冷たい雫に火照る頬



「あれ? 堂上みつからなかったんだ」
 上官の決裁が必要だからと書類片手に堂上を探していた手塚は、事務室に戻るなり申し訳なさそうに微笑むもう一人の上司を前に項垂れた。
「自販機に寄るって言ってたはずだけど、すれ違っちゃったのかな。悪かったね」
「いえ! その」
 親切に教えてくれた小牧に謝られて、とっさに否定する声は大きくなったがすぐにしぼんでしまう。
「……やはり今は休憩時間ですし、課業後でも十分間に合うものなので」
 本当はいま班長のハンコを貰えれば、そのまま副隊長、隊長と回せて、本日の業務終了までには決裁が下りる。
 大学時代の友人から結婚披露宴の先触れの招待メールが届いたのは午後の休憩に入る直前で、善は急げと有給の申請を済ませることにしたのはいいが、あえて堂上含む班員にはその事を告げなかった。堂上なら待つからすぐ申請書を作成してしまえと言いそうな気がしたからだ。私的な理由で休憩時間を煩わせては申し訳ない、そう考えたことを間違っていたとは思わない。
 書類を仕上げ、上司の帰りを待つ。
 それが効率的だと判断したのだけど、先に返ってきたのは小牧のみで、この時点で諦めておくべきだったのに。
 訊ねて探しに行く事にした、あの瞬間の何も考えていない自分に臍を噛む。
「でもわざわざ探しに行くくらいだから、急ぎだったんじゃないの?」
「いえ、本当に業務再開以後で十分です」
 もう一度探しに行ったら、なんて水を向けられては堪らない。
 社会に出る直前の濃密な学生時代を共に過ごした友人の結婚、それで少し舞い上がってしまっただけだ。
 話題を畳んでいるのが分かるように申請書を抽斗に押し込むと、普段は滑りの悪い安机が、こんな時に限って勢いよく音を立てる。
「手塚、何あった?」
 それだけで断言できる上官を尊敬する気持ちと、相反するいたたまれない気持ちがこみ上げて無駄に咳き込んでしまう始末だ。
 これじゃ何かあったと明言しているのも同じじゃないか。
「手塚?」
 穏やかな、あくまでも穏やかな声音に促され席に座る。
 目を見て話せないのは勘弁してほしい。
「小牧二正の仰る通り、自販機のところに堂上二正が居たのですが、その」
 歯切れが悪くなるのが忌々しい。
 何で俺がこんな気分にさせられるんだ。
「居たのに……? あ、そっか笠原さんもか」
「はい」
 それで察して欲しかった。
 けれど今日はつくづく読みが甘くて、何もかもままならない日らしい。
「キスでもしてた? いくら休憩中とはいえ堂上らしくないなぁ」
「違いますっ!」
「だろうね、堂上のキャラじゃないし」
 まだ休憩から戻っていない隊員も多く閑散としている事務室内とはいえ、あまりに露骨なセリフにぎょっとする。
 言った本人はあえて大きい爆弾をぶちあげることで、こちらの躊躇いを吹き飛ばすのが狙いだったらしい。無言の笑みに促されて深呼吸を一回。
 やっぱり言わなきゃダメか。むしろキスぐらい露骨だったらこんなに躊躇わずにすんだのに。
「そういうことではなくて、これは俺の感覚の問題なので曖昧なんですが」
「感覚なんて人それぞれだろ。で、堂上と笠原さんがどうしたって?」
「はい。……その、二人はスポーツドリンクを飲んでて」
「あぁ、今日暑いしね」
「それが、二人それぞれではなくてですね」
「どういうこと?」
「一本を、二人で飲んでて。って……あいつ何なんですか!?」
 間合いのいい合いの手に、つかえながらもとうとう見かけた光景を口にしてしまった。
 一度言ってしまったら箍が外れた。
「遠慮ないっていうか、いつ誰が通るか分からない廊下で、付き合ってるとはいえ業務中は上官の、飲んでるペットボトルを“もっと”なんて言って奪いますか!? それも“たりない”って何回も!」
「あー」
「あ、あまつさえ口の端から零すし、それをまた堂上二正が当たり前みたいに、……拭って。あいつ実は幼稚園児ですか!?」
「それはまた、見ちゃった方がいたたまれないねぇ」
 白状するまで、そんな事で近づけなかった自分がおかしいのかと逡巡した部分を理解されて、安堵のあまりがくりと肩が落ちる。
 堂上を探しに行った手塚が見たのは、自販機の前に並んで腰かけていた堂上と郁だった。





「財布取りに戻ればいいだろうが。つうか飲みもん買いに来るのに財布が意識からすっぱり飛んでるってどんな思考回路してんだ」
「だって教官と話しながら来たら、途中で更衣室に寄るのを忘れちゃったんですもん。男性と違って普段財布持ち歩かないですし、仕方ないじゃないですか」
「今の話のどこに仕方ない要素があるんだよ」
「えー……ありますってば。でも戻るのめんどくさいから、あたしいいです」
「ったく、ほら」
「え?」
「何にするんだ? 仕方ないから出してやる。いいか、仕方ないの正しい使い方はこうだからな」
「お説教付きなら遠慮します」
「一人で飲むのも気まずいだろうが、こっちの身にもなってみろ」
「あ、じゃあ教官の一口ください」
「それでいいのか? なら、ほら」
「わーい、いただきます。…………ごちそうさまでーす」
「そんなんでいいのか? おまえ絶対足りないだろ。あとで喉が渇いたって騒いでも知らないからな」
「さすがに人の強請って飲み干すほど意地汚くないですってば。教官あたしのことなんだと思ってんですか」
「素直に吐いとけー」
「う……もっと欲しいなー、足りないなー」
「はいはい、もうそれやるから全部飲んじまえ」
「はぁーい。業務中に教官が優しいなんて滅多にないから余計に美味しいです」
「返せ」
「あっ、うそうそごめんなさい! もっとー、たりなーい。…………あぁっ」
「……おまえな、素直になって遠慮取っ払ったとたんに零すな。落ち着いて飲め阿呆が、ほらこっち向け」





「いっそあの二人がキスしてる現場見てしまった方がまだマシでした」
「確かに。俺でもまわれ右するだろうなぁ」
 目に焼き付いている光景は、正しく小牧に伝わったようだ。見てしまった、いたたまれなさも。
 さらになぐさめるように肩をぽんと叩かれ、ほっと息を吐く。
 間接キスを躊躇わないということは、それだけの距離感がすでに二人にあるという事だ。
 付き合っている事はもちろん事実として知っていても、手塚の知る堂上篤と笠原郁は業務中は相変わらず上司と部下で、寮でもさほどそこから外れた感じを受けないから実感がなかった。
 二人にそれ以外の時があるという事を目の当たりにして、思いがけず動揺してしまったのはどうやら仕方のないことで合っているらしい。
 仕方がない、が、情けないことには違いない。
 事務室を出て行った小牧がドアの向こうで爆笑をはじめたのも当然といえば当然。
 ふいに覚えた喉の渇きを癒すのは、事務室内に準備してあるインスタントのホットコーヒーで我慢するしかないのを手塚はしぶしぶ受け入れた。

あとがき
こういうキャッキャウフフの方がむしろエッチィ
と思う猫百匹。
そのものズバリ!もアリですが
ほら日本人ならチラリズム的じれったさ
に悶えるのアリで