二つのベクトルの気まずさ



 春は何かと仕事が増える。
 単純に年度が変わるせいもあるが、春休み中に借りていった学生が新学年前に慌てて返却に来るのが一番大きい理由かもしれない。
 書庫業務のメインはリクエストに合わせての出納と返却図書の配架だが、昨日書庫を担当した班は配架にまで手が回らなかったらしい。
「まずは仮置き棚を開けなきゃどうしようもないな、これは」
「だね。昨日の担当はこのままだと翌日どうなるかって考えなかったみたいだね」
 小牧の言葉ももっともで、仮という言葉の意味をなさない程ぎっしり詰まった仮置き棚を前に、堂上は少々うんざりした気分で腕を組んだ。
 多少残業になろうがきっちりやっていけ、とは思うものの現実問題、目の前にはいま片づけなければならない本が積まれている。
「ワゴンいくつ必要だ?」
「もう一つどころじゃ足りないかもな。あ、笠原さん」
 そこへちょうどリクエストから戻ってきた郁を小牧が呼びとめる。と、郁は「はいっ」と歯切れのいい返事をしながらもう踵を返しはじめていた。
「あたしワゴン持ってきますねっ」
 利用者がいない事をこれ幸いと、全力で走り始めた郁の背中があっという間に遠くなる。
「さすがの速さだね」
 目を瞠る小牧に対し、続けて訊ねられた言葉にこっちの眉間にはしわが寄った。
「あれは張り切ってるのと逃げてるの、どっち?」
「……どっちもだろ」
 くすくす笑う小牧に嫌な顔を向けると、笑いは更に大きくなる。
「だってもう痛みはないんだろ? まさかそのこと教えてあげてないの」
「どうでもいいだろその事は。あいつの気まずさを斟酌してもらう必要なんかない。いいからさっさとはじめるぞ」
 この話題は出されるだけで不利だ。さっさと畳むに限る。
 ワゴンが来る前に少しでも減らしておこうと、近場の分類から何冊か取り出したところで再び小牧のツボがやって来た。
「堂上二正、俺やります」
 こちらもリクエストから戻ってきた手塚が、言いながら堂上の抱えた本を奪ってしまう。
「余計なお世話かもしれませんが、あまり肩に負担かけない方がいいですよ」
「……いや、別にこれくらい」
「あの、小牧二正はどうされたんですか?」
「いつもの上戸だ気にするな!」
「はぁ」
 気にしつつ配架に行った手塚の前ではさすがに出来なかった溜息を吐き、せめてもと分類ごとに簡単に仕分けはじめた。
 また自分で運ぼうとすれば余計に手塚に気を遣わせる。例えそれが実は嘘だとしでも。
 小牧がついに爆笑に入ったのも面白くない。
「いやもぅ、ほんと、うちの班の部下は、生真面目というか何というか」
 笑う合間に脱衣所でのセリフを反すうしている小牧に何か言い返したくなったが、ここで言葉を継いでしまったら小牧の思うツボだ。
 聞こえない振りをしてさっさと終わらすに限る。
 ……あぁ本当に余計な世話だ。
 苦々しい気持ちをぶつける相手がいないのも忌々しい。
 手塚は手塚なりに昨日気付いた上官の負傷を気遣っているのだし、郁は郁で関係が進んだのを意識しまくって一人ぎくしゃくとしているだけだ。
 どちらのせいでもない。
 それを言うなら俺のせいでもないだろうが。
 腹立ちまぎれに腹を抱えている小牧を突くと、そこが肩だったせいか小牧の喉がぐっと鳴った。
 しまったと思うがもう遅い。
「わ、悪い、でも笑うなって方が、無理」
「にしても笑い過ぎだろ!」
「だってさ、もー微笑ましくて微笑ましくて」
「それが微笑ましいって笑いかよ」
 微笑ましいで目尻に涙を溜めるまで笑うなんて聞いたことがない。
 今度は遠慮なしに肩をどついた。
 なんで三十超えて恋愛関係でここまで笑われなきゃいけない。
 手塚にそう思わせたのは自分だが、まさか真正面から指摘されるなど想像していなかったのだから咄嗟にうまく誤魔化しも出来なかった。
 かといって、まさか理由を話すわけにもいかなかったのだから、もっと遠慮してしかるべきだろうが。
「キスマークついてたら、真顔で虫刺されの心配してきそうだよね、手塚って」
「アホかっ」
 露骨なセリフにぎょっとする。
 さすがに声を潜めてはいるものの、二人の耳に入ったらと考えるだけで恐ろしい。
 もっと恐ろしいのは、あながち見当外れの予想とは言い切れないあたりだ。
「あの、本当に小牧二正はどうされたんですか?」
 笑い声に紛れていつ戻ったのか足音が聞こえなかった手塚の声が、背後から恐る恐るかけられた。
 さすがに手塚は有能だ。こんなことなら遠い棚の分類の本を山ほど持たせてやれば良かった。
「なんでもない」
「うん、ほんと、ちょっとね思い出し笑い」
 怪訝そうに視線を往復させている手塚からさりげなく顔を外す。
 気まずさで赤くなっているだろう顔なんて、部下に見せられるはずもない。
 遠くから近づいてくるキャスターの転がる音に軽くこめかみを押さえて、郁が着くまでに小牧の笑いが治まることを祈ることしか出来なかった。

あとがき

小牧教官、笑い過ぎ。
手塚、空気読めなさ過ぎ。
郁、かわい過ぎ。
堂上教官、照れ過ぎ。
猫百匹、妄想し過ぎ。