その存在感
結婚って何かと面倒事が多い。 日報すら苦心惨憺して仕上げている郁にとっては、結婚で苗字が変わったり官舎へ移ることの手続きの書類は悪戦苦闘の連続だった。 堂上が手伝うと申し出てくれたが、これはあたしが娘としてする最後の手続きだからと大見栄切って辞退してしまったのを何度も後悔した。 それでも楽しかった。済んだ暁には堂上郁としての人生が、一生大切にしたいと思える人との人生が待っているから乗り越えられた。 山場を乗り切った郁は心も軽くなり、寮から官舎へ、同じ敷地内の引越しは何かと楽だろうとしか想像していなかった。 なにしろ人手なら多少の重量には頓着しない力自慢が揃っているし、こまごました私物だって段ボール箱さえ調達してしまえば放り込むだけでいい。どうせすぐ出すのだから。 ―――――――― 寮住まいだと家具とかないからねー、玄関まで段ボール運ぶの手伝ってくれたら官舎には小牧教官と手塚たちが持ってってくれるって。お昼食べたらよろしくね。 業者の配達が十時と十一時だっけ? そう、先が家具屋で次が電気屋。かち合うとバタバタするからって篤さんが決めたの。たいして買ってないから一時間も空けなくて大丈夫だとは思ったんだけど。買うときだってほとんど即決だったもん。 ―――――――― 引越し前夜、部屋で最後の詰め込み作業の手伝いをしてくれている柴崎に「篤さんが、ねぇ」と含み笑いされたのだって、慣れない呼び名をからかわれているとしか考えていなかった。 「結婚する相手をいつまでも教官じゃおかしいでしょ! そこ注目するな!」と、結婚の話がでるまで、しかも本人から指摘されるまで自分も教官と読んでいたことを棚にあげてむくれただけで済ませた。 そして今、郁は敷地内引越しの弊害に困り果てていた。 「堂上一正、この荷物はどちらへ運べばよろしいでしょうか」 「それは……衣類か。ならあっちの部屋だな」 堂上の指す「あっちの部屋」から出てきたばかりだった郁は、聞こえた会話にギョッとして玄関にダッシュした。 「手塚、それあたし運ぶから! 手塚は寮に戻って残りを運ぶのお願い」 何か言われる前に手塚の手から段ボール箱を奪い取る。 普通の女性なら怯む重さだったが、特殊部隊で背嚢を担ぎ慣れている郁には軽いものだ。 箱の行き先を仕分けしていた堂上の面食らっている顔にも、その態度はないだろうと言いたげな顔の手塚にも誤魔化し笑いだけを返して後退る。 手伝って貰っておいて何様だと郁自身も感じるけれど、とにかくあっちの部屋には入って貰っちゃ困るのだ。 「ごめん、ほんと。ここは何とかするから」 「別に俺は構わないけど」 「郁。中に運ぶのも手塚と小牧に頼んで、お前は指示しながら片付けをしろと言っただろ。じゃないといつまでも昼飯にありつけないんだぞ」 引越し手順を決めたときと同じ、至って冷静で至極真っ当な堂上の指摘にあぁやうぅと唸るのが精一杯で、この際無視して逃げようかと思いついたところへ玄関が開いて郁の逃げは封じられてしまった。 「はい、これで最後」 言いながら入ってきたのは最後だという箱を抱えた小牧だ。 「悪いな小牧、助かった」 「いやいや、これくらい。二人共、私物少ないから大した手間でもなかったよ。ついでだから箱バラせられるのだけでも手伝おうか、休暇も限られてることだしね」 早く済ませて夫婦でゆっくりしたいでしょうとでもいいそうな、これまた当然という風情の気遣いに逃げるタイミングを失った郁は立ち尽くすしかできない。 「食器や本なんかはもうしまったんだ。家具屋を一番先に手配しておいたからな、柴崎がそういう細々したもんやってくれた。あとはお互いの服なんかで」 「これもそうだろ? 堂上、夏ってあるけど」 「あぁタンスは寝室だから、あっちに運んでもらえりゃ」 あっち。 その単語に我に返る。 あっちには――寝室には! 「小牧教官それあたしが運びますから!」 「って言っても、笠原さんもう一箱持ってるじゃない。いいから気にせず使っておきな、人手は。そのぶん早く片付くんだから」 ほんのちょっと逃げる躊躇したのが、こんな困った事態を引き起こすなんて。 こんなだったら手塚から奪った時点で問答無用、さっさと引っ込んでしまえば良かったと後悔しても後の祭りだ。堂上も手塚も 「一人で張り切らなくていいぞ。