きっとどんな作家にも表現できない



「俺はもう寝るぞー」
「……んー」
 郁に声を掛けると、上の空の返事が返ってきた。
 見ればソファーで本に頭を突っ込まんばかりに読み耽っている様子で、これは今日も寝不足ギリギリコースだと、半ば諦めの気持ちで一人寝室に向かう。
 ひんやりとした寝具に足を入れながら灯りを消し、なんとなく頭の後ろで腕を組む。
 こうした夜も何日目だろうか。
 
 ここまでハマるとはなぁ……。
 
 複雑な眼差しを向けた先の本棚の中には、一冊分だけぽっかりと黒く穴が開いていた。



 閉店時間まであと五分……ぎりぎり、か?
 間に合わなければ我慢する構えでいたものの、急げばなんとかなりそうなタイミングで仕事が片付いた堂上は、あらかじめ入荷状況を調べておいた本屋まで可能な限り早く走っていた。
 待ちに待った作家のシリーズ新刊がついに発売されたのだ。検閲に引っ掛かったという話も聞いていない。子どものように気が逸るのを抑えられなくても、誰に笑われることもないはずだ。
 第一、全速力で走りたいのを抑えて一般人が驚かない程度に足をゆるめているのだから、その節度をむしろ褒めてほしい。
 息が切れる前にたどり着いた本屋で残り数冊になっていた新刊を掴み、用意しておいた代金を払って出る背中を蛍の光が押し出す。
 なんとか発売当日に入手した安堵で、今度は同じ道を歩いて引き返しはじめた。嬉しくて走って帰るなんて子どものように、ではなく子ども丸出しだと妙なブレーキがかかったせいだったが、それでも前刊までのあらすじを思い出しつつ今度はどのような謀略が用意されているのかと心を弾ませているうちに、気付けば基地に着いていた。
「あれ、出かけてた?」
「あぁ、ちょっとこれをな」
 守衛室に詰めていた同期に袋を見せただけで、なるほどと納得の相槌が返ってくる。図書隊員同士、話が早い。本が好きだからこそ就いている職業で、本屋の名前が入った袋を見せる以上の説明は不要だ。
「あんまり夢中になって新妻ほったらかしにするなよー」
「うるさい」
 からかいの声を受け流して自宅に向かう。
 時間はすでに九時をまわっている。
 こっちは残業のつもりだったから先に飯も済ませていていい、なんなら寝ていていいと郁には伝えているものの、起きていたらもちろん会話もするだろうし共働きなんだから家事が残っていればするのが当然だ。発売日に手に入れることが出来た、それだけで十分満足でなにも今日読めなくても、本は逃げはしない。
 大事にしたいものは大切に扱うのが一番だ。
 落とさないようにしっかりと脇に挟んで鍵を回す。
 玄関を開けると、ちょうど風呂を済ませたらしい郁が髪を拭いながら満面の笑みで迎えてくれた。
「おかえりなさーい、遅くまでお疲れ様」
「……どうした?」
 帰宅の挨拶には大げさな歓迎ぶりに、やや仰け反り気味でさぐりを入れる。
「なにが?」
 なにが……って、笑顔がおかしいなんて語弊があり過ぎる、か。
 疑問符に疑問符をぶつけられ、答えられないうちにレンジがはじめの音を鳴らす。
「ご飯いつもぐらいでいーい?」
「ん? 自分でやるから」
 いい、という遠慮は軽やかな笑い声に遮られた。
