甘い一日はスイートとマーブルに少しのビター



 アラームの音を耳が捉え、郁は布団から手だけを伸ばし、頭上を探った。
 探り当てた携帯電話のどこか、半分適当だったが押したボタンは当たりだったらしい。機械音がぷつりと途切れる。
 一日の始まりから幸先のいい調子に小さな嬉しさが浮かんでくる。どんな小さな事でもラッキーはラッキーだ。
 アラームが鳴ってから止める事は、実はあまり機会がない。
 長い寮生活の名残で起きるべき時間には勝手に目が覚めるのが癖になっていて、鳴り出す数分前には解除してしまっているからだ。
 それでも万が一があっては大変と、最短準備で何とか遅刻しない時間には毎日自動的にセットされるよう設定はしていたが、これも最近は意味がなくなりつつなっている。
「なんだ、切ってなかったのか」
 不満げな声に顔を向ければ、普段は自分より早起きの夫が枕に半分埋まった中で瞬きを繰り返していた。
 アラームが不要になっている理由、それは今は常に隣にいる存在だ。
 結婚して、一緒に住むようになって、こんな顔も見られるようになった。
 今度は大きな喜びがじわりと体を巡る。やっぱり今日はいい日になりそうだ。
「寝る前に切るの忘れちゃった。昨日遅かったし、篤さんはまだ寝てて」
 昨日とは便宜上の表現だ。正確にはもう日が変わっていたから、一眠りする前。
 翌日がバレンタインデーで公休日で、誰憚ることなく夫婦の時間を楽しんでいたら、眠りに落ちるのが遅くなった。
 公然と寝坊すると決めた日の前の晩は、寝る前にアラームを解除しておくのが自然と生まれたルールだったけれど、それすらも忘れてしまうほど寝落ちぎりぎりまで遅くなるくらいに。
 遅かった理由は明るい中で思い出すのが少々ためらわれるもので、気恥ずかしさが浮かんでくる前に大袈裟なくらい伸びをする。
「んー……あたしはお腹すいたから先に起きてるね」
 意識して出した明るい声にゆるゆるとマットレスが揺れた。
 笑いたければ笑え、笑い飛ばしてもらう為に言ったんだから。
「何よ、どうせ色気がないとか思ってんでしょ」
 本気でそう思っての言葉じゃない。
 ただ、気恥ずかしさが本格的な照れになる前に、誤魔化そうとしただけなのに。
 伸びて、がら空きの腰を引き寄せられた。
「え? あっ」
 耳元がぞくりと震えたのは、唇を寄せられたから、らしい。
「色気があるかどうか知りたいなら手伝うぞ」
「きゃっ、ちょ、待っ」
 カーテン越しに差し込む太陽、自分たちは休みとはいえここは図書隊の敷地内にある官舎、なのに囁かれた言葉はひどく甘い。
 日が変わってすぐ渡して、結局一緒に食べたチョコレートよりも、絶対に甘い。
「やっ、あ」
 予想外の反撃に、身を捩って逃げを打つのに回された腕はぴくりとも動かない。
 代わりに耳の裏にキスをされた自分の方がぴくんと跳ねてしまう。
 こんなおふざけ、滅多にする人じゃないのに。嘘でしょ、朝から。いくら夫婦とはいえ。
「あ、篤さ……ん?」
 夜を思い出す唇から必死に逃げようとしてあげた声の語尾にクエスチョンがついて、間なしに理由が分かった。
「か、からかったわね!」
 くっくっと腹筋を震わせている夫の肩を両手で押しのける。
 露わになった顔は紛れもなく笑っていた。
「だってお前、バレバレなのに」
「なにがっ」
「昨日の」
 と、堂上も便宜上表現した夜を切り出して、せっかく広げた隙間を一瞬で詰められた。
