笠原郁専門家
十一月も半ばを過ぎてさすがに夕方から冷え込むようになってきていたが、自動販売機を前にして郁は迷わずスポーツドリンクのボタンを押した。 日没ぎりぎりまでの屋外訓練をこなした直後で、外の寒さとは対照的に体は余熱でむしろ暑いくらいだ。 ひんやりとしたボトルを額にあて、しばらく冷たさを楽しんでから事務室に向かう。 日報を書きながら飲もうとドアを開けると、班のメンバーはそれぞれコーヒーを淹れようとしているところだった。 特殊部隊は郁が入るまで完全な男所帯で、階級に関わらず飲みたければ自分で、という決まりが自然と根付いている。堂上と付き合うようになってから、ごく稀に二人きりになった時にだけ郁が二人分淹れたりしているのが何故か皆にバレているようだが、隊長がポットの湯量が際どい時に飲むのを後回しにし、水を汲み行くのをケチっているのも皆にバレているので勝手に相殺だと思っている。 業務部は決まった時間に女子が交代で準備していたのを、柴崎が最近しっかり男女均等に変えてやったわよと言っていたのを思い出しながら、自分の席へ向かった郁の背中に手塚の声がかかった。 「笠原、おまえも飲むだろ」 「あ、あたしは」 順番にお湯を入れていた手塚の手には、蓋をあえて開けたままにしたのだろうインスタントコーヒーの瓶があったが、郁は手にしていたペットボトルを軽く上げてキャップを捻る。 「いま買ってきたのあるから。気持ちだけ貰うわ、ありがと」 「うわっ、信じらんねぇ」 感謝したのに手塚から返ってきたのは呆れ声だ。 「あにあよ」 むっとして即刻抗議するものの既に飲みかけていた口から出たのは、なんとも間抜けな響きで 「……何が信じられないって」 一口飲み下し改めて問い返すと、何故か手塚だけでなく堂上と小牧も郁に注目していた。 え、あたし何かやらかしちゃってる? 慌てて視線を下げるがボタンはきちんと留っているし、シャツの裾もはみ出たりしていない。 訓練着からスーツに着替えた時に失敗したのかと思ったが、自分の目にはおかしなところは映らない。 てことは顔!? 返り血事件を彷彿とさせるような雰囲気にひやりとした次の瞬間、堂上がわずかに眉間を寄せながら「それ」と視線をよこした。 それって。 「え、これ? ってフツーのスポーツドリンクですけど」 見えない線を辿ってやっと驚かせたものの正体に気がついたが、ますますわからなくなった。 買ったのはメジャーなブランドの一つだ。堂上達も飲んだことがないわけではないだろう。ましてや見たことも名前も聞いたことがないなんて、現代日本にいる限りそっちの方が信じられないと言われておかしくない。 首を捻る郁に、今度は心配そうな堂上の声がかかった。 「この寒いのに、んなもん飲んで体冷やさないか」 「さっきまであの寒風の中にいて、まじかよ」 手塚の呆れポイントもスポーツドリンクのせいだったらしい。ようやく合点がいった。そして安心する。 「あたし、人より平均体温高いから。汗が出るままにしとくとかえって体温奪われるし、一度少し冷ますくらいで丁度なんですよ」 説明したのだから遠慮なくボトルを呷る。一気に飲み干したい気持ちを堪えて一口を大事に含む。冷たさが喉を滑り落ちる感覚は、陸上をやっていた頃と同じで気持ちいい。 美味しそうな郁を見て、男性陣は冷たさを想像してか怯んだ顔になった。 反対に揃って湯気の立つカップを呷る様子を見て、男女差を改めて感じる。基本的に男性は体脂肪の割合が少ない、なかでも特殊部隊の面々は日頃の訓練で鍛えられているだけあってかなり筋肉質だ。 どのくらい筋肉質か具体的に知っているのは教官ただ一人だけど。って、なに考えてんの、あたし。 ほぅとぬくそうな息を吐いたその堂上から慌てて視線を引き剥がす。 知ってるけど、いまここで思い出すようなことじゃないでしょ、顔に出てなきゃいいけど。 郁の含羞は幸いにも周りに漏れなかった。けれど、顔を逸らしたのが返って注意を引いてしまったらしい。納得のいかないという表情を浮かべた堂上は再び郁の手を見つめた。 「にしたってなぁ。あったかいもんも摂っといた方がいいんじゃないのか」 「大丈夫ですってば」 「風邪ひいてもしらないぞ」 「ちゃんと考えて飲んでますよ」 「大学でそういう勉強もやってた?」 まだ心配そうな堂上に対して、それまで静かにカップを傾けていた小牧は何気なく自分の席につきながら郁達を促した。 さっそく日誌に取りかかっている手塚をよそに、郁は回転イスをくるりと回す。 「授業でではないですけど。部のチームドクターがアドバイスしてくれて」 「へぇ、本格的だね」 「うちの大学、陸上には力入れてくれてたから。