奇襲攻撃ヲ迎撃セヨ



 堂上が基地近くのこの病院に移ってから、初めて訪れる今日。
 前もって病室を連絡されていた郁は案内に寄ることなく一直線に進み、ドアの前でスカートを撫でつけ髪を手ですいた。
 前の入院先、新宿の病院には初めて顔を出すまで一週間もかかり、病院についてからも躊躇いに躊躇っていたのとは大違いだ。
 もう大手を振って訪ねることができる。教官も移ったら出来るだけ顔を見せろって言ってたし。
 思い出して頬が火照ったのは、そのセリフだけではなく堂上がくれたキスも付随したからだ。
 うわぁ、こんな顔で入っていけない!
 郁は急いで顔を引き締め名前プレートの堂上篤と書いてある脇に寄せ、ぼんやりとしか映らないまでも髪型よーしとチェックした。寮を出る間際まで何度も迷い決めた服と公休をいいことに朝からそれなりに張り切った髪型と化粧は、郁自身まだ慣れなくて落ち着かない。
 手土産のケーキはちょっと足を延ばして立川のハーブカフェでテイクアウトしたチーズスフレ。
 準備万端。
「よし!」
 気合いを入れた郁の背後から、
「何やってんだ」
 笑い混じりに声をかけられノックしかけた手が空中で固まった。
 声だけで堂上だと分かっても、その本人に会う前の、まるで女の子そのものの仕草を見られてしまった恥ずかしさですぐに振り返られない。
 なんでこうタイミング悪いとこばかり見られるのよ、ベッドで待っててくれればいいのに。と歯噛みしてからハッと気付いた。
 「教官?! 何やってんだはこっちのセリフですっ。歩いたりして大丈夫なんですか?」
 振り向いた郁は松葉杖を支えに立ち歩いている堂上の姿を目にして、ここが病院であることも忘れ大きな声を出してしまった。
 慌てて口を閉じたが、病院特有の雑多な喧騒に紛れ誰も気にする素振りはない。堂上も苦笑して軽く頭を小突いただけで郁の反応も無理もないという顔をし、それ以上咎める気はないらしい。
「今日から許可が出た。まぁ入れ」
 ドアを開け堂上が中に進むまで抑えてから後について入った郁は、ケーキを棚に置きベッドに戻る堂上に手を貸す。
 腰掛けた堂上から受け取った松葉杖をベッドの脇に立て掛け、腕を肩に回して貰う。
「良かったですね。やっぱり鍛え方が違うから普通の人より回復早いのかな」
「怪我自体は単純なものだったからだろ。熱も下がったことだしな」
 話しながらふわっと鼻先をくすぐる清潔感のある香りに誘われ、髪が少し濡れていると気付いた。
 気付く距離だと意識した途端に頬が熱くなる。
 瞬間近くなった顔は必死に見ないように、横になるまで介助の方法を頭の中で反芻させる。そうしないと、心臓がもたない。
「助かった。にしてもなんだ、意外と慣れてるのは気のせいか」
「あ、たぶん稲嶺し……顧問の介助をするときに特訓したからだと思います」
「なるほど、それでか」
 小田原攻防戦のとき、はじめは一人除け者にされた悔しさで堂上に噛み付きもした。足手まといと言ったこの人に認められたくて、自分の任務を精一杯こなそうと努力したことが、いま役に立った。
 この人を追いかけて来て良かった。
「あたし体に叩き込んでしまえば忘れませんから」
 叩き込んでくれたのは堂上だ。
「お前らしいな」
 納得した堂上は肩にかけていたタオルで、郁の目にはもう少し優しくした方がと思う勢いで髪を拭いだした。新宿の病院でも自然と郁の指定席になった枕元の椅子に座り、やっぱり男の人ってそうなんだと兄たちを思い出しながら、笑みを噛み殺す。
 静かな郁を怪訝そうに見つめ、待たせていると勘違いしたのか堂上は手付きをますます荒くした。
「悪いな。来る前に済ませとくつもりだったが、予想外に手間取った」
「まさか洗うのも自分で?」
 幾ら起きる許可が出たといっても、こないだまで脚を吊られ熱もあった人がなんて無茶を。そんな呆れとも感嘆ともつかない気持ちが声に表れていたのか、タオルの隙間からじろりと睨まれた。
「洗面台の奥に椅子と専用の台があるんだよ。子供じゃないんだから座ってしまえばそれくらい自分で出来る。……それに、お前が来るなら小ざっぱりしときたいと思って悪いか」
 最後に怒ったような調子で理由を明かされ、治まっていた鼓動が大きく跳ねた。
 ままならない体で苦労しても髪を洗いに行ったのが、あたしのためになら。
「……悪くないです」
 囁くように答えて、膝の上の手をきゅっと握った。
 教官もそういうの気にしてくれたんだ、あたしが服や化粧に気合いを入れたみたいに。病室前で身支度姿を見られたのはチャラだ。
 俯いた頭にポンとタオルを乗せられる。
「その辺、適当に掛けといてくれ」
「はい」
 上官と部下だったら決して頼まないだろうその行動は堂上の甘えと照れ隠しだと分かって、ニヤケそうになりながらベッドの足側の柵にほんのりと濡れたタオルを干す。
 こんな些細なことでも彼女っぽくて嬉しい、なんて単純?
「あ、お茶用意しますね」
「ん、頼む。小牧が持ってきた紅茶がまだ幾つかあったはずだ」
 あぁそれは頭からすっぱり飛んでいた。
 小牧の方が世話女房の図式はまだ崩れていない現状にがくりと肩を落とし、次に来るときは必ずティーバッグも追加、と頭に叩き込む。
「それはケーキか?」
「はい、教官も気に入るはずですよ」
「あぁ、お前は知っていたな」
 堂上は横を向いてぶっきらぼうに言うが、もう遅い。甘くないやつなら好きだと知ることになったきっかけは、初めて二人きりで出かけた立川のハーブカフェで、全て郁の記憶にしっかり刻まれている。
 開店と同時に着くよう早起きして、わざわざ往復してまで同じケーキをテイクアウトするなんて女の子らし過ぎた?
 今更ながら照れ臭くなったが、もうどうしようもない。せめて堂上が喜んでくれることを祈るしかない。
 熱い頬を誤魔化すように、ケーキを取りに背を向け深呼吸を一つ。
 お茶を用意して、プラスチックの皿に乗せフォークを添えたケーキをおずおずと差し出す。
「どうぞ。チーズスフレです」
「これ、郁と行った立川の店のか」
 ケーキを見て目を瞠った堂上以上に郁は目をむいた。

