そのままの在り様



「というわけで今日からまた館内の警戒を強める。面倒だ、早めに釣り上げるぞ」
 またか。
 その日、朝礼で玄田の話を聞いた郁の感想一番はそれだった。
 つい先日ようやく蔵書損壊犯を確保し通常運転に戻ったのも束の間、今度は痴漢被害だ。本を選んでいたらお尻を触られた、脚を撫でられた、そんな被害が昨日寄せられた。となると当然
「なお、この件に関しては堂上班に一任する」
 となる。
「しかし隊長、我々は先日まで蔵書損壊犯確保のため連日館内に詰めていました。もし犯人が以前からタイミングを見るため通っていたとしたら、笠原の顔を覚えている可能性があります。抑止にはなるでしょうが釣り上げるのが目的なら不安要素です」
 他の班が続々と出ていく流れに逆らって隊長室に戻ろうとする玄田を追いかけ、冷静に指摘する堂上へ郁は感謝の視線を向けた。
 堂上班がこういう犯罪に対して常に出張るのは郁がいるからだ。特殊部隊唯一の女性隊員で、いろいろと便利に使える。
 自分でも餌になるのは過去の釣果で分かった。分かったけど気持ちのいいものじゃない。
 しかも今回は痴漢だ。盗撮と違って、一回は実際に触られないと捕まえられない。
 またか、仕方ない。職業柄そう一瞬で察してはいたものの、できることなら避けたいのが本音で、こっそり心の中で堂上の背中に援護の念を送る。
「感情論を抜きにしても、堂上の論はもっともだね」
「えっ!?」
 念がだだ漏れになっていたかと慌てて隣の小牧を窺うと、気の毒そうに郁と少し離れた堂上を見てから苦笑を返された。
「男としては彼女を餌に差し出せなんて嫌に決まってるでしょう。笠原さんが使えるのも、仕事なのも堂上が一番理解しているだろうけど」
「おまえも一応女だからな」
 小牧の細やかな配慮に比べ、黙って聞いていた手塚がぽつりと呟いたフォローはフォローになっていない。
「一応って何よ、一応って!」
 お約束で噛み付いてから、はっとして声を潜める。窺うとまだ作戦について協議している玄田と堂上には届いていないようで、ほっとした反動と抗議を兼ねて手塚には脛に蹴り一発お見舞いだ。
「ってぇ……そういうとこが、一応、なんだろ」
「あんたの大好きな堂上教官は一応って思ってないから。ちゃーんと女だって思ってくれてるからいいんですー」
 とどめにやり込めるつもりで、本人が聞いていたら絶対に口にできない開き直りをしてみる。
「堂上二正も血迷うことがあるんだな」
「うるさい!」
 自分としてはかなり頑張った開き直りをいともあっさり返され、
「二人ともね」
 直後にヒートアップしそうな口喧嘩を一言で鎮められ、揃って口をつぐむ。首を竦めたまま堂上たちの様子を見ると、凛とした背中の奥で玄田が不服そうに腕を組むところだった。
「消極的な抑止じゃいたちごっこに過ぎん」
「しかしっ」
「図書館で、我々のテリトリーで、破廉恥な真似をしたら相応の制裁があると徹底しないといつまで経ってもなくならんだろうが。お前の笠原が延々と餌になることがないように、今が正念場だ」
 お前の、って!
