと恐る恐る郁を窺うと郁の方も悠馬を見ていた。
 ん? と首を傾げて促す様子に何でもありませんと愛想笑いを返す。その目線はまだ自分より少し高い。自分が子供で嫌になる。
 悠馬が口を開く気配がないので自ら話題をふることにしたらしい。
「勉強熱心で読書好き、結構じゃない。にしても模試ねぇ、あんたたちももう高校生で来年は受験かぁ、早いよねー。昔はこーんなだったのに」
 たしなめられるかと構えていた分、こーんなと手をひらひらさせられたのが腰のあたりだったので思わず吹き出す。
「笠原さん、いくらなんでも大河も僕もそこまで小さくなかったよ」
 完璧な子供扱いにちょっとは背伸びをしたくて「それに今年だけで五センチ伸びたんだから」と続けたくせに、話題の流れにしまった! と臍を噛む。
「……その、成長期を甘くみないでくださいね」
 取り消すのも不自然な間合いで、開き直って気まずい話題を言い切った。
 誰と比べてか言わなかったのは、せめてもの敬意だ。年は永遠に追い付けないけど身長なら、なんてプライドの保ち方は卑屈すぎてさすがにカッコ悪い。
 郁がほんの一瞬、視線を堂上に向けて微笑む。
 見慣れないその羞じらいが眩しい。そんな顔をさせる堂上が羨ましい。
「ま、身長だけが大人の条件じゃないしね。かかってきなさい、迎え撃ったげる」
「笠原さんのそういうところ、大人っぽくないです」
「なにぃ!? あのね、これでも悠馬よりだいぶ大人なの!」
 そんなの分かってるよ。
 斬られにいって、やっぱり痛い。でもどこか安堵した。
 この人は見た目や立場で選んだんじゃなくて、ちゃんと中身で恋人を選んだんだ。
 そういう人でいてくれて良かった。
「笠原さんはこのまま変わらないでくださいね」
「っな、生意気ぃー!」
「えっ、違っ、……うわっ」
 悠馬としては、安心して憧れられる今のままでいて欲しいと褒めたつもりのセリフだったのに、返ってきたのはぐりぐりと頭を撫でる手で、そんな些細な触れ合いにすら顔に血が集まってしまう。
「くすぐったっ……ちょっ、やめっ、だからっ、子供じゃないんですって!」
 ずれた眼鏡を直しながら叫んだ悠馬に笑い声が降ってきた。前屈みになってまで笑っている大河の隣で堂上も吹き出している。
 自分のせいで出来たぎこちない空気が緩んで、つられて悠馬も吹き出した。
 だって笑うしかないじゃないか、本物の大人にはまだかなわないんだから。
 彼女が他の男とくっついても笑い飛ばせる余裕がある人には、今の自分じゃ太刀打ちできない。
「じゃあ俺はもう戻るけど、どうする」
「あ、あたしも」
 笑い声が収まってからさりげなく聞いた堂上に、郁は何の斟酌もなく答えて堂上の傍に寄る。
「じゃあね、また図書館に来たとき見かけたら声かけてね」
「気をつけて帰るんだぞ」
「はーい」
「はい」
 揃っていい子の返事をして見送ると、今日はじめて涼しさを感じる風が通り抜けた。
 きっと、公園を出てあの入り口を曲がったら、二人は手を繋いで歩くのだろう。
 想像しても、不思議とあまり痛みはなかった。
「夏が終わったんだ」
 唐突な呟きを、大河は問い返さなかった。
 その代わり、肩に腕をかけて覗き込まれた。
「悠馬も去る夏が惜しくなっただろー」
「別に。惜しいっていうか、現実を受け入れたってとこかな」
 いたずらっぽい顔の大河にしれっと言って、さすがに無理があるのとそれがバレているので揃って笑い飛ばした。

あとがき

本日のメニューは【青春やるせなす〜甘酸っぱいソースをそえて〜】でございます。
メイン食材のやるせナスは
うっかり素手で触れると猛烈な痒みにおそわれますが
作者自ら1本1本収穫いたしました。

痒眼鏡の悠馬とヤンチャ大河は、なんだかんだと郁を慕って
武蔵野第一図書館に何度か通っている描写があったから、妄想しちゃった☆