掲げるは白い旗



 出会った時は、王子様で。
 そうと知らず再開した時は、教官で。
 その後、直属の上司になって。

 気がつけば、あたしと堂上教官の関係は常に相手が上にいた。

 それは恋人になってからも同じで、それが当たり前だと思っていたけれど。

 メニューの感想をあれこれ言い合っているうちに、堂上が予約していてくれたホテルについてしまった。
 今更だけれど、言わずにいるのも落ち着かない。
「ごちそうになっちゃってすいませんでした、教官」
 寮の食堂ではお目にかかれない居酒屋メニューが楽しくて、ついついあれもこれもと頼んでしまったのはこちらなのに、自分だけ酒を飲んだからと全額出してくれた堂上の返事を待ったが、返ってきたのは沈黙だった。
 物言いたげな視線で気付き、ぐっと息をのむ。
「ごちそうさまでした」
  今まで当たり前に教官と呼んでいたけど……。
「……篤さん」
「あぁ、どういたしまして」
 言い直した郁の頭を撫でた堂上は満足げな笑みを浮かべた。
 駅で指摘された時と同じ、やけに優しくみえる笑みが照れくさい。
 プライベートではもうごめんだと言われてはいるけれど、三年も口に馴染んだ呼び名を急に変えられる要領の良さなんて自分にはない。
 篤さん、かぁ。
 離れていく手に上手い返しも出来ず、郁はもそもそとコートのボタンを外した。
 肩から下ろしたところで目の前にハンガーが差し出される。
「あ、ありがとうございます」
 礼を言いながらコートをかけようとして、はっと脳に信号が入った。
 もしかしてあたしすっごい甘やかされて、それを当たり前って思ってない!?
 だって“恋人”の時は、いつの間にか心地いい空間が用意されていて、自分は受け身でいるだけで良かった。
 今だって、ここ! というタイミングでハンガーを渡してくれたのは、それだけこちらの行動に気を配っていてくれたからだろう。
 大して性能の良くない脳が記憶を辿るまでもなく、二人きりの時は隊にいる時とは違う扱いをされていることを分かっている。
 分かっているのに、理解していなかった。小牧に断言すらしていたのに、今になって実感の重さが違ってくる。
 そうっと堂上を窺うと、ポケットから財布や携帯を出しているところだった。
 すでに堂上が空調を調節したのか、かすかな風の音が室内に流れはじめたが、逆にいうならそこに気付いてしまうほど静かだということだ。

 あたしが、こういう場面で、積極的に動ける性格じゃないって分かってくれてるから?

 こちらに向いた背がいつもより大きく見えて、どくんと一回鼓動が跳ねる。
 甘えるだけじゃ……あたしも同じ位置にいかなきゃ……これからは恋人じゃなくて夫婦になるんだから。

「……篤さん」
「どうし……たっ!?」
 振り向きざまの堂上に抱きついて、深呼吸を一回。……よし。
 ここで逃げられたら、きっと恥ずかしくてもう二度と同じことをする勇気がでないから。
 両頬に手を添えて、開き加減の唇に自分のそれを重ねる。
 肉厚で温かな感触を舌先で確かめるのと同時に、もう一段階、喉を開く。
 奥まで重なった唇の中で下を絡めてみるけれど、いつもなら自在に動めく堂上のそれがぴくりともしてくれない。
 こんなんじゃまだ甘いのかな?
 自分からここまで大胆にキスを強請ったことがないせいで加減が分からない。
 思い出せ。
 
 今までどんなキスをされていたのか、どんなに愛されてきたのか。
 すべてを返せるように。
 
 全身の神経を砥ぎすませると、頬を挟む指先にかすかな振動が流れてくるのが分かった。
 首筋の脈が伝ってきているのだと気付いて、指先を流れに沿って下ろしてみる。
 鎖骨で一旦途切れた脈は、そのすぐ下に辿りつくと一際大きくなった。
 堂上はキスを返してくれないけれど、大きく跳ねる鼓動が興奮していると教えてくれる。
 みっしりとした筋肉の下で、自分が仕掛けたキスがこんなにも激しい反応を引き出しているなら、とても幸せなことなのだと思う。
 動かない舌を諦めて、そっと引いた舌先で次は口蓋を舐めてみた。
 ざらりとした質感の先でつるりとするエナメル質の差が面白い。
 奥に向かうにつれて歯のサイズが大きくなるのが舌先でもわかって、一つ二つとなぞってみる。
 重なる角度がかわって、喉の奥から鼻へと吐息が抜けた。
 その吐息は、堂上のキスで力が抜けるいつもの合図と同じで、ふるりと膝がわなないた。
「……っあ」
 足も舌ももつれたままベッドに倒れ込む。
 マットレスで跳ねたせいで、互いの歯がかつんとぶつかった。
「あ」
 今度の“あ”は気まずさのせいだ。
 ここまでは堂上にされたように出来た──した、つもりだ。けれど、こんな時どうすればいいのか郁の経験値では対処法が浮かんでこない。
 おずおずと堂上を見上げると、見開かれた目とまっすぐぶつかった。
「……郁?」
 戸惑い交じりの声に後悔が引きだされる前に、喉を鳴らしてキスで滲んだ唾液を呑み込み、舌に続けて視線も絡める。
「篤さんと同じ気持ちになりたくて」
 同じ位置で、同じ強さで、返したい。
 ほどきそうな衝動を振り切って、胸に添えていた手を首筋に回した。
 してみたはいいけど、ここから先、堂上がしてくれるようなあれこれを自分が返す、そう考えただけで恥ずかしさと照れくささと怖れと戸惑いが神経を握りつぶして動けなくなる。
 動かないのは堂上も、で。
 考えないようにしていた後悔がじわりと顔を出しはじめたその時、堂上がすっと息をつくのが耳にきた。
「同じ気持ちでいいなら、遠慮なしにいかせてもらうけど却下はなしだからな」
 やけに絡む視線の奥が熱く見えるのは気のせいだろうか。
 早口な断言の意味を頭が理解する前に、真上にいた堂上が重心を移す。
 自由になった彼の右手がセーターの裾にかかって、輪郭を確かめるように上へ上へと登ってくる。
 女子の本能が手から脇腹を逃すようくねるが、そんなことはお見通しだと言わんばかりに捩った胸を包み込まれ郁の背が跳ねた。
  
 都心の喧騒から切り離されたホテルの室内に、荒い呼吸音だけが代わる代わる響いている。
 郁が静かなのは何も言っていないからではない。
 何も、言えないほど激しいキスで、すべての反応を呑み込まれているからだ。

 仕掛けたキスで釣れたのは、あたしの方。
 
 根が生真面目な堂上が宣言した通り、遠慮されず同じまで感情を揺さぶられた結果、息が出来ないほどの甘い苦しさに連れていかれながら過ったのはそんな敗北宣言だった。

あとがち
ちゃんと、郁ちゃん頑張って仕掛ける→形勢逆転→失神
の流れになっとるでしょうか?
うかつに呟くとどう料理されるかわからないから
気をつけなはれや!!w