「いいよいいよ、だから篤さんは早く着替えてきたらいいじゃん。そうすればすぐご飯食べられるし、そしたら少しでも早く読めるでしょ」
 笑顔で言い切られ、帰宅したときと同じ笑みの意味を知る。
「そ、れ。楽しみだったんだよねー? んもー、ウキウキそわそわしてる篤さんたら、かわいいんだからー」
「かわいいって……おまえな男に……。それに別に、そこまで露骨にしてない」
「えー分かってないの本人だけだよ。普段がそわそわしない人だから、ちょっとでもバレバレなのにー。うん、大丈夫、読みたい本の続きが出たら一秒でも早く手に入れたくなるの篤さんだけじゃないから」
 同期のからかいなら流せるが妻のからかいは対応が困る。
 仕事上では頭が上がらない部下がここぞとばかりに反撃してくる様子が、むしろかわいいのはお前だ、なんて歯の浮く事を言いたくなってしまう。
 それに、からかいつつも郁は最大限に気遣ってくれているのだ。
 今日発売の本を楽しみにしているとはいつかの会話で出した記憶がある。とはいえ、どれだけ自分がそのシリーズが好きかまでは話していない。確実に入手できる方法を探してネット通販ではなく、本屋ならどこが基地から一番近いのか……そんなマニアぶりを家庭でさらしたつもりもない。
 それでも些細な変化で悟ってくれた。
 本を想う気持ちにかけては、誰よりも純粋なところは今も昔も変わらない。
 着替えている間に揃った晩御飯をありがたく食べている間に、郁は黙って取り込んだ洗濯物を畳み始めていた。
 それも残しておけば自分がやるものを、とことん本に没頭できる環境を作ってくれようとしているところが堪らない。
「じゃあ、あたしちょっと読みたい雑誌あるからあっち行ってるね」
「郁……っ」
 あまつさえ一人にしてくれようとするいじましさに、つい引き留めてしまったものの、小首を傾げ不思議そうに呼び止められた理由を待つ郁に箸も唇も止まったまま動かなくなった。
「その、」
「あ、おかわり?」
「いや」
 自分では気付いていないから、ますますいい女だと思うとか。
 純真なまっすぐさが眩しいとか。
 お前が同じように楽しみにする本があったら同じ気持ちで返すから、とか。
 よし、それだ。
 呼び止めてしまった理由を探してフル回転する脳が思いついた答えに飛びつく。
「ありがとな。逆の時は俺も全力でサポートさせてもらうから、読みたいのあったら遠慮なく言えよ」
 一瞬、なにを言われたのか分からないという表情をした郁が、とたんにぱっと顔をほころばせる。
「じゃあ、今日篤さんが買ってきたシリーズの一番最初の貸してほしいな」
「そんなんでいいのか? 結構ハードめの謀略物だぞ」
「うー……ハードかぁ……まぁ雑誌はいつでもいいし」
 試しに、郁も読んだことのある作家より数段ハードだと例えを出してみるとしばらく悩んでいたが、やがてどこかふっきれた様子で一つ頷く。
「うん、やっぱ貸してほしい」
「まぁそういうなら」
 気に入ったら続きは勝手に読んでいい、と棚から出して来た一巻目を渡しながら告げる。
「ありがとう、頑張るね」
 本の好みは頑張るという次元のものではないだろうと思ったが、やけに愛らしく見える笑顔にその先は飲み込んでおいた。



