ひとつの波紋



 なんとなく、嫌な予感は、していた。

「ひさしぶりー、ここ良い?」
 訊ねる態を取りつつ向かいの席にトレイを置いたのは、今は武蔵野第ニ図書館勤務の同期二人だった。
 彼女たちが夕飯を受け取るレーンに並んでいたとき、一瞬……ほんの一瞬こちらを見て何かを確認したときから感じていた予感は最高潮に達していたが、何とか笑みを浮かべて首を縦に振る。同時にいつもより意識して顎を動かして咀嚼してみた。
 口に夕飯を詰め込んでいたから、という態を取って“はい”とも“いいえ”とも言わなかった郁には構わず、二人は机上にセルフサービスで置いてある醤油やドレッシングを渡しあって食事準備に勤しんでいる。
 これだけなら、寮生活の三百六十五日あたりまえに見られる夕食光景だ。
 でも郁の本能はひっきりなしに赤色灯を回していた。
 なんでガラッガラの席に座っちゃったのかなー、あたし。こんな時に限って柴崎は研修だとかでまだ帰寮してないし。
 せめて少しでも早く食事を終わらせよう、うん。
 こんな時でなければじっくりと味わいたかったトンカツを一つ二つとご飯に乗せ、即席のカツ丼をこしらえる。
 がっと大口を開けたところで、とうとう予感が現実のモノになった。
「同じ屋根の下に住んでるってのに、ほんと久しぶりだよね」
「ねー」
「……だね……所属も住んでる階も違うとねー」
「もぉっと話したいのにね」
「……まぁね」
 かわいらしく両手を合わせ、いただきますの仕草を取りながら網を張るような二人の視線をさけ、もごもごと相槌を打ってみる。
 さすがにこれ以上、無視はできない。
 返事に気を良くしたのか、二人はにっこりと唇を持ち上げ楽しそうな顔になった。
「だよねだよねー、笠原がこの時間に食堂にいるの珍しくない?」
「あ、そうだね!」
 関東図書基地内の特殊部隊に所属している郁は、同じ敷地内で通勤するだけだから襲撃等よほどの事がない限り食堂が開く早い時間に間に合う。
 対して二人は基地から少し離れた吉祥寺にある武蔵野第二図書館勤務だから、退勤時間から帰寮までのタイムラグが生じるせいで、いつも何となく会わずに済んでいたのに。
 今日、柴崎が遅くなるのが分かってたから、教官の仕事を手伝っていつもより長く事務室にいたから。
 恋人兼上司とちょっとでも一緒にいたかったから、という本音をカツと一緒に飲み込む。
 替わりに
「どう、第二は?」
 話題を変えようと放った攻撃は
「えー、ふつーだよふつー。それより、ねぇ?」
「笠原は急展開じゃなーい?」
 ブーメランとなって返ってきた。

 だから、嫌な予感してたってのに。

 自分の迂闊さを恨んでも遅い。
 その瞬間、レーンの途中でこちらをもの問いただげな顔をして窺っていた意味が分かって、かっと頬が煮だった。
「堂上二正と付き合ってるって、聞いたけど」
「……あ、うん、まぁ」
 あの視線は、あの笑みは、これを聞きたかったに違いない。
 都合のいいことに周りに人がいなくて、でも周囲の雑談に紛わせられるシチュエーションで。
 とっさに辺りを窺ってみるが、堂上も班の人間の姿も見えない。ほぅ、とせめて安堵したのも束の間。
「あんだけぶつかってたのに、どういう心境の変化?」
「そうそう、鬼だ悪魔だってすっごい嫌ってたじゃん」
「……っ……そう、だったよね? あはは」
 何年も昔の邂逅に自分が吐いた悪態を突きつけられ、思わず箸を噛んでしまう。
 のそのそと口から出したプラスチックの箸には、先端より一センチ上にくっきりと歯型がついてしまっていた。
 悪魔、までは言ってなかった筈だけどな。鬼と悪魔、どっちが下かわかんないけど。
 ……噛み切らなかっただけ、まだマシと思おう。
 はぁ、と溜息をついて汁椀を持ち上げた指先は、やっと荒れていたのが治まってきたところだ。
 荒れた理由は──
「第一勤務の子に聞いたんだけど、この前の催涙ガス事件の時すごかったんだってー?」
「ね、郁! って名前で呼んで追っかけてきたんでしょ?」
 
 やっぱりか。

 想像はついていたが、面と向かって問われると何と返事をしていいか分からない。
 だって、今更だ。
 二人の言う鬼で悪魔の上司と付き合いはじめたのは、もう年をまたいだ去年の夏のことだ。
 積極的に吹聴したわけではなかったが、特殊部隊の面々には堂上復帰当日に盛大に迎えられ、基地併設の第一図書館勤務の隊員には暗黙の了解をもって受け入れられていると思っていたこと。
 それが解けたのが先日の催涙ガス事件。突っ走って──きっちり堂上に釘を刺された単独突入の直後、堂上が人目も憚らず叫んだたった一言「郁!」それで関係を知った隊員からの追及が波状で来ている。

「全然、知らなかったからびっくりしちゃった」
「ほんとほんと、まさかあの堂上二正と笠原がねー」

 まさか。
 あの。

 としかあんた達が認識できてないのは、あたしとそれだけの“仲”だからだと思わないのかな。
 目の前にいるのにキャアキャアと盛り上がる二人の前に幕を感じる。
 その幕は、査問で孤立していた時に出来た。
 つまり二人は心を許せないという括りに入った、その理由があるからこそなのに、心当たりがないと言いたげな二人の様子に幕が二重三重に増えていく。
 ……適当にやり過ごそう。ごめんなさい。

 好物を残すことに詫び、箸を置く。

「でもさー、自分より小さい男の人と付き合うってどんな感じー?」

 なのに聞き逃せない冷やかしに箸にかかっていた指が震え、片方が机に転がる。
 箸が転がってもおかしい年頃、じゃないんだなーあたし。思考の片隅で思いながら苦笑を浮かべる。
 散々“ちび”とくってかかっていたのは確かに自分だけど。
 いつからかもう、あの人には勝てないと痛感して、好きになって、教官いわくその前から好きでいてくれて、身長の大小で図るレベルなんて越えてるのに。
 だから今になるまで、付き合いを知らなかったんでしょ?
 浮かんだ怒りを強引に変えていく。
 笑え、柴崎みたいに。
 だって、教官は仕事も出来て器が大きくて、ちょっとかわいいところもあったりして、あたしと付き合うせいで馬鹿にされていい人じゃない。
 それにキスの時なんか足に力が入らなくて、むしろこっちの背が低くなっちゃうくらいなのに。って、人目を憚って言うとしたら?

 堂上の美点を思い浮かべては心の中で取り消していく。
 堂上を郁といがみあっている時の鬼教官としか認識していない人間に、どんなに素敵か、尊敬できるか、なんて事細かく教えてあげる義理なんてない。
 自然と唇がふっと緩んだ。
 言葉も脳を通さず浮かぶ。
「最高だけど?」
 それ以上でも、それ以下でもない、ただ一言。
 その波紋が堂上に向かうとは思わず、絶句した二人を置いて部屋に戻る郁の足取りは軽かった。

あとがき

男女の付き合いに照れまくり郁ちゃんが
覚醒!!
したら面白いかなー?と思いついた一品でござい