王子様との恋物語



 図書隊に属する者は程度の差こそあれ、総じて本が好きだ。郁もジャンルはかなり限定されるが割と好きな部類に入る。
 子供時分に似合わないとからかわれたまま疎遠にならなくて良かった、と今では心から思う。それが縁で図書隊に入ったようなものだから。
 本が読めて体も動かせる、郁にとって図書隊は最高の職場だった。
 加えて図書隊はそれが取締り対象だろうが何だろうが、本に関してあらゆる情報が集まる一端だ。仕事の片手間に欲しい情報を苦労せず集められる。
 もう一端は取締る側の良化隊というのが複雑なところだけど。でもまぁ……。
「やっと読めるー」
 郁は良化隊への思いをすっぱり切って、待ちわびた後だからこその上機嫌で今日借りてきたばかりの本をコタツに置いた。
 郁が好きな和風ミステリ作家の新作がやっと空いたのだ。図書館に収蔵されてから早数ヶ月、業務で図書館に出向く度に気にしていたのに、いつも貸し出されていてなかなか手にできなかった。郁の手取りではポンと買える値段ではなく、じりじりと待つしかなかったのだ。
 ようやく拝読できるなら、こちらも万全の体勢で向かわねば失礼だといそいそお茶の準備をする。菓子は読みながら食べても本が汚れない個装の煎餅。これもだいぶ前からこの日のために用意してある。
「あ、あたしにもお茶ちょーだい」
「ほうじ茶でいい?」
 柴崎に言われる前から二つ出していたマグカップに注ぎながら、どうせなら湯飲みも用意すればより風情があったかと残念に思った。普段はコーヒーや紅茶なのと、寮住まいの制限で私物は最低限で代用の癖が身に染み付いているから、そこまで思い至らなかったのは仕方ない。
「なんでもー。一気に読んでたら動くの億劫になっちゃって。助かるわぁ」
 柴崎も気にする素振りがないからまぁいいかと、二つ持ってコタツに潜り込んだ。今日の郁はとにかく機嫌がいい。
「それ前にあんたが言ってたやつ?」
 ありがとーとカップに手を伸ばした柴崎が、郁の本に目を滑らせ記憶力を披露した。自分の好きなものを覚えていて貰った嬉しさも加わってますます破顔する。
「そう。ミステリなんだけどさー、主人公とヒロインのじれったい関係が何ともいえなくて」
「へぇ」
「くっつくようで、くっつかない、それがもどかしいんだけどいいのよ!」
 あぁ、面白さをもっと伝えたいのに語彙が追いつかない。
 思いは前巻のラストでまたもやすれ違った二人に飛ぶ。
 今回こそくっついても良さそうだけどどうなることやら。二人とも謎を解くパートナーとしては息ぴったりなのに、肝心なところで素直じゃないからなぁ。
 遠い目をして耽り出した郁をカップ越しにしげしげと見詰め、ふぅと息を吐いた柴崎は澄ました顔でその本を片手でペラペラ捲った。
 キャラ読みすると知ってはいるけどミステリの説明でそれはないでしょ、誰と誰の話かと思ったわよ。誰かさんのことを語っているときと同じ表情してるって気がついてないのね、この純粋培養乙女ときたら――郁の淹れたお茶を含んでなかったら、そうも言ってやりたくなるところだ。
 戻る気配のない郁に、
「じれったい、ねぇ? わざわざ本で読まなくても充分じゃなーい?」
 これくらい、つい突ついてしまうのは、そういうかわいい顔をするからなのよね。
 内心で郁の眩しさに目を細めた柴崎は、最近増えたかわいい顔の郁をちくりと突っつく。と、遠くへ旅立っていた郁が意識を戻すなり唇を尖らせた。
 郁の方はほうじ茶をすすりながら皮肉気な口を挟む柴崎に、期待と嬉しさの反動でムッとしていた。
「充分って何よ」
 何ヶ月も待ちわびてやっとなのに。これから堪能しようかってときに。口をつけてなかったら、そのお茶回収するところだぞ。
「だぁって、じれったい二人の見本がここにいるじゃない。わざわざ他で読まなくても、あんたと堂上教官の三年間をあたしが本にしてあげようかー?」
「なっ……んで、そこであたしと教官なのよ」
 てっきり本の内容にケチをつけられているとばかり思っていた郁は、自分たちに横滑りした話題に目を剥いた。
「まんまじゃない。ほんっと見てるこっちはどれだけじれったかったか。お互い意識しまくりなのに、自覚症状なしの純粋培養乙女と王子様ってばー」
「……ほっといてよ」
 照れくささでむくれ、柴崎の視線を避けるようにコタツ布団を引き上げる。
 自覚症状なしと言われても経験値が少ないんだもん。あれやそれが無意識に堂上を慕っていたと傍目には見えたとしても、郁自身は自分を目の敵にする鬼教官だから反発してなのか、尊敬できると悟ったから認められたかったのか、王子様を否定されるのが悔しかったからなのか、判別がつかなかったのだ。