あたし陸上関係のことなら人並みに吸収できるから、結構スポーツ医学の基本とかまだ覚えてますよ」 「少しずつ飲むのもそう?」 「え、あっ」 自分だけが意識していたことを気づかれていた事に、一瞬でテンションが跳ね上がる。 「そうです! さすがにガブ飲みしたらほんとに体冷やしつくしちゃうからっ……ったぁ」 その勢いで喋った途端にピリリとした痛みが唇に走った。とっさに手をやると指先がうっすらと赤色に濡れ、舌先に鉄臭い味を感じる。 ふいに黙った郁の仕草で悟ったのだろう、自分まで痛そうに小牧が気遣わしげな顔をした。 「切れた? 大丈夫?」 「……あ、はい大丈夫、っぽいです」 それよりも……。 郁はこそりと堂上を窺った。 なにがなんでも自分に注目していて欲しいわけではない、特に仕事中にそんな甘えたことを思わないだけの分別はある。けれど、堂上が何の反応も示さないのが妙に気にかかる。堂上らしくない。 それは手塚と小牧も同じだったらしい。二人とも怪訝そうにアイコンタクトを交わしている。 三人分の注目を浴びた堂上は、何やら難しそうな顔で手にしたマグカップを覗きこんでいたがやっと気が付き、はっと顔をあげた。 「……教官、どうかしました?」 恐る恐る問うが、歯切れ悪く「いや」と首を振られる。それよりも初めて気がついたように次の瞬間、驚いた声が返ってきた。 「おまえ、口どうした」 「あ、えっと、切れちゃったみたいで」 自分の机に入れてあるボックスティッシュを一枚押し当てる。何回か繰り返して、やがて血はつかなくなったが鈍い痛みは唇に残った。 この様子だと、しばらく口を開くたびに同じことになりそうだ。 普段、意識しないことに気を回さなきゃいけないのは結構ストレスになる。想像して滅入った流れでぼやきがついて出た。 「去年までこんなことめったになかったんだけどなー、今年が異常に乾燥してるって感じもしないのに何でだろ」 「リップクリームとか持ってないのか」 手塚のアドバイスに、へぇ手塚でもリップクリームとか知ってるんだと思ったのは、流石に失礼過ぎて顔に出せない。 「去年の使いきっちゃったんだよね。なかなか買いに行く時間なくって」 「そこらのコンビニでも売ってんじゃないのか」 当たり前のように言われて、お返しとばかりに盛大な呆れ声をあげた。 「定価のコンビニで買うわけないでしょー? 倍は違うってのに」 消耗品はドラッグストア、こんなこと女子の中では当然だ。 「痛みより値段かよ」 「塵も積もれば何とやらなのよ」 あまりコスメに拘りのない自分でさえ、買うとなれば札が飛ぶ。特に堂上と付き合いはじめてからは。身だしなみにかかる必要経費の基準が違うのだから、財布の紐が固くなるのは仕方のないことだ。 なのに呆れ返され口がとがりそうになる。 その途端に、傷口が開く気配がして咄嗟に掌をあてた。 「酷いのか」 不快さに眉が寄っているだろう自分より、尋ねた堂上の方が眉間にしわが寄っていた。 さっき感じた違和感は気のせいだったのかもしれない、だってやっぱりちゃんと心配してくれてる。 心配をかけているなら、ちゃんと安心させなくちゃいけない。義務のように思うのにまっすぐに唇を見詰めてられて、何故かそれが妙に恥ずかしい。 「止まったから大丈夫だと思いますよ」 伏し目がちになりながら今更のように日報の用紙を引っ張り出して、日付を書き込む。 「そういや乾燥って……」 「はい?」 水を向けられたと思ったが、訊き返すと堂上はふいと顔をそむけた。 「あの、何か」 重ねて尋ねても答える声がない。 自分が原因なのだろうとは分かるものの、さっぱり見当がつかないもどかしさが声を高くしそうになったが、もう一度、切れてしまうのを無意識に警戒して口の開きが甘くなった。 返事がないのはそのせいかと思ったが、堂上はまた何事か考え込んでいて返事を期待できる雰囲気ではない。 郁は首を捻りながら今日の訓練内容を書き写しに入った。 ◇ ──少し付き合え。 今日もビリで日報を仕上げた郁を、とても買い物がてらのデートとは思えない誘い文句で連れ出した堂上と向かったのは、基地から一番近いドラッグストアだった。 「ありがとうございました。なんか、強請ったみたいになっちゃって」 有線がにぎやかだった店内を出てすぐ、リップクリームの礼を言うと堂上は付き合っていなければ気付かなかっただろう程の微かな笑みを浮かべた。 「いや、それで良かったか」 「はいっ、さっそく今日から活用させてもらいます」 郁は満面の笑みを浮かべて買って貰ったリップクリームをバッグにしまった。 よほど唇が切れたことを気にしてくれたらしい。 季節柄、入口すぐにあったコーナーまでまっすぐ連れて来られて、一緒に選びさえしてくれた。 