香気馥郁



 いつまでも突っ立ってても、決めるのは自分なんだから。
 ……よし!

 郁はドラッグストアの棚の前で気合を込めて腕を組んだ。
 郁がいる通路に入ってきたOL風の女性が、やや怪訝そうに郁を窺いながら本日限定セールの詰め替え用を掴んで去っていく。
 けれど郁の目にはそんな周囲の様子は入ってきていない。
 ひたすら見つめる目の前には、よりどりみどりのボディーソープ。
 いくつかセールになっていたりするが、郁の頭を悩ませているのは値段じゃなかった。
 
 香り、だ。

 “いかにも”女子な香りは昔から苦手で、普段は悩むにしてもシトラス系の中でどれにするかだ。季節によって“さらさら素肌”になるか“しっとりなめらか”になるか程度の違いはあるが、生まれつきそこそこ肌が強いのもあってかここまで悩んだことはない。
 柴崎なんかは「界面活性化剤無添加で保湿成分配合じゃないと」と、ちっこいボトルで札が飛ぶ程のブランドものを愛用していて郁にも勧めてくれるが、妙にこそばゆくてかえってドラッグストアに拘っていたというのに。
 なのに。

 さわやかカモミール。こっちは、とろけるカモミールシャボン。隣の列には、あふれるカモミールガーデン。

 今日に限って目につくのはある特定の香り。気にし出すと意外に種類が多い香り。
 そして、ある特定の人物との因縁めいた香り。

“あたし好きなんです”
“俺もだ”

 思い出しかけたのが呼び水となって、封印していたセリフが脳内を過った。

 違う、違う違う違う!!
 別に堂上教官が好きって言ったからカモミールが気になったわけじゃなくて、もともと爽やかで好きな部類の香りだったし?
 これから寒くなっていくとはいえ特殊部隊は訓練で常に汗だくになる部署だから、爽やかな香りのソープを選ぶのは自分のためというより最早マナーの部類だし?
 こんだけ種類あるってことは、不特定多数の支持を得ているんだろうし。
 てことは、あたしがシトラス系じゃなくてカモミールのを買ったって、全然おかしくはない……筈……だし。

 最後は心の中でさえ尻すぼみになった。
 性格がアレだけど見た目はいかにも女子な柴崎が、いつもの何とかローズのボディソープから真逆の系統に変えたら何かあったのかと思う。その理屈でいえば、自分も急に香りの宗旨変えをしたら周りに何事かと思われてしまうかもしれない。
 これでカモミールのが格別に安ければ逃げを打つこともできるけれど、割引率はほどほどだ。
 基地から一番近いわけではないのに扱っている品数の多さで固定客を掴んでいる店だ、適当なごまかしは墓穴を深く深く掘る羽目になってしまうだろう。
 そこまで他人は気にしないわよ、という心の囁きに乗りたいけど乗れない。
 慣れない感情は自意識を強く刺激して、郁の手を竦ませる。
 
 もし、ふと香った瞬間に教官が傍にいたら。
 もし、カモミールだと気付かれたら。
 もし、教官の好きなカモミールだと。

「……っ……く」
 膝が崩れそうになるのをすんでの所で堪えた。
 最近、暴走しがちな想像がありえない光景を再生したがって困る。
 自分に向ける顔は五割が眉間に皺を寄せている上司が、優しく柔らかく微笑んでくれたり、なんて。
 香りを好ましいと言っただけで、体力馬鹿の粗忽で物覚えの悪い部下を好ましく思っていると言ったわけじゃないでしょうが。
 期待したがる心の底に重しをつけて、いつもの“はじけるフレッシュシトラス”をむんずと掴む。

 悩んだ時間を取り戻すかのように早足でレジに向かった。

 ◇

 あれほど留まっていたのが嘘のように、棚の上から半分覗く頭が遠ざかっていく。
 郁が納得いくまで離れるのを確認して、堂上は隣の通路で息を吐き出した。
 これでようやくボディソープを買える。
 酒と肴を買いに来たついでに、そろそろ軽くなりはじめたボディソープを買っておこうなんて思うんじゃなかったと後悔にまみれたのは数分。
 その間に、「品ぞろえがイマイチでも近い店に行けば今頃寮に戻れていたのに」や、「割高でも自販機で済ませれば良かった」というのは何度も思った。
 それでもたったの数分がやけに長く感じたのは、あらぬ想像をしてしまいそうになるのを堪え続けたからだ。
 選びあぐねているのが洗剤の類なら「奇遇だな」と会話の一つでもはじめられたものを、危なっかしくて目が離せなくて気がつけば常に視界にいる部下のいる通路は、よりによってボディソープだった。
 肌に直接のせる、つまり必然と肌が露わになる光景を連想させてしまうモノだ。
 いい歳して何を潔癖ぶってと自嘲が浮かぶが、そういう対象にしてはいけない相手というのはいる。
 してしまったら、何もかも変わってしまいそうな危うさを秘めた相手というのが。
 ただでさえ、特殊部隊以外の上層部には“見計らい権限を無断で行使した上司”と“それを憧れの対象としている部下”として、苦々しく思われている。
 自分一人なら何とでも。こぞって出世したいわけではない。本を守ることが出来ればそれでいい。
 だが、そのせいで部下まで色眼鏡で見られるのは我慢できない。
 だから蓋をして、鍵をかけて、見ないふりをしていたというのに、とうとう限界がきた。
 図書隊の理念を掲げたカミツレを、いつか絶対に取るとまっすぐにこちらを見詰め言いきった眼の澄んだ色。
 眩しいほどの純粋さでひびが入ったところへ、昇任試験の礼だと渡されたのがカミツレのアロマオイル。
 どんな気持ちで選んでくれたのかと、期待がざわめいてしまう毎にひびが広がった。会話の端を捕まえて、つい先の約束をしてしまう程。
 香りという要因は強く記憶に残るらしい。
 だから出ていけなくなった。
 くそ、と苦い気持ちがせりあがる。
 ふっ切るように人気の消えた通路に入って、とっさに目に付いた商品をわし掴む。何をふっ切ったのかは自分でも良くわからない、わからなくてもいい。
 甘ったるい匂いでなければそれでいい。どうせ、訓練と日常とで人より体を洗う機会は多い。
 ボトル一つ買ったところで、すぐになくなる。

 間合いを見ながらレジへ向かう途中で、掴んだ香りを確認すると“はじけるフレッシュシトラス”という具体的なようでいて抽象的な説明がボトルで踊っていた。

あとがき

ちなみに洗剤バージョンでも考えました、このネタ
猫百匹は図書戦好きになってから
香りつづくト○プのカモミール愛用なので
教官と郁が服から同じ匂いをさせていたら……まで考えて
なら、そもそも体から香るのでいいじゃない!
と軌道修正