行雲流水
「郁、うちに綿棒ってあったか?」 キッチンと呼ぶには時代を感じさせる官舎の台所で、食器を洗っていた郁の背後から堂上の声がした。 キュッと水を止め布巾で手を拭いながら振り向くと、風呂あがりの夫は肩にかけたバスタオルの端を耳にあて、とんとんと叩いている。 「待ってね……えっと」 食器棚に常備してある救急箱を取り出しながら、郁の頬は思わず緩んでしまった。 うわー、なんか今のやり取り夫婦っぽーい。耳に水が入ったって、言われる前に分かるって以心伝心? 息ぴったり? 心臓がふわんと舞い上がって、今更ながら結婚していることを意識する。寮だったらこんなやり取りは出来なかった。結婚して官舎住まいだからこそ、だ。 あぁ、あたし堂上郁なんだなぁ。 「無いのか? 無いなら仕方ない、ティッシュでもいけるか?」 ふわふわとした気分がどこまでも高くなりかけたのを遮って、よほど違和感が我慢出来ないらしい堂上の急かす声に我に返った郁は慌てて救急箱を漁り、 「あった!」 目当ての品を見つけた。 試供品で貰った化粧用コットンに絆創膏と綿棒がついていて、そのまま放り込んでいたものを底から引っ張り出す。 絆創膏はとうに使い切り、小分けの袋の中で斜めになっていた綿棒だけ出して手渡すと、眉間に皺を寄せていた堂上はほっとした顔で礼を言い、狭いながらも工夫して居心地良く設えているリビングの方へ去っていく。 郁はコットンだけになった小袋を一瞬迷ってから、元の救急箱に入れて棚に戻した。 コットンも救急時に役に立つかもしれないしね。 というのは、いま化粧ポーチにしまい直すのが面倒なせいや、化粧水は手で叩き込むから普段コットンを使うこともない言い訳ではない。よくよく考えなくても自分の性格ならここの方が出番がある。 化粧用のものだが、いざというとき圧迫止血に使えるからだ。 堂上家で救急箱を台所に設置しているわけは、夫婦揃って覚束ない包丁技術のためだった。 寮では料理をする必要がなかった。時間さえ守れば暖かくて栄養バランスの取れた食事が朝晩出てきた。 好きなメニューを思いついたときに食べられる自由には、「ただし、自分で作るなら」という制約込みだと改めて自覚したのは郁だけではない。 家庭内協議で、先に帰宅した方が夕飯を作るとルールを決めて以来、堂上も郁もまだ些細な切傷をこしらえることが良くある。 母親が看護師という環境で多少は覚えのあった堂上は最近では少なくなったが、郁は実家を出るまで何気に箱入りで育てられ料理といえば食べる専門だった。堂上と付き合うようになってから郁なりに努力はしたものの、マイペースに練習していたのと帰宅してから慌ただしく作るのでは勝手が違う。 夫婦になってはじめて料理をした次の日に買いに走った徳用絆創膏は、すでに箱半分がすかすかの有様だ。 またやったのか。 昨日の夜、貼っているところへ帰宅した堂上が特別ルールで後の調理を引き受け、濡れたら貼ったもん剥がれるだろと皿洗いまでしてくれたことへの感謝の気持ちをあらわし、今日は郁が調理と皿洗いも引き受けていた。 作ってない方が皿洗い、というのも堂上家ルールだ。 リビングに落ち着いた堂上がテレビを付けたらしい。聞き馴染みのあるニュース番組のオープニング曲が聞こえ、郁は重いため息をついた。 渋る堂上を「いいから、いいから」と強引にバスルーム……とは呼ぶのを躊躇う造りの風呂に押し込んだのが、テレビから計ると約二十分前の出来事で、あとは伏せて乾かすだけとはいえ皿洗いにそれだけかかる手際の悪さを露呈しているようでシュンとなる。 鍋にこびりついた汚れを落とすのは力任せにこすればあっという間に落ちるけれど、その勢いで茶碗や皿を洗うと悲惨な結果が待っている。燃えないゴミの日のたびに割れた食器をぶら下げて出勤するのは、もうゴメンしたい。 掃除は寮で叩き込まれたから何とか人並みだが、結婚して早一ヶ月も経とうかというのに満足に家事が出来ないのは、新妻として看過出来ない事態だった。 洗い物でも洗濯なら寮でもやってたからまだマシなのに。 つくづく寮生活に馴染みきって甘えていたのを、否応なしに自覚させられる。 そんなもん何年もやりゃ自然と慣れるし、そのうち自分なりの効率いいやり方とか覚えるだろ。 とは、昨日の晩ルールを曲げてくれた堂上に謝ったとき、勤務中には聞けない声でかけられた言葉だ。