 それよりよほど恥ずかしい開き直りを先にしたくせに、玄田のセリフに郁は真っ赤になる。堂上の返事がないのも、同じく口がきけない心境だからだろう。こうなったら玄田の一本勝ちだ。そもそも特殊部隊員がこの隊長に勝てた試しはないのだが。
「……分かりました」
 やがて渋々という声で答えた堂上に対し、腕をほどいた玄田は顎を掻いて「ふむ」と唸った。
「とはいえ敵が顔を覚えているかもしれんという堂上の懸念ももっともだ。化粧で誤魔化すにしても、限度があるだろうしな。おい堂上、笠原の化ける技術はどんなもんだ」
「変装と呼べるレベルではありません」
 えー、教官と付き合うようになってからメイクの腕を磨いてるのにー。と、膨らんだ頬は妙な方向に流れそうな雰囲気にすぐ萎む。
「変装か……。そういや笠原」
「はいっ」
 堂上を通り越してかけられた声に背を伸ばす。
「お前、眼鏡もってたな」
「あ……あれは」
 玄田の言う眼鏡とは、堂上に想いを告げるきっかけになった当麻蔵人の事件の際、当麻が図書基地で匿われる流れで手に入れた伊達眼鏡のことだ。
 薄いカーキ色のセルフレームで、かけると頭が良さそうに見えると皆に言われた。
 じゃあ何か、あたしが頭良さそうにするのは変装レベルか!
 むくれたのも一瞬で、相変わらず本能が鳴らしている警告の前に立ち消える。
「持ってますけど」
 でも、あれは、あの眼鏡は。
「釣り上げ服にあれをかけて館内巡回しろ。なかなかの変装っぷりだったからな、破廉恥犯のような目先の欲を取る馬鹿にはバレんだろ。以上、解散」
 はじめて餌になったとき。犯人情報の一番に上がったのが眼鏡、だった。一番目立つポイントを認識してしまうと他が朧気になる。今度はそれをこちらが利用することになる。
 確かに眼鏡は変装の定番だ。
 これで決定、そう打ち切って今度こそ隊長室に消えていく玄田を見送って堂上が振り返る。
「警戒重要箇所は痴漢被害の申告があった国文学書架を中心に、人気の少ない場所で狙う。小牧と手塚は書架周辺を、俺は出入り口寄りに詰める。笠原、すぐ着替えてこい。不安なら柴崎に化けさせてもらえ、眼鏡も忘れるなよ」
 もう切り替えたと分かる声に男二人が敬礼して事務所を出ていく。急に二人きりになったタイミングに少し甘えが漏れた。
「やっぱり眼鏡かけなきゃダメですか?」
 かけたくないと言外に匂わせたセリフに、「隊長と俺の話を聞いていなかったのか!」と叱責が飛んだが、郁の表情に堂上は真顔になり頷いた。
「もし顔を覚えられてるとしたら警戒されて意味がないだろ。せっかくお前が体張るのに」
「でも、あの眼鏡は」
「度が入ってないから支障はないはずだろ。それにお前が嫌がるほど似合わないわけじゃないぞ」
 見てくれに自信がない郁が躊躇っていると思ったのか、掬いあげるように入ったフォローに甘えがもう少し漏れる。
「……違うんです。あれは壊したくないなぁって」
 犯人確保のとき、どんな立ち回りになるか分からない。特殊部隊として、眼鏡を壊したくないから取り逃がした、なんてことも出来ない。
「そんなに気に入ってたのか。まぁもし壊れても隊長が言い出しっぺだから経費で、」
「違うくて! あれは、教官が選んでくれたやつだから!」
 はじめて二人きりで出かけた日に、途中で終わったデート気分を補うように出かけた買い物。状況は楽しんではいけない場面だったが、柴崎の言うバカップルを装っての目眩ましな買い物は素直に楽しかった。
 そしてその場で買った眼鏡は、郁には宝物だ。
 お金を出したのは自分とはいえ、あたしに似合うのを、あたしの事を考えて教官が選んでくれたものだから。
