あといくつハードルを越えれば



 だるい体をのぼせる限界直前まで湯船につけ髪は二度も洗った。寮ならざっとぬぐうだけなのに丁寧に乾かしもしたし、ホテルのアメニティで明日の朝に回す分以外ギリギリまで使って念入りに肌の手入れもした。
 もうさすがにやることないかぁ。あ、眉の手入れ……って剃刀は教官が明日の朝使う分しかないじゃない。今あたしが使うわけにはいかないし、いくらざっくばらんな自分の性格をもってしてもT字型の剃刀で繊細な技術を要する眉なんて。他にこの場でできること、時間を潰せること。できれば教官が先に寝てしまうまで。
「下着洗う……のは無し」
 無理矢理に見つけたできることは速攻で却下した。いま感じている気まずさ以上に干しているのを見られることの方が気まずい。
 郁は洗面台に両手をついて身を乗り出し鏡に映るツヤツヤのサラサラな自分を眺めてできること探しを諦め、そして肩を落とした。
 バスルームの向こうからは音が聞こえない。
 けど、やっぱ待ってくれてるよね。
 はぁとため息をついて肩にかけていたタオルを手繰る。
 先にシャワー浴びたんだから先に寝ていてくれて構わないのに、というのは郁の都合だ。待っていてくれる堂上を責めるのはお門違いだろう。まさか待たせている郁が、寝落ちを期待して引き延ばしているとは堂上には思いもよらないに違いない。
 これ以上はもう無理、踏み込まれる前に出よう。気まずいのはほんの小一時間。よし。
 気合いを入れるついでに頬を叩く。手入れに時間をかけただけあって、その頬は吸い付くような感触で弾んだ。
 後は寝るだけだってのに、出かける前より手入れに時間かけてどうすんの。

 ――寝る、って!

 自分にツッコミを入れた瞬間浮かんだ、本来の意味とは別の用法にカッと頬が熱くなって郁は盛大にうろたえた。
 長湯で解れたとはいえ、まだ体のあちこちに生々しい疲労が残っている。その、別の意味で「寝た」せいで。
 思い出して郁はその場にへたり込んだ。
 はじめての時のような失敗こそしなくなったものの、片手で足りる回数の郁には自分と堂上がしたことの記憶を巻き戻すのは刺激が強すぎる。

 唇以外にされるキス、重なった肌の熱さ。

 駄目だって思い出しちゃ。
 気持ちは拒否しているのに頭は勝手に断片を拾っていく。

 どちらのものか分からない汗、受け入れる時にまだ感じる違和感。

 だからこれ以上は駄目って!
 ぶんぶんと頭を振って追い出そうとしたところにとどめがきた。

 こらえきれなかった声。

「ッ……」
 キャーー!
 咄嗟に出てしまいそうになった叫びを飲み込んで台の縁に頬をつけた。一人でこれ以上あれこれ考えていたら本格的にバスルームから出られなくなる。
 郁は覚悟を決めてバスルームのドアを開けた。
「おっ、終わったか」
「……はい」
 遅いと叱られるかと思っていた郁は当然という風情で受け入れた堂上の声に身を縮めた。
 こんなふうに優しくされるとどうしたらいいのか郁はまだ分からない。恋人になってかなり経ちお泊まりもする仲になったけれど、恋愛事というのはハードル走と似ているらしい。それもかなりインターバルが詰まっているハードル走。一つ引っかかると途端に先へ進めなくなる。
「お前ももう寝るだろ。ほら早く入れ、灯り消すぞ」
 堂上が何も気にする素振りがないのは経験値か性格か男女差か。
 だったら努力でどうにかなる問題じゃないじゃない。このベッドで待つ教官までのほんの数歩の空気がいたたまれないから籠城してたのに。
 郁は言うなり布団に入った堂上に恨みがましい視線を向けつつ隣に滑り込んだ。今日のホテルに限ってダブルベッドなのがまた痛い。
 ツインを取ってもどうせ同じベッドで寝るしな。
 部屋に入った瞬間、大きいベッドにたじろいだのを見透かすように言われたセリフを思い出しながら半身分すき間を空けたのは、バスルーム籠城と同じ理由だ。なのに、
「遠い」
 意識して空けた間は一言で詰められた。腰を抱かれて引き寄せられ悲鳴をあげる暇もない。
「そんな端に寝たら落ちるだろ、お前」
「落ちませんってば! 子供じゃないんだから。これでも寝相はいい方でっ」
「知ってる。何回一緒に寝たと思ってんだ」
 だからこんなにくっつかなくても! と言うより早く肯定されてしまう始末で、ハードルごとにつまずいている郁にはもう言うに言えない。しかもその間にも堂上の腕は所謂「腕枕」の姿勢を取っていた。
 だからこれもハードルなんだってば!
 腕枕は嫌いじゃない。鍛えているのが高さで分かる腕に頭を預けると、例え抱きしめられていなくても肌の温もりが伝わって包まれいる気分になると「はじめて」の夜に知った。
 照れくさいのに落ち着いて、自然に体が寄り添ってしまう。
 問題は体を向けたときに下になる腕をどうしたらいいのか、だ。真上を向いたままなら気をつけの姿勢でいればいいから問題はない。恋人と同じベッドで寝るのに真上を向いたままでも不自然じゃない?
 恋人とお泊まりというシチュエーションは堂上がはじめてで、その堂上に聞けたら苦労していない。そこが友人曰く純粋培養だろうな、と心臓をバクバク鳴らしながら郁は思った。
 笑われるの決定で柴崎に相談してみよう。今日はとりあえず試しに真上で、と決めたそのとき耳元ですんと鼻がなった。
「いい匂いがする」
 そして顔を寄せる気配もする。薄明かりの中とはいえ闇に強い戦闘職種の相手には、顔が赤くなっているのなんてバレバレになってしまう。郁は堪えきれなくなって肩に額を乗せた。
「教官だって同じ匂いするじゃないですか」
 鼻先に触れる髪から漂う香りは同じ匂いをしている理由を明言しているようで、やっぱりいたたまれない。
「いや、なんか違うような……、あぁきっと郁の匂いなんだな」
「なっ」
 埋めた肩から一瞬であがった頬の熱が伝わっただろうか。
「……に言ってんですかっ! 教官それ何かすごくやらしい!」
「やらしいって、な」
 堂上は憮然とした声になったけれど、そこで言葉を切って小さく噴き出した。うなじに当たる腕が動いたと思ったら、枕にポンポンと叩かれる。
「照れるな照れるな」
 余裕の堂上に対して郁の返事は押し殺した分だけ唸り声じみていた。
 なんであたしだけハードルごとにうろたえて!
「ほら、すき間が開くと寒いからもっとくっつけ」
「嫌です! あたし今日は離れて寝ますからっ、じゃあおやすみなさい!」
 堂上と反対に体を向けたけれど笑いながら背後から抱きしめられ、やっぱり腕枕にもっていかれる。
 結局ダブルベッドでもツインのときのシングルの幅しか使わずに寝ることになった郁は、この体勢なら腕を伸ばせて問題解消だと気づかないまま眠りに落ちた。

あとがき

かなり頑張ってエロス成分削ったり。
もっと郁が回想してるとこで生々しかったんだけどね。
してることはしてるわけだし、
これ年齢制限しなくていいのか、等ご意見ありましたら是非に。