頭をくしゃくしゃと撫でる優しい手も。 何年も一緒にいることが前提の励ましに浮かれたのは昨日のことだけで、何年もかかることを言外に指摘されたと気付いてからは油断すると落ち込みの波がやってきてしまう。 篤さん真面目だからなー。慣れるための努力は惜しまないだろうし、どうすれば効率いいかきちんと考えながらこなしてそうだし。 それに比べてあたしは。 こういうとき、母の”女の子らしく”という言葉がのし掛かって来る。女の子なら年頃の各段階で徐々にスキルアップしていたのかもしれない、覚束ないあたしはやっぱり女の子には程遠いんだと、やさぐれた気持ちにもなる。 考えてみればいいのか? やさぐれを蹴飛ばして、女の子スキルが低いのも変えられない事実として受け止め、郁はふむと腕を組んだ。 考えろ、てきぱき家事をこなすにはどうしたらいい。なにか参考に……。 参考にすべきところへ母の姿を浮かべるのは、まだしこりが残っている。その母が読んでいた主婦向けの雑誌を無意識に除外したかわりに、郁の脳裏に浮かんだのはだいぶ昔に見たドラマで、女の子女の子した主人公が、恋をしてから不器用ながらも徐々に上手くなっていった描写だ。 自分とは真逆の性格はかえって反発もなく、「へぇ、好きな相手のためにここまで出来るのねー」と素直に感嘆したから覚えていた。 そのドラマが、タイトルに『中学生』と入っていた教育モノだったことは、二十代も半ばを超えた人妻としてはかなり痛いが仕方ない。 女の子、女の子。 恋人にお菓子を差し入れしたり……は却下。そこまで一足飛びに自分へ求めても、無理なもんは無理。お菓子を作ったのなんて、はじめてのバレンタインに先輩付きっきりのたった一回しかない。やっぱりここは基本でしょう。 思い出せ。 あの主人公、お弁当作ったりもしてたよね。料理の応用だけど、主人公はそんなに指切ったりしてなかった。やっぱ少しの才能と慣れか? ダメだ、他の参考例を探そう。 好きな相手のために頑張るという方が自分の性格にも合っている気がして、キーワードを家事から恋愛に変えて記憶を次々引っ張り出す。 恋愛の経験値はほとんどないにしても、昔から本を読むことが好きだったおかげで参考例には事欠かない。 記憶の本棚をあれこれ探り、うーんと唸った郁の邂逅はある一冊で固まった。 それはとことん恋愛に重きを置いた小説で、読んだ当初、高校生の頃はいくら恋愛に憧れる時期とはいえ背中がむず痒くなるほどの描写が満載だった。 そんな描写の中の一つに……。 あれ! あれ、やってみたい! 思いついたら止まらない。 しまった救急箱をもう一度あさって必要な小道具を握り締める。 「ねぇねぇ篤さん!」 リビングに飛び込んだ郁に、ニュースを見ていた堂上は何事かと腰を浮かしながら、 「どうした、またやったのか」 さりげなく失礼なことを言う。 「違うってば!」 ひとまず堂上のセリフは横に置き、郁の視線は堂上の手に寄った。その手にはもう、綿棒の姿はない。 それなら、これの出番だ。 「篤さん、もう水は抜けた?」 「ん? あぁ、綿棒があって助かった。いくら頭をふっても出てこなくてな」 すっきりとした顔で郁を見上げた堂上は、にじり寄る郁が手にしている物──耳かきを認めた途端、頬を引きつらせた。 「おまえ、まさか……」 「じゃあ、耳掃除とかどうかなー? って」 小説のヒロインのようにかわいこぶって耳かきを振ってみる。 「やっぱりか! 断る!」 素早く隣に座った郁に堂上の答えは負けじと早く、そして背を仰け反らせまでするときた。 あからさまな態度に、郁はかわいこぶるのも忘れて詰め寄る。 「えー、なんでー。やらせてくれてもいいじゃない、大丈夫だってば。はい、どうぞ」 「それで安心できるか! どんだけおまえの上官として見てきたと思ってんだ! おまえ自分の筋力が女性の平均より上だって自覚あんのか?! 俺が俺の鼓膜の心配をして何が悪い」 「ひどーい、そこまで言わなくても」 郁が思い出したこと、これぞ恋人ということ。堂上とは今でこそ夫婦だが、恋人時代の寮住まいではできなかったのだから今さらでも憧れること。 膝枕で耳掃除。 なのに、ここまで頑なに拒否されるとは。 恨めしげな目つきで見つめる郁に、一瞬動揺の色を浮かべた堂上は、すぐに顔を横に振って頑なな表情を取り戻した。 