 買い物帰りに渡された眼鏡ケースと合わせて、はじめて貰ったプレゼントだと思っている。
 ふいに沈黙が垂れ込めた事務所に、訓練場から号令の声が風に乗って流れてきた。もう訓練も業務もはじまっている。こんなことで時間を無駄にしている場合じゃない。
「すいません、何でもないです。着替えてきます」
「……そうか」
 ぽんと頭に乗った堂上の手が優しかったから、眼鏡への未練はすっぱりと諦めた。





「またよく化けて……」
 先に詰めていた手塚に服装を知らせるため、ギリギリの距離をすれ違った郁はイヤホンから聞こえた呟きを一睨みで黙らせた。
「似合ってるよ」
 続いてすれ違った小牧にはバッグをかけ直すふりで口元を隠し礼を言う。周囲には聞こえない声量も、ウィッグで隠したマイクが拾っているはずだ。
 ショートカットにしかしたことがない郁は、毛先につい手を持っていきそうになるのを堪えて持ち場に入る。
 堂上は書架の整理をするふりで、さりげなく頷いて合図をくれた。変装は上々らしい。
 堂上が連絡してくれていたのか、着替えに戻った郁を待っていたのは柴崎だった。それと変装道具。眼鏡をかけることも伝わっていたらしい。
「眼鏡を活かすなら真面目な大学生風でいくわよー。就活真っ最中って感じで。メイクは控えめに仕上げて上はこれね、リボンタイのシフォンブラウス。下はあんたが持ってるスーツのパンツで」
「それはいいけど、柴崎……なにそれ」
「あとはこれ! じゃーん黒髪ロングウィッグー」
 どこぞの未来から来た猫型ロボットのように取り出したのは、柴崎曰く眼鏡といえばこれというロングウィッグだ。
「業務部で持ってる子がいたから借りてきたのよー? せいぜい化けてさっさと釣り上げてらっしゃい。堂上教官もやきもきしてるんだから」
 そこまで言われてしまうと嫌だとは言えない。結果、黙って立っているだけなら真面目且つ知的な大学生風郁の出来上がりだ。
 被害を訴えた女性たちも見た目地味な大学生だったから、柴崎なりに犯人の好みで釣り上げ率を考慮したのか。昨日の被害から調書を取るまで、そして今朝指令が出るまで、処理は防衛部で済ませたのに柴崎が何故知っているのかというのは愚問だ。ともかくこれで釣れてくれればいい。
 明治を代表する作家の全集を一巻から適当に抜き出し、中身をペラペラ捲る。
 あー、この「いふ」とか旧仮名遣いって引っかかっちゃうんだよなー。
 そんなことを考えながら、現代語役の本を探してみた。久しぶりに教科書以外で読むその話は、さすがに文豪と呼ばれるだけあって現代語訳と照らし合わせるとなかなか面白い。
 原作で読めないのが情けないけど。手塚にバレたら確実に馬鹿と鼻で笑われるなー。
 視界の端に人の気配を感じたのは、立ち読みで二章に入ろうかという時だった。
 平日のこの時間にネクタイ? いや、あり得ないことじゃないけど。
 警戒しながら棚に寄って通路を開ける。豊富な国文学を収めるために狭くなっている通路だ、すれ違うのに気を遣ったという態度でさりげなく。ただ通り越していくか、それとも初日初っぱなで?
 息を詰めて窺う郁の後ろを、ネクタイの男はあちこちに視線をさ迷わせながら通路を過ぎ、右に曲がって消えた。
 なんだただ本を探している人か。
 ほうっと息を吐いた時さっきのネクタイが戻ってきた。今度はきょろきょろしていない、俯きながら足早に郁を通り越して、そして
「ビンゴ!」
 撫でられた、そう感じたと同時に叫んだ。
「笠原!」
「痴漢ですっ、お尻触られました!」
 教官にも触らせたことないのに! でっ、こんなこと大声で叫びたくなかったのにこのやろう! 本を探していたんじゃなくて獲物を探していたのか!
