リレーのバトンは落とせない



 一瞬、時間が巻き戻ったのかと思った。
 リビングのソファーに掛けていた堂上の様子が、郁が風呂に入る前とまったく変わりなかったからだ。
 あたし確かにお風呂入ったよね、ちゃんと髪濡れてるし、てことは篤さん三十分近くこのままで?
 見れば晩酌のビールも減っている気配がない。
 晩御飯もいつも通りだったし、体調が悪いってことはなさそうだけど。
 遡って理由を探るけれど、堂上と小牧の二人は今日一日、来年度採用隊員の面接に加わった後は会議だ何だと、あまり顔を合わせていないので何をそんなに思案しているのか見当がつかない。
 少し考え、リビングを素通りしてキッチンへ向かい、甘さ控えめのコーヒーと自分用に甘いカフェオレを作る。
 寝る前にカフェインがどうとか今は考えてられなかった。
 ビールを脇へ寄せコーヒーを差し出してはじめて、堂上は郁が戻ったことに気付いたらしい。
 目を瞬かせてからきまり悪げな笑みを浮かべた堂上の隣に腰掛ける。
「なにかあったの? 話せることなら話してみれば案外軽くなるかもよー」
 心配は心配だけれど、特殊部隊の班長として立場上たとえ妻でも話せないこともあるのを知っている。でも言えることなら聞くのが家族だ、妻だ。
 軽い調子を装った郁を見て、やっと堂上の表情がわずかに弛む。
「コーヒーありがとな。心配させて悪かった、別にそう深刻なもんでもないから安心しろ」
「なら良かった」
 どんな理由でも深刻なものでないのならいい。
 軽い調子は見せかけで本当は心配でたまらなかったのを見抜かれていたらしい、頭をぽんぽんと撫でられる。
 こういうとこ敵わないよなー、こっちが気遣ってるつもりでも、もっと上回るものをくれるんだから。
 ややいじけた気分でコーヒーの湯気を吹き飛ばす。
 どんな爆弾が来るのかとドキドキしなくて済んだのは良かったけど。
「ただちょっと、今日気になることがあってな」
「気になること?」
 熱いコーヒーを飲むのに意識をむけていたところに、爆弾は時間差で爆発した。
「気になる女性が来年入隊するかもしれん」

 キニナル。
 ジョセイ。

 とっさに言葉の意味を頭が拒絶する。
 何それ、あたし知らない知りたくない。
「大丈夫か!? 早く水!」
 手にしていたコーヒーを膝にぶちまけたのだということは、堂上に肩を強く押されバスタブの縁に座らされ、さらにシャワーを浴びせられてから気付いた。
「痛みは!?」
 それは体だろうか、心だろうか。
 体なら少し、心なら凄く。
 痛いなんてものじゃない。浴びせられる水より冷たいものが染みこんでくる。
 ぶるっと背筋を悪寒が走って、無意識のうちに自分を抱きしめていた。
「冷たいだろうけどしばらく我慢しろ」
 我慢っていつまでだろう、キニナルジョセイとやらが入隊するまでか。それとも……。
「それから妙な勘違いするな!」
 思考が泥沼に沈みかけたタイミングを折る形で手当てが一転、怒鳴られた。
「俺が今まで一度でも余所見をしたことがあったか? そんな軽い気持ちで結婚するか阿呆っ」
 シャワーの音に負けじと声を張り上げる堂上をゆるゆると見上げると、怒ったような呆れたような顔をしている。
 でも、だって。
「……気になるって」
「言葉の選び方を間違ったのは認める、それは悪かった。気になるってのは志望動機がって意味で、相手に個人的な感情なんかこれっぽちも持っちゃいない」
 志望動機、図書隊を志す理由。あたしは王子様を追って、だったあれか。
 固まっていた思考が働きだすのが伝わったらしい。シャワーの水量を調整してから、自分にも飛沫がかかるのもかまわず堂上も膝を折った。
 視線が同じ高さでしっかりと合わされる。
「今日の面接で、それはそれは熱烈に語ったのが居たんだよ。数年前に地元の本屋で検閲に出くわして、その時に毅然と立ち向かった図書隊員がそれはそれは凛々しくて素敵で」
 あれ? と、記憶が巻き戻るまでもなく思い当たるふしがありまくる。
「だろう? なんの再現かと思うだろうがお前も俺も」
「ちょっと待って……それって」
「私も本を守りたいんです、その女性隊員みたいに。だそうだ」
「あたしー!?」
 女性を強調した堂上の声に対して悲鳴が喉から迸った。
 まだ特殊部隊に配属されてもいない頃、見計らい権限もないのに突っ走って散々叱られたあれか、あれを見ていた子が追ってきたのか、あたしを。
「そうだ、それで隊長がおもしろがってる。採用は決まったようなもんだ」
「……まさか」
「そこまで再現する為に堂上班を二つも特殊部隊に作るわけないだろ。ただ、隊長のあの様子じゃ来年あたり指導教官くらいは任されるかもしれん」
 今度は冷たさとは別の理由で体が震えた。
 あたしが指導教官、特別にあたしに憧れている相手がいるかもしれない前で。
 想像するだけでいたたまれない。
「勘弁してぇ」
 ぽろりと零したのに対し、経験者は達観したものだ。
「確定ってわけじゃない。わけじゃないが、気持ちの準備はしていた方がいい。俺が教えられるところは全部叩きこんでやってもいいが、お前なりのやり方を見つける方が後々のお前の為になるだろうな」
 今日、面接で聞いてからそこまで考えていてくれたんだ。
 あれ? じゃあ、もう一度記憶が巻き戻る。
「もしかして、篤さんが考え込んでたのってあたしのせい?」
 自分のせいで王子様うんぬんまで思い出されて、たぶん隊長にも冷やかされて、なのにどの面さげて話せるなら話してーとか。
 思い上がりにも程がある。
 挙句にコーヒーぶちまけて、心配かけて。
「ごめんなさい」
「いや、いいよ」
 素直に謝ったのに、堂上の返事はあっさりしたものだった。
「よくないと思うんだけど」
「勘違いでもこうまで動揺するほど奥さんに愛されてんのが分かったからな、チャラどころか釣りが出る」
 あっさりついでに、滅多にない調子でからかわれてかぁっと頬に熱がさす。
 さ、さっきまで怒鳴りまくってたくせに。
 どんな顔をすればいいの、不意打ちは止めてよ。
「……着替え持って来てっ」
「分かった分かった」
 上機嫌な堂上を強引に追いだして、たまらずシャワーの下に頭をつっこんだ。
 自分だって動揺して余所見してないとか軽い気持ちじゃないとか、結構なこと言ってたじゃない。と思いだしたのは、力技で頭を冷やしてだいぶ経ってからだった。

あとがき

郁を追ってきた隊員は別冊2に登場する安達萌絵一士をお借りしてます。
まぁ、そんなことすらきっかけにして
夫婦でいちゃいちゃしてるんだけどネッ☆