恋愛強弱



 郁はベッドの中でかなりの時間、携帯電話を見つめ続けていた。
 メールの画面は立ち上げてある。宛先も。送る文面はただ一行、決まり文句の――外に出ませんか。
 さ行のキーに指を乗せ……、力を込める前に慌てて画面を閉じる。
 やっぱ無理! 自分から誘うのなんて恥ずかしい! 教官のバカーー!
 同室の柴崎に聞かれないよう堂上への八つ当たりを心の中で叫び、郁は今日はもう諦めて布団を剥いだ。ベッド周りのカーテンを開け、ずるずると這いながらコタツに潜り込んだ郁に、柴崎が目を丸くする。
「起きてたの。あんまり静かだからもう寝てたかと思った」
「うん、ちょっとね」
「教官にメールしてた? にしては物音一つしなかったけど」
 ほぼ正解の予想に肩を縮めて項垂れる。
「しようかと思ったけど……別に……緊急の用件があるわけじゃないし」
 出た声は我ながら不貞腐れたもので、下がり続けた顔はとうとうコタツにくっついた。
「彼氏に送るメールなんて、緊急かどうかなんて関係ないでしょ。他愛ないことで十分じゃない」
 あまりの凹みぶりを見かねて柴崎が入れてくれたフォローに、閉じた瞼の裏でじわりと涙が浮かぶ。
「……だよねぇ」
 それが出来ないから苦労してるんだけど、じゃあ何でと訊かれたら答えられる筈もなくて曖昧に濁す。天板ごしの声はくぐもって響き、涙混じりを誤魔化せた。
 たまにはお前から誘え、とか無茶です教官。教官もあたしがそういうの苦手って知ってるくせに。

 それが起こったのは数日前のことだった。
 いつものように夜更けに届いたメールは一行、「外に出られるか」
 それはもう郁と堂上の間で「今からキスしたい」と同義で、郁は顔が赤くなる前にさりげなく柴崎へちょっと出てくると言い残し、ドアを閉めた途端、訓練速度で廊下を進んだ。
 返事を送ってないと気付いたのは、共用スペースのソファーに腰掛けていた姿を見つけたと同時で、言いかけた言葉は堂上が立ち上がったことでタイミングを失う。
 何も言わず玄関に向かった背中を追いかけ、出たところで待っていた堂上を首をすくめた上目遣いで窺うと手を取られた。
 そのまま寮の陰に誘い込まれる。
 今さら、「出られです」とメールの返事をするのもおかしい、お待たせしましたというほど待たせてない、だから唇を閉じかけようとした瞬間抱きしめられ、反応する前に唇を重ねられ応えるのが追いつかない。
 僅かに開いていた唇の隙間からするりと堂上の舌が滑り込んできて、結局なにも会話がないままで郁もキスに夢中になった。
 控え目に、でも伝わるくらい肩にすがると腰に回った堂上の腕は力を増し、二人の距離は限りなくゼロになる。
 仕事柄鍛えられた筋肉質の抱擁は、それでも加減されていると知っている。激しさの裏にある優しさは堂上の性格を表しているようで、それだけで胸の奥が甘く疼く。
 胸から伝った疼きが腰にしびれのような感覚を起こして、膝がかくんと崩れてしまった。支えてくれる堂上の腕がなかったら、そのまま地面に尻餅をついていたとぼんやり考える。
 陸上と訓練で鍛えていたつもりの脚が堂上とキスをするたび役立たずに変わるのも、こうして陰で逢瀬を重ねるようになって分かった。
 幾ら支えて貰っているとはいえ、長いキスにまともに立っていられなくなって首を振る。
 なのに、堂上は腕を弛めるどころかキスの激しさを増した。
「……っ、あ……」
 こんなに深いキスにはまだ慣れていない郁は、呼吸を求めて喘いでしまう。濡れた声が出て恥ずかしさに身を縮めると、ようやく唇が解放された。
「……苦し」
「そうか」
 思わず呟いた郁に応えた堂上は、
「慣れろ」
 しれっと難問を投げて、そのかわり労るように郁の頭を自分の肩口に押し付け背中を撫でてくれた。
「慣れるのなんて、無理、です」
 子供みたいにあやしてくれる堂上に拗ねた口調で甘えると、耳にふっと息がかかった。
 それにすらビクンと反応した郁を小さく笑ってから、人を気にしてか潜めた声が息に続いて耳をなぶる。
「回数こなせば嫌でも慣れる」
 からかい混じりにとんでもないことを言う。図書隊の敷地内で恋人モードの声音にも慣れてないのに。耳が熱い。きっといま凄く赤くなってる。
 教官は……と視線だけ動かして見ると、目の前に横顔があって余りの近さに郁の熱はますます上がった。
「慣れる……でしょうか」
「あぁ。だからたまにはお前から誘え」
「……えっ……それはちょっと」
「なんだ、その反応は」
「えっとー、その」
 不服そうに言われて、恋愛初心者の郁はパニックになりかけた。
 あたしから誘う、って。キスしたいって誘うってことだよね。
「無理です!」
 想像しただけで恥ずかしい。
 とっさに口から飛び出したセリフに少し体を離し真顔で見つめられ、郁は視線を避け俯き精一杯、体を竦める。
「なら、お前から誘うまで俺からも誘わん」
「えーーーっ!」
「馬鹿、声が大きい! この時間はまだコンビニだ何だとうろついてる隊員もいるんだぞ!」
 潜めた叱責に慌てて口をつぐみ、誰かに見つかる前にと急いで互いの部屋に戻った。