「なっ、誤解ですよ、や、やだなぁ」
 ネクタイの上でへらっと笑う顔に気色悪い感触を思い出して指の関節を鳴らす。
「手の平を密着させるのがどうやったら誤解なの。悪あがきも大概にしなさいよ」
「見ていました。ちょっとこちらへ、一緒に来てもらいます」
 駆け寄った堂上も言い訳を一蹴して距離を詰める。堂上の後ろには小牧、郁の後ろで鳴った足音は手塚だろう。
 通路の端と端を塞いでしまえば、このメンバーに死角はもうない。へらへらしていた中年も緊迫した空気で分かったのだろう、脂汗が浮いて頬は痙攣でも起こしたようにひきつった。
「う、うわあああぁぁ」
 上擦った声がして手当たり次第に本を投げられた。とっさに顔を両手で庇ったが、それより早く一冊が当たった衝撃で眼鏡が吹っ飛ぶ。
「このっ……」
 自分の欲望まかせに卑劣な犯罪をして、さらに女だからこっちを突けば逃げられると甘くみられるなんて。本をこんなことに使うなんて。
 二重三重の侮辱に庇っていた両手の隙間から「大人しくしなさいっ!」と呼ばわると、ダンッと鈍い音がして本の乱射が止まった。
 男は書架に押し付けられ、腕を背中で極められ身動きを封じられている。痛みとこの先の自分の立場を悟って歪んだ男の顔より、封じている堂上の方が厳しい顔をしている。
「小牧、手塚っ、業務部に連絡して蔵書の整理と補修を依頼しろっ! 先に俺と笠原で取り調べ室に連行する」
 激昂を辛うじて抑えている声での命令に、場の空気が動き出す。
「了解」
「はいっ」
 てきぱきと動き出した二人を余所に、郁は慌てて床にしゃがみ込んだ。こんなに雑然としているのだから、本を片付けるどさくさで踏まれて壊れてしまうかもしれない。
 諦めたのは捕り物で壊れることで、吹っ飛んでいったけど多分無事だろう眼鏡を同じ図書隊員に踏まれるのは諦めきれない、泣くに泣けない。
 切ったはずの未練はやっぱり残っていた。
「笠原っ調書を取るぞ、来いっ!」
「あ、はいっ」
 数冊をひっくり返したところで、小牧に何事か指示でも出していたらしい堂上が顔をあげて呼んだものだから、郁はしぶしぶ立ち上がる。
 ばらまかれ重なり広がった本の海の中では眼鏡を見つけるのはかなわず、後で柴崎に声をかけてみよう、そう決めて連行する堂上の後を追った。





 仕事のストレスに始まり、不況や政治までをも理由にして痴漢を正当化させる男を何度もたしなめ、しまいには開き直った相手に怒りを通り越して唖然としながらの調書作成は長引いた。警察に引き渡した頃には、合流した堂上と手塚だけではなく、小牧すら眉間にしわを寄せていたくらいだ。
 小牧は鞠江が被害にあったときのことを思い出してかもしれない。口にする勇気はなかったけれど、彼女が被害にあうと間接的に彼氏も辛い思いをするのだと表情だけで察する。
 というわけでその後、自分の気掛かりはひとまず棚上げして不機嫌な堂上を窺い、通常の館内警備をこなした郁は日誌を出して「よし、」の声を聞いた途端に宝物目指してダッシュした。
 背後で堂上が何か言っていたような気がした、と振り返ってたのは館の入口に着いてからだ。
 うわ、無視しちゃったー。でも説教なら後でゆっくり受けるので! 