「思い出して照れたんだろ。照れ隠しが腹減ったとか、いつまで経ってもそういうとこ変わらないな」
「察したんなら気付かないふりしてくれてもいいじゃない! 意地悪!」
「かわいい態度取るから悪い」
「かっ……!」
 こういうセリフを常日頃口にする人じゃないのに、希に開き直ったように甘くなる。こうなると自分に勝目がないのは経験上、イヤってほど知っている。
 だって好きな人に愛されてるのが丸出しのセリフ言われて、勝てるわけがない。
 じわりとマットレスが沈む。
 言葉に詰まって開いたままの唇に、キスを落とされる。
 すぐに肩に添えたままだった手が無意識のうちに首に回った。
 ほんの少し前に浮かんだ戸惑いの言葉なんて、そのキスで忘れてしまう。
 日が高かろうが、外ではそろそろ勤務に向かう人がいようが、いいじゃない夫婦なんだから。
 まさかそこまで察した筈ない、とは言い切れないタイミングで唇を合わせるだけのキスが深いものに変わる。
 喉を反らして迎えた舌先が自分のものと絡み、腰に回っていたうちの片手が裾を割る音に背がくねる。
 今日はバレンタインデーなんだから、とことん甘く浸るのだって大目に見て貰えるだろう。誰にかは知らないけど。
 さすがに本命はない、と思うけれど義理だっていつどこで受け取るか分からない。休みだからって油断はできない。
 一番はじめのは自分のを食べて欲しくて、日が変わったと同時に渡したチョコレート。せっかくだからお前も一口と出されたのを、自分があげたチョコをとか、こんな時間に食べたら吹き出物がなんて攻防も傍目からはきっとバカップル丸出しで、雰囲気を盛り上げる要因になって。その時からもう、今日はこうなっておかしくなかったのかもしれない。
 どちらのものか分からない吐息が漏れた。
 これからというその時、無機質な音が二人の動きを止めた。
「……あたしの携帯」
「アラームは切ったんだろ? じゃあ」
「でもメールだし」
 誰に聞かれるわけでもないのに、悪巧みをしている時のように声を潜めたやり取りになる。
 これが着信なら何かあったのかと一瞬で切り替えるけれど、聞こえたのは確かにメールの着信音だった。
 どちらからともなくしばらく耳をそばだて、そしてやっぱりどちらからともなくキスを再開し……かけたところで今度は違う音が割り込んできた。
「俺の携帯だ」
 しかも着信。
 視線が絡んだのは束の間で、次の瞬間には勤務中の顔と同じ表情で堂上が頭上の携帯を素早く掴む。
「手塚か、おはよう。……いや、起きてた。何が……え? あぁそれは問題ないが」
 電話のむこうは手塚だと堂上が言うまでもなく、ほとんどゼロの距離から漏れ聞こえる声で把握できたが内容までは分からない。
 ちらちらとこちらに視線を往復させながら何事か話している間に、なんとなく乱れた裾を直し身を起こす。
 ついでにとメールを確認していると、郁、と呼ばれた。
「手塚が相談したい事があるらしい。昼前でよければと返事したが構わなかったか。うちに呼んだが」
「うん、構わないっていうか、たぶん相談ってのもなんとなく分かった」
「どういうことだ?」
「それよりも早く片付けなきゃ、あー、シャワーも浴びなきゃ、それに朝ごはん」
 メールの相手は柴崎、今は手塚となった相手で、夫側の手塚への愚痴とものろけともつかない文面にまずは相談とやらを聞いてからと話しを畳んだ。