お前が無理してもろくなことにならん」 「だからそれも俺が運んでやるって。同期のよしみだ、それくらい気にするな」 と、善意で突き付けてくる。 「でも……」 誤魔化そうとして、言葉に詰まった。 何と言えばこの場を切り抜けられる? どうすれば分かって貰える? この複雑な女心を、この男達に。 悔しいことに恋愛事といえば夫になった堂上がほとんど全ての相手で、当の夫すら 「人の気遣いを無下にするもんじゃないぞ」 などと理解できない風情だ。 それはそうだけど、気まずいんだってば! と答えたところで「何が」と訊き返されるのは明白で、万策尽きた郁に含み笑い込みの助け船がやってきた。 「勘弁してあげてくださいな男性陣。この純粋培養の人妻初心者の心理、汲み取れません?」 バラした段ボール箱を床に置いてパンパンと手を叩いたのは、寝室で郁の服を片付ける手伝いをしてくれていた柴崎で。 柴崎なら何とかなるとホッとしたのも束の間、郁の安堵はあっさり裏切られた。 「寝室といえば当然あるもの、と言えば分かりますわよね小牧教官?」 「あぁそっか。ごめんね無粋で、堂上夫妻」 「えっ、なんのことだよ」 「手塚ー? ちょっとは気を回しなさいよね。この子はあんたとか小牧教官に真新しくも馬鹿デカいダブルベッドを見られたくないってこーと」 「なっ!」 んで言うか! 続きの郁の叫びは喉に消えた。 だって……だって、いくら寮の部屋より広いとはいえ官舎も余裕があるわけじゃないんだから仕方ないでしょ。シングルを二台置くより無駄がないって篤さんが言って、あたしも納得したし。それに二人で寝るとか、夫婦だから自然と……そういうこともするわけで、だからダブルベッドが便利とか頭を過らなかったと言ったら嘘だけど。 郁の弁解はどれも恥ずかしすぎる気がして困り果て、俯きながら夫を窺うと上戸に入った小牧に仏頂面を向けていた。 「余計な想像しなくていい。狭いんだから工夫しないと身動き取れなくなる。深い意味なんかない」 堂上は郁が恥ずかしくて口に出来なかった説明をさらりとしたが、その耳はうっすらと赤くなっている。 寮には作り付けのベッド兼収納があったから、官舎に移るにあたってまず揃えたのが必要な家具だった。結婚式の準備と平行して公休のたびに二人で家具屋を覗き、予算を睨みながら選んでいくのは書類を一つ一つ片付けるのと同じで、新しい関係が近づいているようで嬉しかった。 班の面々や柴崎が率先して手伝いを名乗りでてくれたのも嬉しくて……。大きくて組み立ての必要な家具を先にした堂上の采配はさすがだと尊敬すらした。 だから頭からすっぱりと消えていたのだ、新しい関係を象徴する最たるものを見られる可能性と意味に。 「堂上教官、うっかりしてましたねー? 配送を頼むとき気がついてもおかしくないのに」 「……うるさい」 上官相手に遠慮会釈ないからかい口を向けてから、柴崎は「笠原が気がつかないのは当然として」と付け加えニヤリと笑う。 あのときの「篤さんが、ねぇ」はそういう意味か! まだ上戸のおさまらない小牧といたたまれない顔の手塚に、郁はもっと身の置き所がなかった。 穴があったら入りたい、いや! 誰かスコップ持って来い自分で掘る! だてに特殊部隊で鬼教官にもまれてきたわけじゃないんだ、あたしの大きさだって三十分もあれば余裕だ! 手が埋まっているため、顔を覆って隠せない郁がとりとめのない想像に羞恥を逃していたのに、 「それ貸せ! 俺が運ぶ」 堂上は郁の手から箱を奪い、一人であっちに逃げようとした。 「堂上、ぷっ……今更っ、照れることないだろ……っく、寮から出たら恋人と……堂上の場合は奥さんだけど、くっついて眠りたいって、寮住まいの大体は夢見るもんだよ」 「なら笑うな! 郁っ、寝室に運ぶ箱だけ選り分けてろ! 手塚は残り他を移送、柴崎はその補助!」 場面が場面でなければ咄嗟に敬礼をしてしまいそうな声音で指示を言い残した堂上に、郁がうずくまって呻く声と柴崎の高い笑い声と小牧の爆笑、そして手塚の弱々しい「了解」が返った。 |
あとがき
ダブルベッドです。
誰がなんといおうと、堂上家はダブルベッドです。
原作中にそこまで描写がなくて(え、なかったよね!?)
これはもう妄想するとしたもんだろう、と