秘密はバレるためにある



 郁が事務室を出るとき、上官でもある夫はまだ書類に向かっていた。だから大丈夫だと分かっていても、念には念を入れ官舎の鍵をかけた。
 なにも夫を閉め出そうとしてではない。その証拠にチェーンはかけていないし、鍵はお互いに持っている。
 鍵をかけた理由は、バッグの中の物を隠すまでは気を抜けないからだ。
 せっかく買ってから今日まで、見つからないよう家には置かず持ち歩いているのだから。
 真っ先に隠そうとして……まずは二人の間の決まり事が自然と体を動かした。先に帰った方が夕飯を作り出来るだけの家事をする、体に馴染んだその習慣は郁にとって息をするより自然なことだ。
 洗濯機に向かいスイッチを入れる。
 冬に入ってから先に帰宅した方が換気をする決まりはなしになっていたが、最近閉め切っていることが多いからか部屋の空気が澱んでいる気がして、朝、出掛けに干した分を取り込んで窓は薄く開けたままにする。
 冷蔵庫の中身を確認して、いつもなら腕捲りをするところだが……郁はふとバッグに視線を向けた。向けてしまったら中身が気になる。中身は真っ先に見つからない場所に隠すつもりだった本だ。
 ――ちょっとだけ、篤さんが帰るまでには夕飯作りに取り掛かるから、ちょっとだけならいいよね?
 時計を見て自分に言い訳をすると郁は、買って以来なかなか開ける機会がないままの紙袋に目を輝かせて手をかけた。