 いま、いま……名前で呼んだ? なんか凄いさらっと呼ばれたけど、確かに郁って。今まで笠原かアホウか馬鹿か……あ、はじめの以外は軽く凹む。熊殺しよりは数百倍マシだけど。

「違うのか?」
 自分の世界に入り込んでいた郁は、堂上がケーキを見ながら問う声にハッと我に返った。
「いえっ! 違いません!」
 それよりも今。
 郁と呼びませんでしたか?
 そう郁が尋ね返そうとするより早く一口目を口に運んだ堂上は「やっぱりな。確かにこの味だ」としれっとしたもので。郁だけが状況に追い付けなくて、せっかくのケーキを前に悶々としてしまう。
 郁と呼ばれたことは昔一度だけある。でもそれはマスコミに囲まれていて迂闊に苗字がバレたらどう使われるか分からないという事態だったからで、今は危機的状況でも緊急事態でもない。
 てことは、今の郁の意味は……。
 考えてその瞬間、一気に熱があがった。
 そういう奇襲って反則ですっ、確かに彼氏と彼女になった特別感は嬉しいけどっ、いきなり不意討ちされたらどう反応すればいいかわかりません! じゃああたしも名前で呼んでいいんですか?!
 ……無理。
 想像しかけた途端に打ち消した。自分が名前で呼びかける姿を想像しても、自然な光景が浮かんでこない。篤、なんて呼べない。照れる。
 この微妙な間が空いたからには、尋ねて「だからどうした?」と答えられでもしたら返事のしようがない。嫌なら今まで通り笠原に、と戻ってしまうのも惜しい。
 ……なんかほんとに付き合ってるんだ。
 呼び方一つでドキドキしたりすると、男女の付き合いは初めての郁にとって新発見で、真っ赤になっているだろう顔をあげられない。
 耳まで染めて俯いたままの郁に
「食わないのか。紅茶も冷めるぞ」
 内心の笑いを押し殺して何気ないふうに声をかけた堂上は、自分も名前で呼んでもらうまでそれから一年以上もかかるなんて、予想すらしていなかった。

あとがき

まったく迎撃できてません。
思いつきでタイトルつけると、すぐこれだ。
タイトルからかけ離れたけど、今度はしっくりくるのが浮かばない罠。
や、でも?
しれっとしつつ内心デレデレの教官が、どうやってさりげなく名前を呼ぶかとか考えてたら、もうその時点で郁の勝ちだな、こりゃ。