不自然な甘さは必要なくても


「すず?」
 柔らかく響く声に振り向くと、いつからそこにいたのだろう……同居人で、いまは恋人でもある人が穏やかに微笑んでいた。
「お疲れ様」
 捲くっていた袖を戻しながら、何気ない一言に顔が緩むのを感じる。
「ありがとう、依織くん」
「どういたしまして、と言いたい所だけど、感謝してるのは僕と……この家の住人の方だから」
「そんな」
「すずが居なかったら……」
 言いかけながら、本当に自然な仕草で頭を撫でられる。
 ゆっくりと髪の一本一本をなぞる手から、体中にあたたかい気持ちが染みこんでいく。
「毎日ありがとう。無理してないかい? 手伝える事があったら遠慮なく言うんだよ」
「ううん、大丈夫っ」
 こうして依織くんが気遣ってくれるし、支えてくれるもん。
 と、続けそうになった言葉をのみこんだのは、ちょっと恥ずかしかったから。
 家政婦として一哉くんに雇われたお陰で、悲しい事件は解決してお姉ちゃんにも会えたし、それに今こうして大好きな人と一緒にいられるのに、なんだか甘えてるみたいじゃない。
「……すず」
 考え込みそうになる頭に、彼だけが使う、あたしの呼び名がじんわりと響いた。
「なに?」
「いや、なんでもないよ……それより仕事はこれで終わりかな」
「みんなに頼まれてた分は終わったけど、まだお仕事時間中だし、せっかくだからリビングの掃除でもしようかなって思ってたところだよ」
「そう」
 あれ?
 ほんの一瞬、依織くんの眼に影が差したと思ったんだけど……。
 向かい合って、あたしに向けられた瞳は、いつも通り優しくあたしに微笑みかけていた。
「悪いけど、一つ追加でお願いしてもいいかな」
 気のせい、だったみたい。
「うんっ、もちろんだよ。リビングの掃除は後でもできるから」
「じゃあ……」
 忘れないようにメモを取る必要なんてない。
 依織くんのお願いなら、なにより優先する大事なこと、絶対に忘れないことだから。
「すぐに用意するね!」
「部屋で待ってるよ」
 軽く手を振る依織くんが、嬉しそうに微笑んでくれた。
 一哉くんは、よくあたしのこと“単純だ”って言う。
 あたしはその度に軽くムッとしておもわず言い返すけど、依織くんが喜んでくれるならって思うだけで、こんなにも幸せな気分になるあたり……やっぱり単純なのかもしれない。





 沸かしたてのお湯が入ったポットが倒れないよう、精一杯気をつけてトレイを持ち直していると、静かにドアが開いた。
「すず、待ってたよ。急に頼んで悪かったね」
「ノックもしてないのに、どうしてわかったの!?」
「ふふ、僕の心はすずの気配をいつも求めているから」
 赤面しちゃうセリフを、さりげなく言えるあたりが依織くんらしいというか、なんというか。
「さあ、どうぞ」
 何も言わずにトレイを持ち上げて、視線一つでテーブルへ招く仕草も、大人の余裕を漂わせていて“敵わないなぁ”って思っちゃう。
 あたしも二十歳になったら、こんな風になれるのかな?
 どうしたって埋まらないとわかっているのに、年の差をひしひし感じて気持ちが沈みそうになる。
 カチャリと音をたてたカップにハッと顔をあげると、まっすぐにあたしを見つめる視線が少し細められて、踊るような優雅さで手を差し伸べられた。
「お姫さま、夜のお茶会に付き合ってくださいますか?」
 沸かしたてのお湯、ティーポット一つ、そしてカップを二つ……そう頼まれた瞬間に心の奥で期待していたとおりになった。
 これで仕事してるといっていいのかな? という気持ちが頭を掠めるけど、気がつけば、あたしの手は依織くんの手に重ねられていた。





