ホット・チョコレート



「遅いぞ笠原」
「すいません」
 事務室に着くなりの叱責に、胸の奥に出来始めていたささくれが大きくなった気がした。
 始業まではまだ五分ある。
 当麻事件がどう転ぶかわからない状況で、始業開始に間に合ったのだからとは言い返せない。
 自分だって本当は早く来て、資料を頭に叩き込んでおきたかった。身体能力だけでなく頭も上等な仲間に囲まれていて、自分が人より些か学習方面が覚束ないのを自覚しているからこそ、稲嶺宅詰めでない日くらいはと思って三十分早く出たっていうのに。
 席につきながら既に自分の机に積んである資料に目を向ければ、すかさず
「今すぐとは言わん。明日までに完璧に把握しておけ」
 堂上から釘が刺さる。

 だから何であんたは、ささくれを引っぺがすような真似をするかな。

 寮から事務室まで、もやもやした気持ちを抱えてきた郁にはとどめだった。
「堂上教官。お説教ならこっちに半分お願いします」
 言いながら、手塚の机に紙袋を一つ押しやる。
「なんだよ、これ」
「あんた宛てのチョコよ。笠原急便は確かに配達しましたっ」
 うっ、と手塚が怯んだ様子で僅かに溜飲が下がった。
 数にして十数個。つまり朝からその分の女性隊員に囲まれ、詰め寄られ、手塚への思いをぶつけられ揉まれ、三十分のアドバンテージなんてあっという間に消えたのは今となってはもう仕方ない。
「それ全部か」
「すごいね。うちの班が基地にいる間にって情熱が見える」
 郁の遅刻未遂にそんな原因があったとは予想もしていなかったのだろう。呆気にとられた様子の堂上と小牧が資料を捲る手を止めてやってくる。
「そうなんですよ。しかも本人達はさっさと出勤しちゃうから、あたしが捕まっちゃったんです」
「達?」
 面白がって手塚の袋を覗きこんでいた小牧にも、もう一つ手塚よりは少ないもののそれなりに詰まった小振りな方の紙袋を渡す。
 表情こそ変えないまでも、小牧は露骨に困った雰囲気を漂わせた。
「あたしはちゃんと断りましたよ。小牧教官にはれっきとした彼女、毬江ちゃんがいるからって。それでも渡してくれるだけでいいって」
「相手の名前わかる?」
「中に手紙とか入ってるとは思いますけど、時間見つけてメモしときます」
「ありがとう、助かるよ」
 小牧は全部相手に返すのだろう。毬江の見えないところでも真摯な小牧の態度に、僅かな羨望が浮かぶ。
 いいなぁ、あたしも恋人からこんな風に想われたい。
 恋人ができたことはないけれど……もし。
「俺のも断ってくれれば良かったんだ」
 我関せずと既に資料に戻っていた堂上に向かいかけた意識は、手塚のおずおずとした抗議で掻き消えた。
「言ったわよ! 自分で渡せって。でも、手塚君は〜直接だとどうせ受け取ってくれないから〜って! 我も我もと押しつけられてどうしろってのよ」
「それは……その、悪かった」
 珍しく自分の方が手塚をやり込められて、それで少しはスッキリするかと思ったのに、一向に晴れる気配はやって来ない。
 本当はわかっている。
 自分でももやもやする理由は他にあると気付いていて、知らないふりをしているせいだ。
「朝礼はじめるぞ」
「はいっ」
 そんな事あれこれ考えてる場合じゃない。
 始業の鐘と同時の堂上の声に、郁はきっぱりと頭を切り替えた。





