タダチニ職務逸脱ヲ遂行セヨ



 館内業務に向かいながら、堂上は武蔵野第一周辺の行事予定や今朝のニュース、最近流行りの話題、他にもありとあらゆる方面の情報の中から重要だと思うものを頭の中で整理していた。
 近隣のイベントによっては予想を上回る来館者数になることもあるし、そういうふらりと立ち寄った来館者の多くが直近の出来ごとに触発されて本や雑誌を選びがちなのは経験上わかっている。
 どんな分野の本を訊ねられようが、スムーズに案内できるのが図書館員のあるべき姿だが、中には困ったやつもいる。図書館員の基本中の基本、十進分類法すらおぼつかない困ったやつがいるのだ。
「今日はちゃんとレファレンスできるといいなぁ」
 その困ったやつが誰に聞かせるでもなく呟いたのを耳にして、堂上は思わず開きかけた口を意思で固く引き結んだ。
 そのまま口を開いていたら、きっと班を任せられている者としてあるまじきセリフを言ってしまっていた。
「でも、笠原さん最近すごく意欲的に取り組んでるじゃない」
 口を真一文字に結んだ堂上に変わって、独り言に反応したのは小牧だ。
「前は苦手だからって逃げてた部分あったよね」
「はい、でもそれじゃいけないかなって思って」
「うん、いい心がけだと思うよ」
「ほんとですか!?」
 途端に、郁はぱっと顔をほころばせる。
「あんまりこいつを調子に乗らせないでください」
 その瞬間入った手塚のつっこみに、思わず心の声が漏れたのかと焦った。
 堂上の内心の焦りなど気にせず、前を行く二人は言い争いの構えに入る。
「出来てあたりまえです。今までまともに出来なかった事の方が問題で、褒められるようなことじゃありません」
「分かってるわよ、だから自分なりに努力してんじゃん」
「努力をはじめる時期があまりに遅い」
「うるさいわね、何でも自分基準に考えないでよね」
 同期の辛辣な評価に唇を尖らせた郁を、小牧の苦笑が追う。
 殿を行きながら堂上は郁から視線を外した。
 さっき固く閉じた口をさらにきつく結ぶ。
 でないと、今すぐにでも今日の予定を変更して、郁を館内業務から外してしまいたくなる。
 生まれ持った素質だけに頼るのではなく、からっきし駄目だった館内業務にも意欲的に取り組み、着実に成長している姿を誰よりも近くで見てきているというのに。
 特殊部隊隊員としての自覚を嬉しく思っているのも他でもない自分なのに、その自分が困るからという理由で、努力を不当に扱ってしまいたくなる。
「いつも簡単そうな人相手にして努力も何もないだろ」
「それはっ……そう、かもしれないけど。でも、こっちが失敗しても嫌な顔しないし、こっそり練習台にさせて貰うくらいいいかなーって」
「ここ最近ずっと来てるよな、あの人」
「職場が近いんだって。それに越してきたばかりだからこの辺のこと知るのにちょうどいいらしくてさ」
 手塚と郁の間で“簡単そうな人”の認識にズレはないらしく、会話はタイムラグが発生することなく流れている。
 ついでにいえば堂上もすぐ相手に思い至っていた。

 都下最大規模の利用者数を誇る武蔵野第一で、それほど認知されている一般来館者──

「あ、笠原さん! 今日もちょっとお願いしたいことがあって、あの……かまいませんか? 忙しいなら時間かかっても待ちますから」
 館内に到着したその途端、その当人が喜色満面ベンチから立ち上がる。
「いえいえ、喜んで」
 練習台にさせて頂きます、と続けないだけで、こんなにも期待を持たせるものになるのかという見本を返しながら進む郁の背中を、職務中の堂上は黙って見送ることしかできない。

 そりゃ時間かかればかかるほど都合がいいだろうが。
 ……好意を抱いている相手を、相手の仕事を口実に独占できるとくれば。

「あ、少々お待ちくださいね。──教官、あたしレファレンス行ってきてもいいですか?」
 足早に戻り妙に嬉しそうに許可を求める郁に、考えてはいけない想像が一瞬浮かぶ。不当に館内業務から外したくなる心情は、封印しなくてはいけない。
「あぁ……あまり時間をかけないよう気をつけろ」
 想像を打ち消しながら出した許可は、感情を押し殺した分だけ淡々としていた。





