暗闇に抱かれて



 携帯電話を持つ手がぱたりと膝に落ちる。
 電話の向こうでは母がくどくど続けているのが聞こえていたが、どうせ内容は何巡しても同じことだ。
 むしろきちんと聞かない方がお互いの為だろう。
 正面切って話し合えば、最後は喧嘩になるのだから。
 少しは歩み寄ってこれたと思っていたのも、最近まで。今は電話のたびに昔に戻ってしまう。
 そろそろ寮に戻らないとなー、ちょっと出てくると言っただけだから柴崎も心配してるかもしれないし。
 外灯に照らされた木々の葉が揺れ、公園に複雑な影を落とすのをぼんやり見ながら、いつどのタイミングで切り上げるか溜息をつきつつ再び電話を持ち上げる。
 軽量化が売りの機種なのに、ダンベルかと勘違いしそうなほど重い。
「……これくらい聞いてくれてもいいでしょ!?」
 耳に戻した途端、感情を押さえきれなくなってきている寿子の声で肩が落ちた。
「だって普通はそうなのよ? あちらのご両親にだってなんて思われるか」
 今日はその路線できたか。なら、こっちも同じ路線で返すだけだ。
「だから、堂上のお父さんお母さんも了解済みで、負担のないようにって気を遣ってくれてるから」
「そうは言っても」
「あちらのお気遣いを無碍にするわけ?」
「でも結納にスーツだなんて。振袖も揃えられないのかって思われるわよ」
 思われて困るのは自分なんでしょ?
 昔だったら咄嗟に言い返していたのを寸前で堪える。
 長年の女の子信仰が一朝一夕で変わるなんて思っていない。頑なに女の子を押し付けてきた母が、特殊部隊勤務を認めただけでも大進歩だ。
 やっと前へ進みはじめたところへ、結婚とそれに関わる諸々がはじまれば二歩三歩後退は読めていた。
 結婚式は女の子の憧れ、女の子の親にとっても一大事、寿子の暴走なんて想像の範囲内。だから堂上の心配りで父の克宏から外堀を埋め、堂上家の協力もあって、これでもまだ電話の懇願だけで済んでいる。
「せっかくお祖母ちゃんが誂えてくれたのがあるのに。結婚したら振袖は着れないのよ? 着れる時に着て欲しいって頼むのがそんなにいけないこと!?」
「いけないとかじゃなくて、実際ムリなんだってば。全員の予定が合う日がその日しかないのも、あたしが着付する時間ないのも何回も言ったじゃん」
「だって……。ねぇ、前の日からお休み貰うことはできないの?」
「そんな簡単に休めるようなもんじゃないの! 式が終わるまで何かある度に休んでたらどんだけ迷惑かけると思ってんの」
 克宏は県庁勤めの公務員とはいえ県知事の予定次第で休みがずれる。堂上のお父さんも勤め人だし、お母さんはシフト勤務の看護師だ。
 自分達だって、たまに日曜に公休があたると却って違和感を覚えるくらい曜日感覚に疎い仕事で。
 予定をすり合わせて、先数か月で全員一致したのは平日のその日しかなかった。
 しかも堂上班はその前日まで三カ月に一度の奥多摩での野外訓練が入っている。基地帰還は夜中の予定だ。
 最低限の睡眠で抑えたとしても、茨城へ移動する時間を考えると着付に割く時間はない。
 両親が東京に出てきてくれれば楽なのに、こちらの都合で出てきて貰うことが多いのだからと、結納は寿子の希望に沿うよう古式ゆかしく郁の実家に出向き結納をすると言ってくれた堂上の両親の気持ちを考えると、着る物一つで我を通そうとする母に余計に心が摩耗する。
 うちは気にしなくていいのよ、郁ちゃんが無理ないようにしてね。
 堂上のお母さんはそう言ってくれたのに。