 今日も当麻事件は変化がなく、通常の訓練をこなした隊員達が三々五々帰って行くのを見送って、郁は抽斗にしまっておいた資料を引っ張り出した。
「寮で読むのか?」
 日報に目を通していた堂上の声に首を横に振る。
「ここでやってきます。分かんないとこあっても、ここなら前の資料揃ってるし」
「そうか、勉強熱心で上司としては嬉しい限りだ」
 寮だと取次希望が部屋にまでやって来そうで落ち着かないという理由の方が大きかったのだが、褒められて素直に嬉しくなる。
 もやもやしていたのがようやく治まりそう。
 半日経って、小牧と手塚の二人に強い態度を取ってしまったのは八つ当たりだと、自分に認められるようになっていた。
 本当は羨ましかった。
 好きだからと気持ちをぶつけられる彼女達が。
 当麻を巡る状況も、特殊部隊の緊張も、なにもかも飛び越えてただ好きだという感情を告げることが出来る。それはとても幸せそうで、なんて羨ましい。
 堂上が警備に関する庶務実務に追われているから、今はそんなことで煩わせてられないから、事態が落ち着いてから、いつかきっと。
 幾らでも浮かぶ言い訳に隠れて、気持ちを告げる勇気もないことを嫌でも自覚させられてささくれていただけだ。
 結局、義理チョコの一つも用意できなかったあたしが、今やらなきゃいけない事に向き合うのを勉強熱心だと褒めてくれるなら。
 上司として、あたしを認めてくれているなら。
 せめて部下としてこれ以上不甲斐ない真似はできない。
 資料にマーカーを引き、不明なところは昔の資料を引っ張り出す。
 地図を広げ、経路を頭に叩き込む。
 細かい数字は……まぁ、ざっと目を通して大事そうなところだけでも。
 気になる個所はこの際、徹底的に洗い直そう。
 そうこうしている内に夢中になっていたらしい。
「……さ原……い、笠原!」
「えっ? あ、はいっ」
 何かが聞こえた気がして顔をあげた途端、間近に堂上の姿があって資料が耳障りな音を立てた。
「な、なっ」
「のめり込むのは結構だが、一体いつまでやってくつもりなんだ。もうそろそろ二時間越えるぞ」
「嘘っ!?」
 言われて辺りを見渡せば事務室に残っているのは自分と堂上の二人だけだ。
 時間を意識したと同時に盛大におなかが鳴る。
「体も限界だって言ってるぞ」
 ふっと笑われ顔が赤くなる。
「こ、こういうのは、聞こえないふりをするのが常識じゃないですか。女の子の恥をいちいち指摘するなんて意地悪い」
 これで、近さにどぎまぎしているのが紛れてくれればという計算で不自然に声が大きくなってしまったのを、堂上は気が付かなかったのか気付いていて指摘しないでいてくれたのか。
「お前にも女の子なんて部分があったのか」
「あるに決まってんじゃないですか。人のこと何だと思って」
 良かった、気付いていないみたいだ。
「あぁそうだったな。断りきれずに宅配便するくらいだしな」
 今朝のやり取りを思い出したのか、ふいに堂上が真顔になった。
 見つめられ、治まった鼓動が更に跳ねる。
「あいつらは誰からも受け取る気がないようだし、お前が負担なら俺が禁止したと断ってしまえ」
「でもそんな事まで教官がどうこうって名前出しちゃったら、なに言われるかわからないじゃないですか」
「それでお前が自主居残りってのも割が合わんだろうが。休める時に休むのも大事な業務だ、充分、上司権限で断る口実にできる」
 そう言いながら堂上は郁が広げっぱなしにしていた昔の資料をまとめ、さっさとキャビネットにしまってしまった。
 つられて帰る支度をして、はじめて気が付く。
 もしかして教官、あたしに付き合って残っていてくれた?
 都合のいい考えが払っても払っても浮かび、心臓はいつまでも鎮まってくれそうにない。
 無理やりっぽい口実まで考えてくれたのも、部下のあたしを認めてくれているからとか。
 だったら──
「大丈夫です」
 セリフが口から出てから、やっと自然に笑う事が出来た。
「どうせ明後日までだし、好きな人にチョコを渡したいって気持ちは分かりますもん」
「……ならいい」
 たとえ自分は渡せなくても、あたしは部下として役に立つことが出来る。
 その特権をもてない女の子達の気持ちを取り次ぐくらい、あたしに出来るならせめてしてあげたい。
 明日からは面倒くさがらず、羨まず、受け取ってあげられる。
「じゃあ、お疲れ様でした」
 何となく流れで一緒に更衣室の前まで来て、さてコート取って早く食堂に行こうかと踵を返した背に投げかけられた声で脚が止まった。
「……好きな人、か」
「教官?」
「いや、何でもない」
 顔を向けてくれないところをみると、聞かせるつもりがなかった言葉だったらしい。
 そのまま男子更衣室に入ってしまう堂上の背中に何かが込み上げた。
 自分のロッカーに走って財布を掴む。
 一番近い自販機は?
 目測百メートル。往復? んなもん余裕!
「どうした、お前」
「お疲れ様です、の差し入れですっ」
 コートを羽織って出て来た堂上は、ついさっきまで普通に話していた部下が息を荒げているのをみて怯んだように仰け反った。
「差し入れ?」
「はいっ」
 まだ熱いほどの缶を差し出すと、一瞬躊躇って、それでも受け取ってくれる。
「ココアか」
「疲れた時は甘いモノがいいんですって。それに今日寒いからっ」
「……そうか」
 やばい、必死過ぎた?
 堂上がココアを飲んでいるところなんて見たことない。あっさりしたやつなら好きだと言っていたけど、ココアはしっかり甘い部類だ。
 頼むから、ココアが何から出来ているのか、とかどうか気付かないで。
「ありがたく頂いておく」
 あぁ、と内心で溜息をついた。
 これくらいの気持ちは受け取って貰えた。
 まだストレートにチョコを渡せなくても、今はこれで充分だ。
「さっさと荷物取って来い。帰るぞ」
「はい」
 待ってくれている、それだけで嬉しくて敬礼を返した。

あとがき

お互いが片思い……万歳!!
いまあたしの妄想中枢・超スイーツ!!
飲むのがもったいなくて、冷めきったココアをまじまじ見ながら
「あいつ、これがチョコの一種だって……そんなわけないか」
とか何とかもやもやしてる教官も万歳!!