 あそこで有耶無耶になって、ちゃんと話をしなかったのが敗因か。
 郁は悩む羽目になった理由を思い出して頭を抱えた。
 訓練ならどんなにキツくても受けて立つ、業務なら信頼に応えるだけの働きをしたい、でも恋人としての堂上の指令は郁にとってはまだハードルが高過ぎる。
 こんなの柴崎に知られたら、またからかわれるんだろうなぁ。
 からかわれるの承知で相談しようかと浮かんだ考えは、形にした途端に打ち消した。
 トモダチとはいえ、これから先なにかあるたび頼ってたらキリがないし、成長しない。これくらい自分で何とかしなきゃいけない気がする。
 でも。
 キスはしたい、けど自分からは言えない出来ない。堂上の側から誘ってくれるから安心してキスに応えられる、って甘えてるのかな。あぁ女の子モードって難しい。難しいことは考えるのすら苦手だ。問題事は全て脚で解決してきたツケだろうか。
 体を動かすことなら大抵の女の子に負けないのに。どうせ戦闘職種の大女だもん。
 幾ら堂上が望んだとはいえ、自分から可愛くキスしたいでーすなんて似合わない、と半ば自棄気味に呟いたことこそ郁の苦手な女の子そのものとは気付いてなかった。



 同じ頃。
 堂上は今夜も鳴る気配のない携帯電話を玩ぶのにも飽き、背中越しに枕元へ放り投げた。
 あいつ、何日待たせるつもりだ。
 郁の方からキスを誘えと言い出したのは自分のくせに、間が空けば空くほど後悔が押し寄せる。郁ならこうなるのは読めていた、そして待つ間キスが出来なくて辛いのは自分だとも分かっていた。
 郁が恋愛事に不慣れなのは理解していても、たまには自分からねだって欲しいと期待するのはそんなに過ぎた望みか?
 なんだろうなぁ、と独りごちて缶ビールを一息に喉へ落とす。手の内でもて遊んでいたビールは生温く、吐いた息はそのせいだけではなく苦かった。
 五歳歳上の余裕なんかない、ここまで遠回り……小牧に言わせるとめんどくさい時期を経てようやくだ。自覚してしまえば我慢にも限界がある。
 手を出すのはキスだけで留め、慣れるにまかせる自制心を褒めてほしいくらいだ。
 大体、先に手を出したのは郁の方からだろう、と思い出して苦笑が浮かんだ。
 キスと呼ぶには程遠い、強引なそれは今思い出しても温かい。
 本能で行動するあいつに相応しい、色気のないキスだった。だが運び込まれた病院での緊急手術後、麻酔覚めやらぬ高熱の中で正気を保つくらいには色があった。
 そして今は一人前に色気を感じる反応を返す。
 詰めた呼吸の合間に漏れる声や、ぎこちなく絡めてくる舌にこちらがどれだけ煽られているか知らないあたり、無自覚だから質が悪い。
 しれっとなかったことにして、今まで通りこちらからだけ誘うという選択肢は、浮かぶ前に削除していた。
 ここで手を差しのべて助けてやったら、これ以上先になにかあるたび郁から成長するのを止めてしまう。教官として図書隊配属から郁を育ててきた堂上には、簡単に予想がついた。根っからの体育会系で素直な分、理解させたかったら叩き込むのが手っ取り早い。
 キスだけで終わらせてやるつもりなんかないから、早く追い付け。
 待つ身のキツさにもう一度ビールを呷って、中身がもうないことにようやく気付いた。
 片手で缶を押し潰し、冷蔵庫を開けて思わず舌打ちが出る。
 郁の事を考えていたら、最後の一本をろくに味わわずに空けてしまった。