「きちんと結納して欲しいってお母さんの希望通りになってるんだから、あまり困らせないでよ」
「きちんとした結納に振袖着ないなんて」
 ふりだしに戻る。
 ぐっと握ったベンチの端が温かった。
 座りはじめた時はひんやりとしていたのに。
「……ごめん、もう戻らなきゃいけないから切るね」
「あ、ちょっと待っ」
 ぶつりと寿子の声を切った。
 画面に表示された通話時間を見て深く息を吐く。
 今日はうまくいなせなかった。
 何回か声を荒げてしまったし。
 基地の外に出てきて正解だった。部屋で騒げば柴崎に気を遣わせる。寮の外でも、人目を忍ぶ恋人達の邪魔になる。
 もう少し、気持ちを落ち着けたら戻ろう。
 公園の暗闇を怖いとは思わなかった。今は暗闇が姿を隠してくれるのがありがたい。
 しばらくそうしていて、そろそろ戻らなきゃと時計を覗きこんだ視界の端に影が伸びて来た。
「……教官」
 名前を呼ぶだけで、顔を見ただけで、収まったものが込み上げそうになる。
「ここに居たのか」
 それだけで、郁がここで何をし、どういう結果になったのか気付いているのだと分かった。
 柴崎が心配して堂上を派遣してくれたのだとも。
「いくらお前が戦闘職種だといっても、夜の公園なんて危険過ぎるだろ」
「大声出しちゃってもいい場所って、ここしか思いつかなくて」
 隣に座った肩に額を乗せる。
「今日も、ちゃんと……話しできなくて」
 優しく頭を撫でてくれる仕草に泣き言が漏れる。
「頑張ったんだけど、やっぱいつもと同じことになっちゃって」
 更に肩を引き寄せられた。
 そう思ったときにはもう喉から嗚咽が出ていて、じわりと堂上の肩を濡らしてしまう。
「結納なんて、なくてもあたしはいいのにっ……。お、お母さんはお母さんの普通しか、認めてくれないっ」
「人の気持ちなんてそう簡単に変わるもんじゃない。それでも折り合おうとお前が努力してるのも知ってる。悪いな、二人のことなのにお前一人にキツイ思いさせて」
「違っ」
 首を振るともっと強く抱きしめられた。
「教官が、悪いと思うことじゃなくて、あたしがちゃんとケリつけてないから」
 安心と信頼という言葉そのものを抱きしめ返す。
 どれだけ今ここに教官が来てくれて良かったと思っているのか、伝わればいいと願いながら。
「お前が思うもんでもない。ケリなら一度つけてるだろう。ただ、正しいと思っていたことを切り替えるのには時間がかかるもんだ。何十年かすれば笑い話にできるかもしれん」
 県展の最中にやり合ったあの時も、堂上は郁を認めつつ母の性格を全て飲み込んでくれていた。
 あの頃から支えてくれた人とこれから生きる為の経過で、あと幾つこんなことが起こるのだろう。
 けれど何十年と先も隣に居てくれると暗に言ってくれている。
「……嫌になったりしませんか?」
「しない」
 きっぱりと断言されて強張りがほどけた。
「お前がキツイ時に傍にいれないことの方が嫌になる。何もかも助けてやれないんだ、俺にできることなら素直に頼っとけ」
「……はい」
 じゃあ、と時計を意識から飛ばした。
「もう少しだけ、こうして貰っててもいいですか」
「あぁ、寮に戻ったらしてやれないからな」
 外でこんなに大っぴらにくっつく事なんて今までになく、もう一度、公園の暗闇に感謝して堂上に体を預けた。

珍しく図書戦でシリアスなのを書こうと頑張った
けど
誤字脱字チェックの為に読み返して思ったのは
とぉしこぉぉぉーーー!いい加減に郁のまんまを認めろやー!
あ、でもゴメンこんな話にしたのあたしだわ!
という、セルフ怒りにセルフつっこみ