 男性として意識するようになったのだって手塚慧の爆弾がきっかけで、自覚させてくれてありがとうなんて未だに思えない。強引に引っ掻き回された恨みは心の底にしつこく残っている。
「そ、そういう柴崎は? また恋愛系?」
 これ以上、自分たちの過去をほじくり返されるのも気恥ずかしくて郁は無理のない範囲で、でもかなり強引に話題を変えた。
「柴崎ほんと好きよねー、自分に置き換えたりしないわけ?」
 じれったいというなら柴崎と手塚も郁にとってかなりじれったい。それこそ小説に転化しなくたってちょっと踏み出せば直ぐにでもヒロインになれるのに。それも物語顔負けの絶世の美女っぷりで。
 友人へのそんな気遣いは、
「しないわよ」
 バッサリ一言で切り捨てられた。
 それどころか、郁ごときが柴崎に反撃しようとした罰と言わんばかりの追い討ちが来る。
「そうそう、この本ねー。これ中世ヨーロッパが舞台で、王子様と恋に疎い領民の娘が結ばれるまでの話よ」
 うまいこと逸らしたとほくそ笑みかけていた郁は、柴崎の口から飛び出したどこかで聞いたことのあるシナリオに肩を縮めた。
「この王子様もかなり疎いんだけどぉー、自覚してからは急展開よ。はじめは反発してた娘もなついてさー」
「……なによそれ」
「だから、これの粗筋」
 柴崎は決して男性隊員には見せないチェシャ猫のような笑みで手にしていた本を見せつける。確かに表紙は昔のヨーロッパ調の服に身を包んだ男女の絵で、タイトルもそれっぽい。
 けれど先の話題が話題だけに当て擦られているんじゃ? という疑惑は簡単に拭えない。かといってそんなことを訊いたら柴崎の思惑にまんまと乗せられそうで何を言うことも出来ず、ほうじ茶を引き寄せてわざと音をたてて啜り不服を現すのが郁には精一杯だ。
「クライマックスなんて恋愛モノの王道よ。悪徳領主のもとから王子様が娘を助けだすの。俺のものだ返してもらう、って」
 ――俺の部下だ、返してもらう。
 記憶に強く残っている堂上の声が蘇って、郁は喉に落ちる前のお茶を吹き出した。
「し、柴崎ぃ」
 拭きながらジト目で睨んでも柴崎はしれっとしたものだ。
「なによ。懇切丁寧に説明してあげてるのに」
 感謝しなさいと言わんばかりの顔に「貸せっ!」と問題の本を奪い取る。
「あ、笠原も読む? あたし読み終わったから良いわよ」
「違うっ!」
 郁は引ったくった本を忙しなく捲りながら「そのシーンどこっ」と怒鳴った。
 柴崎は嘘はつかない。そのかわり巧妙に言葉を選んで自分に都合よく作り替えはする。王子様とか、はじめは反発とか、心当たりのありすぎる粗筋に便乗していないかちゃんと確認しないと、一方的にやり込められる羽目になりそうだ。
「ラスト十ページくらいね」
 目的のページを見つけた郁は視線を上下させてクライマックスを読み進め、そして柴崎がお茶を啜る音に同調するよう一息ごとに頬が熱くなるのを実感した。
 たしかに……柴崎の言った通り王子様と娘の話だ。普通に読んだら美しい物語に違いない。
 郁の肩身が狭いのは、自分が本人目の前と知らず王子様と恥ずかしい単語で熱をあげてた日々があるからで、完璧に郁の都合だ。
 柴崎がその本の粗筋を知り、わざわざ選んで借りたとは郁は思いつきもしない。
「なぁに赤くなっちゃって。そんなに熱烈な話じゃないでしょ。それとも誰かと重なる部分でもあった?」
「……いじわる。もういい、返す」
 撃沈寸前の郁はラストシーンを横目に柴崎に渡そうとして、目に飛び込んできた単語に絶句した。
「どうしたの?」
「なにこの初夜権て」
 美しいクライマックスに向けて何とも生々しい単語だ。
 初夜という言葉に最近思い当たる節のある郁は固まってしまう。
 あぁ、と柴崎は郁の手から本を取って小首を傾げた。
「中世ヨーロッパでわりと一般的だった風習よ。聞いたことは……その顔を見ればないようね。いい? 初夜権てのはこの物語の要で、ヒロインが自分の気持ちに気がつく大事なきっかけなの。だってそうでしょ。結婚初夜にその土地の領主と一夜を過ごすか、嫌なら代償として多額の税金を納めるか、なんてねーぇ」
「てことは、好きでもない相手とエ……そういうことしなきゃいけなかったわけ!? なにそれ、女をなんだと思ってんの!」
「当時のヨーロッパじゃ女の権利はないに等しいから」
「だからって!」
 好きな相手でも「はじめて」を迎えるのに、あんなに覚悟がいったのに。いくら権力者だからって無理やり初夜の権利なんてふざけんな!