 宣言通りというか何というか、郁は本当に“頑張る”という言葉が一番しっくりくるほど、シリーズにはまっていた。
 いつぞやは読みながら整理したらしい手書きの人物相関図が本の下から出てきたほど。
 この調子で座学を受けていればよかったのに、などとややいじけた気持ちで無体な事を考えてしまうほどには、自分は放っておかれて拗ねているらしい。
 なにせ自分はもうとっくに最新刊を読み終えてしまった。それほど急いて読んだつもりはなかったのに。
 かといって、せっかく自分と同じものを好きになってくれたのを引き剥がすような真似はしたくない。
 これで睡眠不足にでもなってくれれば大手を振って“止め”をかけられるのだが、そこは特殊部隊で揉まれているからか、絶対に翌日の勤務に響くような時間まで読み耽ることはしない。
 その辺の成長具合は信頼できる。だから結局もやもやとしたまま独り寝につく日々が更新されているわけだが。
 組んでいた手をほどいて、ため息で感情を振り切る。
 勢いよく布団を引っ張り上げる音に混ざって、寝室のドアが開く音がした。
「今日は早いな」
 いじけたようなセリフを口にしてから気まずさが襲うが、郁は隣にもぐり込むなり抱きついてきた。久しぶりの甘えた仕草に反射で抱きしめ返す。
 そうしてから、どうしたのかと疑問が浮かぶのと同時に拗ねた口調が聞こえてきた。
「……頭こんがらがってきたから今日は止めとく」
「そうか」
「もう誰が味方で誰が裏切り者なのかさっぱり」
「それ潜入直後のとこだろ」
 生返事をしながら郁がめくっていた個所の片翼は薄かった。あの辺りならクライマックスに差し掛かるところだと記憶を辿ってみる。
 心理描写が得意な作家があえてスパイが誰かはぼかしたまま決死の作戦は成功する。そこで作品は終わってしまう。やっと続刊ですっきりしたのも束の間、次の伏線がまた網を張っていてさらに次が気になる。
 その繰り返しでハマってしまう罠に、まんまと郁も落ちたのか。
「あそこはわざと混乱させてミスリードを誘っているから仕方ないっちゃ仕方ない」
 同じものにハマったささやかな嬉しさと未だ不服そうな郁を慰めるつもりで、ネタバレにならない程度の助け船を出すとわずかに頭が持ち上がる気配がした。
 反応があったことに促され、自分が読んだ当時の話をする流れに乗る。
「細かい伏線続きで疑心暗鬼になってくるんだよな。そういうのが巧い作家なんだ。俺も何回読みなおしたか」
「敵を騙すにはまず味方から、って?」
「いい例えだな、それ。そうそう、ついでに読み手も騙しとくかみたいな」
「ずーっと実は嘘でしたーってのが続くの?」
「まぁ……それが謀略物の醍醐味って部分もあるし。むしろ一巻なんて甘い方だぞ」
 言った途端に抱きつく距離が少し縮まって、せっかくハマったところに水を差したかとひやりとする。
「それでも後になればなるほど友情も見え隠れして面白くなってくるぞ。おまえ得意だろう、そっちの方が」
 ハマればハマるほど独り寝の夜が増えるのは目にみえているのに、長年ファンでいる作家をついフォローしてしまう。
「実を言うとまさかここまでおまえがじっくり読みこむとは思わなかったというか……嬉しい誤算だった」
 話す間に、もぞもぞと顔を出した郁の頭を撫でる。
 郁はいくらか躊躇い、そしてふっと強張りを解く気配がした。
「篤さん……嬉しい?」
「そりゃ嬉しいもんだろ。同じ本にハマるって」
「そっか、良かった。頑張って」
 安心した様子で照れ笑いを浮かべる郁に反して、最後の単語の意味が分からなくて怪訝な顔を返してしまう。
 薄闇の中でも伝わったのか、えーっとねと更に躊躇ってから郁の唇が動く。
「篤さんが好きな本の話、一緒に出来たら嬉しいなぁって思って」
 最新刊の発売日に見たのと同じ笑顔が腕の中にあった。
 あぁだから“頑張る”だったのか。
 普段はキャラで流し読みするくせに、俺があそこまで楽しみにしていたのを見て自分も寄り添おうとしてくれたのか。
 放って置かれて内心拗ねていた大人げなさをちくりと刺されながら、その甘さに眩暈がする。
 読み耽る郁の原動力が自分だというのは……堪らない。
「でも駄目だね、もっと頑張らないと。もっとハードになってくんでしょー? 何カ月いやいや何年かかるかな。けど絶対追いつくから」
 自虐気味に呟く郁に、どう表現していいかわからない感情がこみあげて、徐々に離れていく体を強く抱きしめ戻す。
「いや……もうあまり頑張らなくていい」
「え、何で?」
 疑問に答えるにはこの感情に単語を当てはめなければならないけれど、きっと一生大切にしなければならない感情へはどんな言葉も物足りないような気がして、今はただそれ以上の追及をされないよう唇を塞ぐだけにした。

あとがき

話の素と、OKを快くをくださったK様へ感謝をこめて
じったんばったんな篤さんにしちゃいました。
きっとさ、これこの後ちゅうだけで済むわけないんだ
じれったい期間が長かった分、夫婦でいちゃいちゃしてればいいんだ
郁がかわいければいいんだ!