「あのな、郁。もし今、良化隊の襲撃があってみろ。片耳使えなくて戦闘につけるか?」 「だから! なんであたしが鼓膜壊すの前提なんですか!」 上官として諭す堂上に、つられて郁も課業中のものになる。 「駄目なもんは駄目だ。なんでそうおまえは脊髄で物事を考えるんだ」 そのセリフで、台所の流れからどういう思考回路を辿ってこうなったのかバレバレなんだろうなー、とそれがさらに郁の気持ちをささくれさせる。 「そういうのは自分でやるからいい」 「だって……」 上官には逆らえない郁の職業病を利用して諦めさせようとする堂上に、郁の気持ちはますますいじけた。 「やったことないんだから、ちょっとやってみたいなーって憧れたって仕方ないじゃない」 やったことがないヤツにデリケートな耳をあれこれさせるのが不安なんだよ、と言ったらますます拗ねるのが目に見える堂上は、言葉で宥めるかわりに俯いてしまった郁の頭をぽんぽんと撫でた。 「寮じゃこういうことできなかったし。その前だって、こういうことする相手いなかったし」 撫でる手に合わせてぽつぽつと呟きながら、郁の頭はどんどん下がり、やがて堂上の肩の上に降りた。 「恋人っぽいこと、あんまり経験したことないし。もうそういうことする相手は教官しかいないから、って」 ようやく定着した名前呼びではなく、長年慣れた教官呼びに戻ってしまったことが、郁の落ち込み具合を伝えてきた。 恋人らしいことに馴染みのないコンプレックスを直球で刺激してしまったと気がついて、撫でる手は子供をあやすかのように滑るものに変わる。 「悪かった。さすがに言い過ぎた」 肩の上でふるふると顔を振るのは、ただ拗ねているのを自分でもわかっているからだろう。 「もう言いません。ごめんなさい」 そういう素直なところに弱いんだとため息を吐きそうになったとき、堂上の脳裏にふと妙案が浮かんだ。 「恋人らしく膝枕で耳掃除、な」 言いながら郁の手から耳かきを抜く。 「えっ」 驚いた郁が顔を起す仕草に合わせて肩を押した。 「なっ、なに」 「ほら、そこのティッシュ取れ」 「まさかっ。やだっ」 膝の上で目を見開いた郁は、反射的に体を起そうとする。それをあっさり封じて顔を横向ける間、郁の口からは悲鳴のような呻きが次々と発せられる。 「やだ、待って、違うこれ違う」 「おまえがやってみたいって言ったんだろ」 「やーーーーー」 「大丈夫だ、俺はそこそこ器用だぞ」 「違うって、やだ、恥ずかしいからやめてってば」 起き上がるには不利な体勢と判断したのは郁としては上出来で、とっさに両手で耳を塞いで防御する。 こないだ自分で掃除したばっかりだし、そう汚れてはいないだろうけど、もしとんでもない状態だったら……。そんなもの見せたくない、恥ずかしい。 「恥ずかしいって、なにが。でもまぁ、これで俺の恐怖心が理解できただろ」 恐怖には恐怖だけど、ちょっと違う。 郁の羞恥を理解できない風情の堂上は、ぶつぶつとこぼしながらもようやく諦めてくれたらしい。耳かきを隣の小机に置いて、郁の頭の下に腕を差し入れた。 起き上がらせてくれようとしている、と分かった途端に、この姿勢が惜しくなった。 「もう少しこうしてたいなー、とか駄目?」 ついさっきまでの暴れっぷりを帳消しにするなんて現金な話だけど。姿勢が姿勢だけに当然のごとく上目遣いで窺ってみる。 「いいんじゃないか? これもありだろ」 「……うん」 許可に安心して力を抜くと、支える脚の固さが心地よくて頬が緩む。 耳掃除はできなかったけど、たぶんこれから先もさせてくれないだろうけど、膝枕ってすごく恋人っぽい。 ただこうしていることが嬉しくてたまらない郁は、自分が何を考えているところだったのかとうに忘れていた。 膝の上でごろごろと喉を鳴らしそうな勢いの郁がかわいくて、結局そんな性格を許してしまう堂上も。 一つはっきりしているとしたら、郁の家事能力はまだまだ上がりそうにないことだけだった。 |
あとがき
オチ?
猫百匹の妄想にオチなんてないでございますよ
ただ耳に水が入って困ったなーという教官が書きたかっただけですよ
創作のネタがピンポイント過ぎでしか浮かばないからしょうがないですよ
っあぁぁぁーーー!
堂上教官に膝枕されてぇぇぇぇ!