星の引力
付近の小中学校が夏休みに入る直前、最後の休館日は毎年特別コーナーの設置に費やされる。 業務部選りすぐりの本達を並び終えた郁は、中の一冊をなんとなく手に取った。 今年は『一刀両断レビュー』の問題もあって、上の方では「敢えてコーナーを設置しなくとも」という意見も出ていたらしいが、日を追うごとにぽつぽつと増えていった利用者の声があっさり盤面を覆した。 今年は何日から“夏休み”コーナーできるんですか!? 理科の実験にオススメの本ってありませんか? 感想文の上手な書き方が知りたいんですけど。 小学生、中学生でも利用者は利用者だ。 図書隊が図書館を守る、その公共サービスの有益性を最も享受して然るべき利用者だ。 目を輝かせてカウンターに身を乗り出す子どもたちの姿は、何より強いメッセージとなって上を動かした。いつの間にか日和見の声が消えたのを幸いと、率先してコーナー設置担当班に名乗りをあげたのが堂上だというのは柴崎から聞いた。 それを妙に誇らしく思ったのは、柴崎にも堂上本人にも秘密にしている。 これ、どんな子が借りるのかな。 郁が捲っていたのは小学生、それも低学年向けの天文学の図鑑。宇宙のはじまりから、星の誕生、太陽系の並びと大きさなどなど、精巧なイラストで紹介されていて目にも楽しい本だ。 でもこういうのって案外人気ないんだよなー。 もったいない、と思いながらパラパラと続ける。 小中学生に人気の“夏休みの自由研究・工作参考図書”は、もっと直接的で短絡的なもの。はっきり言うなら、丸うつしで体裁が整うもの、だ。 まぁ自分もその口だったから、お子様たちにあれこれ言う権利なんてないんだろうけど。 それにしてももったいない。 宿題を終わらせるという視野でだけで見ないで、面白そうなものはあるかな? とか、これ不思議そうって興味を抱いて見てみれば、こんなに素敵な本が目の前にあるのに。 そういうのって大人にならないと分からないものなんだなー。てことはあたし大人になった? 「笠原―、手が空いたなら蔵書整理に合流しろ」 その瞬間、伸びかけた鼻を折る絶妙のタイミングで掛けられた声に不思議と反発は浮かばなかった。 口うるさいだけの上司ではなくなってしばらく経つ。 お、やっぱあたし大人になってんじゃん。 「すいません、堂上教官」 サボってる様に見えたのは事実だろうし、ここは素直に謝って柴崎たちに合流するとしたものだ。 さらっと謝って図鑑を閉じようとした、その手がふいに掴まれた。 「何かあったのか?」 口うるさいだけじゃなくなって、尊敬も出来る上司が。 手を、なんで、やだ熱い。 「おまえが素直すぎるのは何かトラブルの前触れか?」 ……大人しくしてればこの言い草。いけないいけない、あたしは大人。 生々しい肌の熱さに動揺したことなんて一瞬で吹き飛んで、自分を鎮める呪文を繰り返し、掴かまれた手首を捻って外す。 「別に何でもありませんよ。ただちょっと、おもしろそうだなーって気になっただけです」 目線を外し気味に答えると、視界の端で堂上が図鑑を覗きこむ気配がした。 目線を合わせられないのは、その近さに何故かまだ動揺するからだ。 「天文か」 そう呟いて捲る手が止まらないのは、堂上も興味を惹かれたかららしい。 「あらためて見てみると面白いんだよな。ただまぁ、子ども達に人気が出ないのが惜しいところか」 「え、教官もそう思うんですか?」 同じ本で同じ様に感じるなんて。 なんて……なんか凄く特別のような。 近さも忘れて振り向くと堂上は慈しむような目を、本に向けていた。 「あぁ、毎年こういうのは売れ残るんだよ。仕上げにくいんだろうな。実験系が真っ先に売れる」 ……なんだ、違うじゃん。 教官は例年の傾向がちゃんと頭に入ってて、それで。 胸の中でふくらんでいたものがパチンと割れる。中に詰まっていたものは何かなんて知らないけど。 「星の明るさか。やった筈なのに忘れてるもんだ」 堂上の指の先には、天体の明るさを表す等級がイラスト入りで載っていた。 分かりやすいように太陽をはじめとして、代表的な惑星や恒星がずらりと並んでいる。 太陽の等級なんて、そもそも等級にマイナスがあることすら今知ったのに。あれって一等星から六等星まで、じゃないの? それをあっさりと忘れていたと言えるこの人は、どれだけ優秀なんだろう。 堂上教官だけじゃない、小牧教官は主席だし手塚はもちろん優等生だし、柴崎は言うに及ばずだし。 ……わかってたけど、あたしだけなんだ六等星は。みんなキラッキラに眩しい一等星なんだ。 ずんと重苦しいものが喉を塞いで、自然と首が項垂れる。 あたしはヘマの方が多いし、教官にも毎日怒られて呆れられて、ヤル気だせば出すほど空周りするし。 本ですら向けられた優しい眼差しが、自分に向かうことはほとんどなくて。 あたし足しかいいとこないのに、突っ走ろうとするとブレーキかかってしまう。 「笠原?」 急に押し黙ったせいか怪訝そうな声音で呼びかけられたが、咄嗟に答えることができなかった。 なにか言わなきゃ、と気持ちが焦るばかりで唇から音が出ない。 答える気がないと踏んだならそうで構わないから、無視して放っておいてくれないかなー。 消極的な逃げの、ささやかな願いは叶えられなかった。しんとした間はきっと短くて、気がつけばくしゃくしゃと頭が撫でられていた。 「お前は足だけなら一等だな」 「……どうせ」 まるでさっきまでの考えを読まれたようなセリフに、やっと動いた唇はかわいくない言葉を返してしまう。 「他は駄目駄目の六等星ですけど」 せっかく褒めてくれたのに、きっとこれでいつもの雷が落ちる。 自覚してるなら努力しろとか、手塚や柴崎を見習えとか。 「馬鹿にしたつもりはない。お前が六等だとか、そんなもん見方の違いだけだろ」 「え?」 待ち構えていた叱責の替わりに落ちた言葉の優しさに、空気が漏れたときのような声が出た。 「等級ってのは……ほらここに書いてある。地球が基準になってるから地球から遠ければ遠いほど低くなるんだ」 いきなりはじまった天文教室に、まじまじと堂上を見つめ返してしまう。 頭を撫で続けていた堂上はその視線に気づいて、すいと顔をそむけながら手を下ろした。 「だから、地球から見たら六等星だろうが、間近で見れば眩しいもんだろうし。そんなもん基準がどこにあるか次第だ」 図鑑に向けながら話す堂上の眼差しが温かく見える。……のは気のせいって自分に言い聞かせないといけない程、温かい。 「お前はお前の長所を伸ばせばいい、短所は俺たちが何とかフォローしてやる」 そのうち落としに来るものかと構えていたのに、最後まで郁を慰めるような事を言って堂上は去って行った。 どう反応していいのか分からず固まっている郁と、その手や頭に熱を残して。 「……六等のままでも、いいんならさ」 近くて見ていてくれないと。 最後まで呟けなかった言葉は、上司と部下を超えたものをねだっているみたいで、郁は頬に移ってきた熱に浮かされながら開きっぱなしの図鑑をそっと戻した。 |
あとがき
普段、引力ってあまり意識して生活しないけど
常に引きつけられているものデス。
教官も惹きつけられてしょうがないわけで。
あぁあ゛ぁぁぁこんなこと言ってくれる上司が欲しい!!