 心の中で頭を下げたけれど、それより何より今の気掛かりはあれのことだけ。
「柴崎いいところにっ」
 丁度カウンターから出るところの柴崎を捕まえて、まずは小道具その一を押し付ける。問題はその二で、呆気に取られている柴崎の両肩を掴んで揺さぶる。
「あれっ、あれはっ!?」
「きゃっ、ちょっと何よ。凄い勢いで走ってきたと思ったら」
「本の整理したでしょ、痴漢捕まえた後に」
「そうよー。いくつか破れてたから今日は残業で修復なんだから」
「本はいいのっ、やっ良くないけどそん中に眼鏡落ちてなかった!?」
「眼鏡ー?」
 やっと柴崎に郁の焦りが伝わったらしい。すぐ気の毒そうに首が横に振られた。その仕草が朝見た小牧と重なる。
「なかったわよ。あたしが行ったときには手塚と小牧教官がほとんど仮置き台に片付けてくれてて、その場で無事なの戻したときも見てないわ」
「嘘ぉー」
「嘘ついてどうすんのよ」
 郁は呆れた声の柴崎の前でへなへなと崩れ落ちた。あると思って自分を宥めていた反動で喪失感と焦りが全身を貫く。
 どうしよう、はじめて教官が選んでくれたものなのに。大切な大切な宝物なのに。
 いきさつを知っている柴崎も郁の消沈ぶりを見かねてか、労りを感じる強さで肩をぽんぽんと叩いてくれた。
 静かな慰めにかえって、その手が頭じゃなくて良かったと思うほどには平常心を取り戻し、膝を払って立ち上がる。
 柴崎の気持ちは嬉しいけど、頭を撫でて欲しいのは教官だけ。眼鏡を無くしたと言ったらゲンコツが来るかもしれないけど。
 あぁーどうしよう、教官に何て言おう、今度はそればかりが頭の中をぐるぐる回りだす。
「小牧教官か手塚に聞いてみたら?」
「うん……そうする」
「絶対に出てくるわよー」
 にっと笑って柴崎が言うのだから、このまま行方不明なんてことにはならないのだと自分に言い聞かせても、萎れた気分はなかなか持ち上がらない。
「じゃあ、頑張ってね残業」
 体に力が入らないままで後始末に駆り出された柴崎を労うと「一番の功労者がなに言ってんのよ」と笑って送り出された。





「やっと帰ってきたな」
 行きの何倍もかかって事務所に帰ってきた郁を出迎えたのは堂上一人だった。
「あの小牧教官か手塚は……? そっか、もう帰ったか。そういえば、あたし何か呼ばれてたような。すいませんでした、日誌の書き直しですか?」
 混乱しながら思い付いた順に喋ると、落ち着けというよう頭に手が乗った。
「違う。いいから行くぞ」
「えっ、どこに」
 言うなり歩き出した堂上は郁の質問には答えず庁舎を抜け、訓練速度で次々と各施設を通り過ぎる。追い付くのはちょっと走れば出来るのに、後ろめたさで背中を見ながら後を着いていくことしか出来ない。
 寮に向かう角も過ぎ、正門詰所まで来てしぶしぶ追い付く。
 行き先の検討をつけていた郁は、堂上が護衛と一言二言、世間話をしながら外出届を出したらしいと気付いて我に返った。
「あっ、あたしも」
「お前の分も俺が書いた。行くぞ」
「だからどこにっ」
 堂上の行動が読めなくて二の足を踏んだ郁の手が繋がれる。引かれてしばらく歩いてから、何気なく立ち止まった堂上を俯き加減で窺うと「ほら」とスーツの内袋から出したハンカチを差し出された。
「……これっ」
 ハンカチはハンカチだけど、いつもは四隅がきちんと揃ってプレスしてあるそれが膨らんでいるのとその形。予感が込み上げ震える指先で慌てて捲る。
「あぁっ眼鏡ー」
 しみ一つないハンカチに包まれていたのはやはり探していた眼鏡で、安堵でじわりと目頭が熱くなる。
 どこかにいっちゃったと思ってたのに。良かった、見つかった。
「でも何で堂上教官が」
 だって、立ち回りで吹っ飛んでからすぐ痴漢を連行して、教官が拾っている素振りなんてなかった。引き渡してからも警備だ事務だって、そんな暇なかったはずなのに。