 当時の女性の気持ちを想像して沸騰した郁に対して柴崎は冷静だった。
「税の徴収名目で実際に領主に処女を捧げたわけではないってのが現在の定説よ。」
「……そうなの?」
「そう、だから落ち着きなさーい」
 無体な仕打ちをされた女性がいなかったのかもしれない。それだけで郁の沸騰はあっという間に収まった。
「そこで怒れるのがあんたのいいとこよね。あたしなんてもう、そういう歴史があったこと前提で読んじゃったから」
「だってさ、やっぱ、そういうことは上の勝手な決め付けで無理強いされることじゃないじゃん」
 真顔で褒められて妙に決まり悪くなった郁が呟いたのは、メディア良化法をにおわせるものだった。個人の権利を無視すればどこかが狂う。狂った中で苦しむのは常に立場が弱いものだ。
 だからあたしは図書隊に来た。
 王子様──あたしを助けてくれた正義の味方を追って。
 この本を全て読んだわけではないから領民の娘というのがどういう性格かはわからない。わからないけれど、大人しく初夜権なんてふざけた決まりを受け入れるような性格じゃないといいと思う。
「そうねぇ」
 しんと流れた沈黙を破ったのは柴崎だ。
「笠原ならその時代でも逞しく生きそう。領主殴って自分で逃げ出したりとか」
「黙ってやられるなんて性に合わないし、それもそうかも」
 あたしは恋物語のヒロインになれる性格やスペックじゃないのは知っている。
 それでもいいと言ってくれる人がいるからいい。
「ま、堂上教官もどの時代に居たってそういうあんたがいいと言うでしょうけどー?」
 考えを読まれたかのようなからかい口にぐっと喉が鳴った。
「やっぱり充分で合ってるでしょ」
「な、なにが」
 すっかりぬるくなったお茶を一気に飲み干して柴崎を窺う。
「本で読まなくても、って話のこと。充分、恋愛モノよあんたたち」
「なんでまたその話を持ち出すのよ!」
 初夜権うんぬんですっかり忘れていた話題に不利を悟った。
 柴崎の話題主導権は悪徳領主も勝てない、ましてや同室になって以来一度も握ったことのない郁に勝ち目なんて微塵もない。
「だって見てて飽きないんだものー。どんな本より面白いわよ?」
「人を勝手にエンタテイメントにすんな! フツーに本を読め本を!」
「今日はもう借りてきたの全部読んじゃった。あんたはそれ読むんでしょ? あたし先に寝るから」
「いい。今日はもう少しテレビでも見たら、あたしももう寝る」
 楽しみだったじれったい二人のミステリなんて今はもう読める状態じゃない。
 巻き戻ってのからかい追加に読む気も失せて、郁はコタツ布団をひっぱりあげて口では勝てない柴崎から身を守った。

あとがき

古代エジプトに続いて好きな中世ヨーロッパですが、
柴崎さんも言うように女性の人権なんてかすりもしなかった時代でもあるのよねー。
というか権力者以外は権利なにそれ?状態。
その時代がテーマの本を読んでいて思いついた話だけど、な、長いうえにまとまりない。
あいたたた。
とりあえずこれだけは言ってみる。
教官、初夜権おめでとう!