 コタツと羞恥で湯だった郁は冷たい飲み物が欲しくなって、夜更けの廊下をとぼとぼと歩いた。自販機が見えるか見えないかという頃、ガタンと落ちる音に先客がいると気付く。
「あ、」
 先客が堂上だと一拍遅れて分かった郁は、何か言いかけて結局何も言葉に出来ず曖昧な笑みを浮かべた。
「ん? あぁ、お前も喉が渇いたか」
「はい。教官はまたお酒ですか」
「人を年中酔っ払いみたいに言うな」
「言ってません。それに教官、強いから酔わないじゃないですか」
 気まずい空気が流れるかという心配は堂上の采配で杞憂に終わり、どことなくほっとして隣に並ぶ。
 堂上はほんの少し郁に目を向けただけで離れたソファーに向かい、買ったばかりのビールを豪快に傾けた。
 うわぁと呟いたのは、郁には真似できない飲みっぷりの為だ。目的だったジュースを買うのも忘れ、唖然と見つめる郁に気付いた堂上は更に呷り
「飲まなきゃやってられるか」
 と、なぜか仏頂面だ。
「何かあったんですか?」
「お前がそれを訊くのか」
 心配して訊いただけなのにー、でもお前がってことはあたし絡みか?
 不機嫌な様子に今日の訓練から遡ってヘマを探した記憶が、一点でフリーズして固まる。
 もしかしたら、もしかしなくてもアレのせい!?
 不機嫌の理由が想像通りなら確かにあたしのせいだ。そんな、怒らせるつもりなんてこれっぽっちもなかったのに。
 自販機に背を向け、泣きそうになりながらごめんなさいと謝ると、もう飲み終わったのか缶を潰しながら真顔で首を傾げられた。
「あの、無理ってのは、その、嫌ってことじゃなくて」
 しどろもどろでも何を指すのか伝わったらしい。堂上は不機嫌さが消えた顔で「あぁ」と一言だけ返し空き缶を捨て、通り過ぎざま郁の頭をポンポンと叩いた。
「それくらい分かってるから、そんな顔するな」
 態度も優しければ声も優しい。気にしなくていいと言われているみたいだ。気にさせてるのに……。
 とっさに離れかけた手を取った。
 自販機の明かりだけが照らす共用スペースにも廊下にも他の隊員の姿はない。
「おいっ」
 そのまま共用スペースの暗がりに引っ張って襟を掴もう……とした両手を自分より少し低い肩に乗せ、更に首筋に巻きつけた。
 襟じゃ初めて奪ったキスの再現になってしまう。これでも多少は成長している。
 何するんだと問われる前に唇を重ねた。
 一瞬ためらってから、舌を伸ばす。舐める恰好になった舌はあっという間に捕らえられた。
 きつく抱きしめられ、壁に挟まれ、郁から仕掛けたキスの主導権は堂上のものになる。
 外に出ませんかってメールは送ってないけど、外ですらないけど、空白を埋める激しさでキスが続く。
「……苦い」
 肩で息をする頃になってようやく終わった唇の下で呟くと、
「慣れろ」
 当然のように言われた。
 ビールの苦さは苦手だけど、酒の味がするキスも悪いものじゃない。それに堂上の顔はしれっとしていても、先ほどまでの不機嫌さはまったく感じない。
 だから。
「はいっ、努力します」
 そう返事をした郁に、こういう所に弱いんだよなと堂上は苦笑した。

あとがき

携帯のメール機能に挑戦状を叩き付けた一作
もう少しで、MAX全角5000文字をオーバーするとこでした
メールで作るとそのままPCに送れるし、便利なんだけど
まさかこんな落とし穴が