「この前、薦めて貰った本、すごくツボだったんですよ。なんだか感性が近いのかなー」
「今日はどのような物をお探しですか?」
「……今日はこの辺のグルメガイドみたいなものがあれば。一人暮らしだとついコンビニ弁当ばっかりになるから、たまには誰かと美味しいものを食べに行きたいなぁと思いまして」
「では、より新しいものの方がいいですよね。えっと、雑誌の方が情報が新しいと思いますので、こちらにどうぞ」
「笠原さんだったら、この辺のお店でオススメありますか」
「あ、相手は女性ですか? でしたら男性向けより女性誌を参考にした方がいいかもしれませんね」
「えっと、まあ……ははは、じゃあ笠原さんにお任せします」
 マニュアルどおりの受け答えをしようと必死な郁は、丁寧に丁寧に応対する分、傍から見れば物腰も柔らかく立派な図書館員そのものだ。
 必死すぎて自分がアプローチをかけられていることに気付く様子もない。
 相手は精一杯自分を売り込み、なおかつ露骨に誘おうとしているのをさらりと受け流されたように感じるのか、苦笑いとも照れ笑いともつかない顔で雑誌を選ぶ郁を見詰めている。
 その眼差しが何を含んでいるのか、堂上にははっきりと見えていた。見えていないのはおそらく郁本人だけだ。
「これ、とかどうでしょう?」
「うーん」
 ぱらぱらと捲る相手を真剣な顔で待つ様子は、郁の性格を知らなければうっかり誤解されそうな色合いを帯びている。
「これはあまりにもデート向けっていうか、俺いまフリーだからちょっと入り辛いかな。一緒に」
「すいませんっ、あ、こちらはどうですか!?」
 天然だから出来るタイミングで相手の話の腰を折るのを、どこか安堵して聞き流す。
 見聞きできる距離で返却図書を棚に戻す作業があって良かったのか、悪かったのか。どちらにしろ眉間にしわが寄るのは避けられなかっただろうが。
 本来なら、こんな感情を抱くこと自体が上司としてあるまじきことだというのは、もう何度となく自分に言い聞かせた。
 はじめはレファレンスで喜んで貰えた、役にたてたと嬉しそうに報告に来るのを微笑ましく思っていた。やがて、じわじわと会話の中に相手のことが増えてきて、不規則なローテーションにも関わらず館内業務の日はかなりの割合で遭遇するようになった相手を忌々しく思い始めた。
 何度目かで、レファレンスする様子を直接目にして、相手のニーズを掴もうと熱心に耳を傾ける姿に嫌な予感がした。
 今じゃさっさと帰って欲しい、そのためにもう一度分類学を叩きこもうか、なんて考える始末だ。
 こんな独占欲が自分の中にあったことに驚いてもいる。
 この頃は前ほど嫌われてはいないだろうとは感じるものの、あの男のように堂々とアプローチは出来ない僻みもある。
 その間に、もし……。
「教官?」
 かけられた声に、自分の手が完全に止まっていたことに気付く。
「どうした」
「レファレンス終わったから、報告にと思って」
 不思議そうな視線から顔を逸らし、手近にあった本を掴む。
 視界の端に後ろ髪をひかれつつも貸出カウンターに向かう男の背中が入る。
 そうか、終わったのか。
「今日は早い方だったな」
「ほんとですか!?」
 ぽつりとなにげなく漏れた言葉を取り消す間もなく、郁の顔がふわりと緩んで、あまりの喜びように思わず真正面から視線を受け止めてしまった。
「やった!」
 その眩しさにますます目が離せなくなる。
「……何が、そんなに」
「え? だって堂上教官に褒めてもらえるってことは、あたしも少しは成長したってことですよね!?」
 もし、しっぽがついていたらわっさわっさと振られているのが見えそうなほどの喜びよう。
 だから相手に無駄な期待をさせるんだろうが。
 あの男みたいに、と脳裏をよぎるのと同時に離れた個所から気配を感じた。
 職権乱用。
「そうだな、少しは成長したと認めてやってもいい」
「きゃ、ちょ、やだ髪ぐちゃぐちゃになるっ」
 浮かんだ単語をねじ伏せて、堂上は郁の頭をかいぐった。

あとがき

じれてる教官たまらない、おー!
こっそり嫉妬とめどない、おー!
腰に手をあて叫ぶよ、おー!