事務室での一件から何か無口な気がするけど、こういうさりげない気遣いと優しさはいつも通りの堂上だ。 自然と手を繋いで歩きだす。 本当に郁のリップクリームを買うだけが目的だったらしく、荷物のない堂上は自分のポケットにまとめて手をつっこんだ。 こういうとこもいつも通りなんだけど。 「確かに体温高いよな」 早くもクリスマス商戦がはじまっている商店街の喧騒の中、その呟きが聞こえたのは様子を気にかけていたからで、首を傾げた郁に聞かせるつもりはなかったのだろう。 気付いた様子に苦笑して、本当にわずか、指先に感じるだけ手を握る力が強くなる。 「分かってたつもりだったんだがな」 「はじめて手を繋いだ時も、ぬくいって」 「あぁ……」 そこで止まってしまった話の終着点が見えない。 俯き加減で窺うと堂上の顔は静かで、会話の糸口になりそうなものは見つからない。 郁から話しかけられないまま商店街を抜け、点々と灯る街路灯に伸び縮みする影を見るともなく、手を引かれるままに基地への道を歩く。 どうしよう、やっぱあたし何かやらかしちゃってんのかな。 出来事を巻き戻してみると、行きつくのはやはり事務室での一件だ。 心配してくれたのに撥ねつけたように思われただろうか。それとも呆れただろうか。呆れたなら呆れたで、どれに。 元来がおしゃべりな方でない堂上の沈黙には慣れて、それどころか心地よさまで感じはじめていた時の、この静けさ。 これ以上続くなら気まずさが混ざる、そんな沈黙を引きずったまま寮に戻りたくない。 いつの間にやら基地までは角を曲がればもうすぐだ。 いま、今すぐ、何か言わなきゃ。 「あの、体温高いのは生まれつきで自分はもう慣れちゃってるから、すいません」 きっかけを探しあぐねたセリフは唐突で支離滅裂なものになってしまった。 「何で謝るんだ!?」 驚く堂上が足を止めたが、却ってその仕草でちゃんと会話になりそうで妙にほっとする。 「だって、事務室でその話をした時から教官、変だし」 「変って、せめて少しは言葉を選べ!」 「様子がおかしいし! だから、あたしがなんかしちゃったんだろうなって思って、その」 そこで後ろから近づいてきた自転車に同時に気付き、反射で体を引く。 話すにしてもこの場所は迷惑だと口に出したわけではないのに、堂上はためらいなく繋いだままの郁の手を引き、寮とは逆に歩き出した。 一度、精一杯脳味噌しぼったきっかけが途切れて、何処へとも訊ねられないけれど外塀沿いに図書館の方へ向かっているのは分かる。 案の定、人気のまったくなくなった前庭につくと、郁より気まずそうに堂上が天を仰いだ。 「おまえのせいってわけじゃない」 じゃあ? と疑問が通じたのか更に複雑そうな顔になって、手がぎゅっと握られる。 「おまえの体温云々は知ってたのに、クールダウンしてるのまで気づかなかった、と思ってな」 ようするに。 「小牧は気付いてたみたいだし。これでも結構昔から見てたつもりだったんだが」 ……ようするに、それは。 呆れてるわけじゃない。怒ってるわけじゃない。だったらこれは。 「拗ねてた?」 心に浮かんだ単語がぽろっと漏れた途端、暗闇でも分かるほど堂上が刺された顔になった。 「……おまえな、言うな、そういう事は」 「え、何で、だってちょっと嬉しいのに」 「何がだよ」 「あたしのことをそこまで気にかけてくれるとことか、あ、あと昔から見ててくれたってのも」 付き合いはじめたばかりの頃、堂上に訊いたことがある。 あたしのこといつから好きでしたか。──少なくともお前より早かったことは確実だ。 自他共に認める物覚えの悪さでも一字一句覚えている。それ以上、いつと具体的な答えをくれたことはないが、上官としても男性としても大切にしてくれてきた、それだけで十分に幸せで。 今でもその気持ちで見てくれている。 その告白に頬がにやけてしまう。堂上が何でそんなにぶっきらぼうな態度なのかわからない。こんなに嬉しいのに。 しばらくにやけっぱなしの郁を渋面で見ていた堂上だったが、やがて諦めたように再び天を仰ぎ、 「まぁいい。俺しか気付いてないこともあるし。……活用するなら自粛する義理ないよな」 謎の呟きを唇に落としながら、やけに優しい顔で抱きしめられる。 今年になって唇が乾燥するようになったのって……きっと来年も再来年も乾燥するだろう……すればいいのに。 郁にもわかるまで何度も、態度とは裏腹の甘いキスをくれた。 |
あとがき
あまり露骨に『郁の唇が乾燥するようになったのは、堂上と付き合いだしてチューとるから』
と書きたくなかったけど
かといって、表現しきれているか自信なんてないので
あとがきで露骨に書いてみる小心者