 カシャンと玄関から響いた音にハッと顔を上げると、ちょっとだけのつもりから、もう一時間も経っていた。
 しまった、篤さん帰って来ちゃった! と思っても遅い。夕飯どころかいつの間にか止まった洗濯機は沈黙し、サボっていた郁を無言で責めている気にさえさせられる。
 どうしよう、とりあえず隠さなきゃ。
 瞬間で浮かんだ汗を感じながら部屋の中を見渡し、
「ただいま」
 続く帰宅の声に慌てて手を背に回した。
「おかえりなさー……い」
「あぁ」
 狭い官舎では引き伸ばすことも出来ず、できるだけさりげなく迎えたつもりが聡い夫には通用しなかったらしい。不審そうに首を傾げ、ちらとキッチンの方を見てから
「どうした?」
 当然の疑問を口にされた。
 当たり前だ。出来ているはずの夕飯の匂いもしなければ、郁は後ろ手に座ったままずりずりと逃げようとしているのだから。
 あたしの馬鹿、なんで夢中になっちゃうかな。あぁ、どうしよう。
 叱られるのは当然としても何とかこの場を……というより隠した物を誤魔化せないかとギクシャクとしたまま強張る唇を開けては閉じていると「郁?」と呼ばれて額に手がそっと降りた。
「調子悪いのか? ……熱はないようだな。というかおまえ、体冷えきってるじゃないか。この季節に一体どんだけ換気してたんだ」
 夢中になっていたから帰宅したときに開けた窓はそのままで、言われてから部屋中が冷えきっていることに気がつく。二月に入ったばかりのこの季節に暖房もなしで、体は気まずさのせいだけではなく強張っていた。指の先まで感覚がおかしい。
「ほんとだ、手が変」
 夢中になっていたときは感じなかった寒さにガチガチと歯を鳴らしながら、郁は手を開いては閉じ血を通わせようとする。
 はためいたカーテンをちらりと見て窓を閉めた堂上は、続いてエアコンを入れる。そのまま寝室に行ったと思ったら、やがて毛布が頭上から振ってきた。
「部屋が暖まるまで被ってろ」
「ありがとう篤さん」
 言葉はぶっきらぼうでも声音は甘い。
 ようやくまともに動くようになった指で毛布をかき会わせながら、あぁ好きだな、という感情が自然と頭に浮かんだ。
 今でも惚れ直すのは、こういう気遣いをさりげなくできる人だからだ。
 勤務中はもちろん厳しいけれど、それだって理由があってだから郁をはじめとした部下に慕われているのだろう。
 部下を思っての厳しさに加えてプライベートの優しさを知っている分、結婚していたってノロケちゃうのは仕方ないよねー。なんて考えてるとこに柴崎がいたら蹴りの一つでも飛んでくるかも。
「さて、と。……郁」
「え?」
 内心で盛大にノロケていた郁に飛んできたのは、蹴りではなく部下を叱るときの夫の声だった。
「おまえ、今日は俺より一時間も早くあがったよな。体調が悪いなら仕方がないが、そうでもないようだし。どういうことか説明を求める権利が俺にはある」
「それはっ」
 ハッとして思わず手を背中に持っていきかけ、すんでの所で押し留めた。そんな事をしたら、そこに何か隠してますと言っているようなものだ。
 ……気付かれてないよ、ね。
 座り込んだまま上目遣いで夫を窺い、腕を組んだ無言の迫力にひっと首を竦めた。
「その、ちょっとだけのつもり、だったんだけど。ついちょっと夢中に」
「まったく。体が冷えてるのに気がつかないほど夢中になるって、おまえいくつだ。小学生、いや幼稚園児か!?」
「ごめんなさいっ! ご飯の準備すぐやるからっ」
「晩飯はそう慌てんでもいい、冷凍の買い置きあったろう。チャーハンと焼売と、このまえ作った餃子はまだ残ってたか?」
「あ、十個くらい残ってた筈。それと……そうだ卵スープならすぐ出来るし、すごい! それで完璧な中華のコースだよ」
「話を逸らすな」
 先にメニューの話を出したのは篤さんのクセに、とはこの不利な状況では口が裂けても言えない。「はぁい」と返事をして、その間にも何とかこの場を切り抜けられないか忙しなく頭を働かせる。
 ここでバレたらせっかくの努力が……そうだ、毛布! 被ってる毛布で隠して寝室に逃げ込めば……。
 そろそろと毛布の中で手を回しながら妙案にほっとしたのも束の間で、あるはずの場所に探しているものが無く、郁は思わず体をひねって毛布をはね除けた。
 うそ、何で、どこに!?
 パタパタと払って探すも、あるはず物は見当たらない。焦りが焦りを呼ぶ郁の背後でくっと喉のなる音がした。
「ほんとわかりやすいな、お前は」
「え?」
 腕を組んだままで、堪えきれないように前屈みに笑いだした夫をきょとんと見上げていた郁は、その夫の脇に見え隠れする物を目にして叫び声をあげた。
「なんで篤さんが、それ!」
 組んだ手で背後に隠されていたのはまさに郁の探し物で、キラキラしてかわいらしいデザインの表紙には『手作りのチョコレート』というタイトルが躍っている。
 一番でかでかと印刷されているのは、そして一番見られたくなかったのは『ぶきっちょさん向け』の文字だ。
「最近様子がおかしいと思ったら、これ隠してたのか。お前な、いくら後ろに隠しても態度でバレバレだぞ」
 去年は寮の家庭部がつきっきりで指導してくれたお陰で、手作りがはじめての郁でもまぁまぁのものが出来た。それを落としたのは痛恨の失敗で、今年こそはと意気込んだのは無理もない。結婚してそれなりに料理の腕はあがったし、という自信と、お菓子作りはまた別だし、という不安で本屋で一番簡単そうな本を選んで買ったのがそれだった。
 毛布を掛けてくれたときか!
 思い当って頭を抱えた郁を見て、夫の爆笑はさらに大きくなった。
 そんなに笑うことないじゃないの、人の努力を! それもこれも篤さんのためにじゃない!
「すまんすまん」
「まだ笑いながら何がすまんよ!」
「そう拗ねるな」
 盛大に膨れてそっぽを向いた郁をまだ笑いの残る声音で重ねて宥め、ぽんぽんといつもの手が頭にのせた。
「家庭部の先輩、寮を出たんだから一人で頑張りなさいって言うんだもん……内緒にして驚かせるつもりだったのにー」
「一緒に住んでて無理な話だろ、それ」
「でも恥ずかしい!」
「何が。あぁ、そういうかわいいとこか?」
「かっ……!」
 どうせバレたのだからと拗ねていた郁は、さらりと告げられた言葉で盛大に頬を染めた。
「か、かわいいって。うわ、何でそういうこと」
 しどろもどろで見上げると、言った本人も今さら照れくさいのかうっすらと顔が赤くなっている。その表情に恥ずかしさが増幅された気がして、はね除けていた毛布を頭から被る。
「かわいいもんだろ。体が冷えるのも気がつかないくらい、どれ作るか悩んでたんだろ。上司としては体調を崩す恐れのある行動は慎めと言いたいとこだが」
 互いの顔が見えなくなって開き直ったのか、堂上は舌が溶けそうな台詞をくり返す。口にするには躊躇う言葉でも、縮こまって恥ずかしさに悶える姿はかわいい以外に例えようがない。
「夫としては、嬉しいもんだな」
「……ほんとに?」
「嘘をつく必要がどこにある」
 いつ本を買いに行ったのか、いつから隠して悩んでいたのか、それもこれも自分のためというのだから愛おしい。
 小牧にこんなところを見られたら、小一時間は上戸に入られるな。
 二人きりなのをいいことに、夕飯はもうしばらく後回しにするとして、堂上は身を隠したままの妻を毛布ごと膝に抱き上げた。

あとがき

誰かお酒、強いお酒もってきてー!

あのですね、教官に「かわいい」って言わせたかったんです。
あと、互いの友人にいじられてる雰囲気も出したかった、とか。
柴崎と小牧教官のにやにや顔を想像するのが好き。