 不思議に思って尋ねると、堂上は何故か郁の視線からふいと顔を逸らしてしまった。
「小牧に頼んどいた、整理するついでに見つけといてくれってな。本の下から出てきたって教えてやろうとしたのにお前、人の話も聞かずに出ていくから」
 事務所を出るとき聞こえた気がしたのは、これのことだったんだ。
「すいません、あたし無くしたかもってとにかく焦ってて」
「まぁいい。どうせ俺も付き合うつもりだったしな」
「付き合う、って?」
「眼鏡屋。見た感じ壊れちゃいないようだが念のため確認してもらった方がいいだろ」
「……ありがとうございます」
 自分の宝物を同じように大切にしてくれた堂上の優しさが嬉しくて、返事が自然と掠れてしまう。堂上がぎょっとした顔になったのを感じて、急いで強引な笑みを浮かべると髪を荒くかき混ぜられた。
「なんで泣くっ」
「だって、凄く大事なものだから、嬉しくて」
「だからって泣くほどか!」
「泣くほどですよ、仕方ないじゃないですかっ、これ教官が選んでくれたんですよ!? なのに確保で吹っ飛んじゃうし、痴漢は許せないから確保できたのは良かったんですけど、ケースもプレゼントして貰ったのに、中身を無くしたなんて彼女として洒落にならないんだから!」
 一気にまくし立ててから周りの視線が集まっているのに気付き、思わず俯く。その間も堂上の手は頭の上で、宥められているのか視線を避けるためなのか微妙なところだ。
「……分かったから泣き止め」
 一つ確実に分かるのは、大切な宝物がこの手に戻ってきた、ということ。
 せっかくだし、かければ泣き顔も少しは誤魔化せるんじゃないか。
 そっとフレームを開いてかけてみると、何となく違和感は感じるものの壊れたりしていない様子でまた安堵する。収まりかけた涙が再び零れ、フレームの下を伝って地面に落ちた。
「すいません、なんか止まんなくて。だってあたし彼女としてあり得ないことばっかで」
 先日は返り血浴びた顔見られてるし、それ以外にもいろいろ。心当たりが有りすぎる。
 だからこの眼鏡は、大事で大事で。
 しゃくりあげると、手の中のハンカチが引き抜かれ頬に当てられた。
「化粧とか着いちゃっ……」
「いい」
 端的に遮られ、せめて「洗って返します」と呟く。
 なされるがままになっていると、あくまでさりげなくという声音で「こういうのもありだろ」と囁かれた。
「こういうのって?」
「泣いてる彼女の為に使うのが彼氏っぽいだろ」
 だから。
 だから何でそう欲しいときに欲しい言葉をさりげなく言うかな。
 拭われている下で頬がかっと熱くなる。
「お前、彼女らしくないとか随分気にしてるようだけどな」
 口も聞けないあたしは、黙って耳を傾ける。
「こんな何でもないもんを大事にしてくれて、その大事なもんを吹っ飛ばしてまで任務優先したとこが彼氏としても上官としても誇らしいぞ」
 とっておきの褒め言葉です、それは。
 もう俯いた顔をあげられなくなる。俯いていたままで良かったのかもしれない。
「今日の任務は不愉快だったろうけどな、同じくらい俺も不愉快だったんだから忘れろ。ほら行くぞ!」
 ハンカチがシワになるのも気にしない勢いでポケットにしまい、その手に強く握られる。
 教官の声、いつも以上にぶっきらぼうだった、ってことは照れてるんだ。
 そのくらいは彼女として分かるようになっている郁は、もう「どこへ?」と訊ね返したりせず、繋いだ手を少し強く握り返して歩き出した。

あとがき

いやー、思いついちゃったから書いてしまったけど、別冊1で一と二の間の出来事だとすると、
郁が要注意者に抱きつかれて戸惑うって原作の流れに逆らっちゃうのですよね。
書いてから気付いたけど……そこはほら!
妄想は無限大!

……ってことで大目に見てやってください。