「すみません、休みの日にこんな急に」
「いいよ、気にしないで」
「インスタントで悪いが」
「そんな……いただきます」
 上背を縮こませて恐縮する手塚にコーヒーを差し出したのは夫の方の堂上で、郁は頬杖をついた中から言葉とは裏腹の表情を向けた。
 おおっぴらに不満を言い聞かせられないのはこちらの都合だが、これくらい態度に出してしまうのは仕方ない。
 あれから大急ぎで出迎える準備を整える間に、甘い雰囲気は綺麗さっぱり消えてしまったのだから。
 はじめ手塚はどこか外でと提案したらしいが、同じ官舎に住んでいてわざわざ基地の外に行くのは無駄足もいいところだ、せっかくだからうちでと返した堂上を強く拒めなかったのは、相談事に人目を気にしたくなかったからだろう。
 上官に輪をかけて真面目な手塚が、公休日の上官にほぼアポなしと言っていい突撃をかますくらい切羽詰っているのだとしたら、真剣に向き合わなくては。
 二つのマグを持った堂上が椅子に座ると、何拍かためらった手塚がまっすぐに見つめたのは郁の方だ。
「友人として柴崎のこと一番理解しているのは笠原だ。だからち茶化したら本気で怒るぞ」
 不本意であろう内容をぽつりぽつりと話しはじめた手塚を、時折、相槌を挟みながら耳を傾ける。
 話しはじめたからには最後まで一気に通さないといたたまれないのか、ほとんど途切れることなく手塚は相談とものろけともつかない中身をさらけ出した。
「起きたらテーブルにチョコがあったから、てっきりそういう事かと思って」
 手塚夫妻は結婚してはじめてのバレンタインデーだ。目が覚めて、はじめに目についたチョコイコール自分へと思ってもそれはおかしくない。
 ただし、それがどこにでも売っている板チョコでなければだが。
「麻子は」
 もう隊での公称から普段の呼び名に戻っている事に気づいていないあたり、手塚の途方に暮れ具合が透けて見える。
「普段からあまりイベントにこだわらないし、そういうものかと」
 だからきちんと礼を言ったのだという。板チョコに、ありがとうと。
 それを聞いた柴崎は一言、それでいいならそれでと言い残し出勤してしまったという。
「怒らせたってのは分かったけど、にしては様子がいつもと違うというか、あいつらしくないというか」
「まぁ、そういう時を逃さずうまい交渉するのが柴崎よね」
「だよな。だからおかしいと思ってあれこれ考えたんだけど」
 思い至らず、いてもたってもいられず、ためらったものの気づけば堂上に電話をかけてしまった、と。
 堂上が口を挟まないのは、手塚が本当に相談したい相手が郁の方だと分かっているからだろう。静かにコーヒーを飲んでいる。
「出発点が間違ってんじゃないの?」
「出発点?」
「怒ってるってとこ」
「でもあの態度はどう考えても怒ってるものだったぞ」
「って思い込んでるから話しが進まないんじゃん。確かに友達としての柴崎は知ってるけど、あんたそうじゃないでしょ」
 出来のいい手塚に似合わず、察しが悪い。
「あたしが知ってるのは友達の柴崎なの。彼女とか妻としての柴崎を一番知ってるのは手塚じゃない」
 だから自分で考えるべきだ。糸口は見せたのだし。
 怒っているわけじゃない。柴崎はメールではっきりとは示さなかったけれど、悲しんでいた。
 このあたしが手作りしてあげようと思ったのに、そのまんまの板チョコ程度で満足するなんて信じられない! と憤慨する文面の裏は、その程度に気持ちを見積もられたのかとへこんでいたのに違いない。
 柴崎語はいつだって素直じゃないんだから。
 相談を突き放したつもりがない事は手塚も分かったのか、しばらくあれこれと話しをして、結局はさほど時間も取らずに帰って行った。
「納得、したのかあれで」
「いいんだよ、あれで」
 手塚の分も昼食を用意するつもりだった堂上が材料を手早く減らしながらの問いに、さらりと答える。
「なんだかんだで二人とも浮かれてんだってば。じゃなきゃ柴崎が板チョコしまい忘れるわけないもん」
「確かに柴崎らしくないな」
「材料出したはいいものの先に手順再確認、にしたって普段の柴崎ならきっちり隠してただろうし。手塚も内心楽しみにしてたからチョコの価値なんて飛んじゃったんでしょ」
 幸先のいい一日を半分潰してまで、犬も食わないのに付き合ったんだからあれでもお釣りが出る。
「朴念仁さまで上官に似なくてもいいのにねー」
「おい、それ俺の事か」
 テーブルに突っ伏した頭をこつんと小突かれる。
 朝からいちゃいちゃ出来るせっかくの休みでバレンタインだったのに。
 手塚も友達だけど、柴崎は大事だけど、でも。
 あたしってこんなに心狭かったっけ?
 ちょっと大人げなかったかも、と自己嫌悪に陥りそうになったところで、当てられていたままの拳がゆっくり開いて頭を撫でられた。
「汚名返上といくか」
 え? とあげた顔にキスをされる。
「夫婦の問題、っていうか今回は問題でもなかったようだけどな、結局は自分たちで解決しないといけないとは俺も思う。だから自分から聞いといて何だが郁の対応で良かったんだ。手塚も満足して帰ったことだしな」
 屈んだ堂上の瞳が僅かに細められる。
 そのまま手を引かれた。
 堂上の向かう先には寝室がある。
 甘い一日はまだ続くのが分かった。

あとがき

バレンタインだし、とことん甘くしてやろうぜ!
なんて思っていたら、とんだ偽物教官と嘘っぱち手塚に
なってしまいました。

いちゃいちゃ話書けたからいいもん
いちゃいちゃが過ぎたら申し訳ない