「この間、偶然みつけてね。すずに薦めようと買っておいたんだ。……さあ、どうぞ」
「いただきまーす…………おいしいっ!」
 一口含んで、喉を通り抜けたとたんに口が開いていた。
「気に入ってもらえたなら嬉しいよ」
「不思議……お砂糖いれてないのに、ほんのり甘い」
 紅と呼ぶには薄く、茶と呼ぶには鮮やかすぎる、どこまでも澄んだ飲み物が感嘆のため息で揺れる。
「葡萄の甘さだよ。シェルパティーといって、登山の案内役、シェルパがはじめた飲み方だといわれているんだ」
「へぇー、依織くん物知りだね」
 シェルパ、か。
 白く立ちのぼる湯気の合間に見え隠れする様子は、遮る物のない山頂から見る夕焼けみたい。
「紅茶が好きだから自然と覚えただけだよ。それより、冷めないうちにどうぞ。あぁ、火傷には気をつけて」
「うんっ」
 ふわりと漂う香りを吸い込んで、熱い甘さを味わうと、体の芯からあったまっていくみたい。
 疲れた身体の隅々まで行き渡って、強張っていたのがゆっくり解けていく。
 こんなに美味しい飲み物、はじめて。
 そう感じるのは味だけじゃなくて、大好きな人と向かい合って飲んでいるから、なのかもしれない。
 依織くんは、すごいや。
 たった一杯のお茶で、あたしを癒せるんだもん。
 ただでさえさりげなく掛けてくれる言葉や、なにげない仕草に、いつも助けてもらってるのに。
 隣にいてくれるだけで……。


 あたしは、彼にとってそういう存在になれているんだろうか?


 ふと浮かんだ考えに、手がとまる。
 つい甘えちゃうのを、子供っぽいと思われていたらどうしよう。
 気持ちが傾きそうになった時は慌てて我慢するけど……、全部お見通しなんじゃないかって不安になっちゃう。
 年の差は永遠に縮まらなくても、せめて心は追いつきたい。
 あたしが思っているのと同じくらい、依織くんにとって大切な存在になりたい。
 ……ううん、絶対になってみせる。
「ねえ、すず」
「えっ?」
 唐突に掛けられた声に、半ば残っている紅茶の中のあたしが、みっともなく崩れた。
「な、なに依織くん」
「そんなに難しい顔をして飲んで欲しくて、誘ったわけではないよ」
「うっ、あたし……そういう顔してた、かな?」
「そう、すずはすぐ顔に出るから……僕の前では曇りなく笑っていて欲しいのに、そんなに無理な相談かな?」
 音もなくカップを戻して、少し寂しそうな顔で微笑まれる。
「なんでも自分で解決しようとする姿勢は、素敵だと思う。けれど、僕はすずが思うほど大人じゃない」
 ふと、湯気の向こうの瞳が影をさして伏せられた。
 あ、やっぱり。
 さっき……掃除が終わった後……会話の途中で感じたのは間違いじゃなかった。
「つらい時は分かち合いたいし、頼って欲しいと……恋人として甘えて欲しいと、願う気持ちを抑えられない」
「願う……?」
「寂しいとさえ感じるよ」
「そんな」
 あたしが無理してたのは、まるっきり見当違いだったの!?
 あたしが頑張れば頑張るほど、依織くんは寂しかったなんて。
 一番大事な人にここまで言わせるなんて、なにやってんだろ、あたし。
 自分がどう思われたいかだけしか考えてなくて、依織くんがどう感じてるのか、全然考えてなくて、わかってなかった。
「……やっぱり、あたし子供だね」
「悪いことじゃないさ。背伸びして欲しいとも思わない。ありのままのすずが好きなんだから」
「ありがと……あたしも依織くんが、好き」
 そっか、ありのままでいいんだ。
 頼まれた仕事とはいえ、こうして依織くんと2人だけでお茶をしてるのを喜んでもいいんだ。
「あっ」
 閃光のように浮かんだ考えに、おもわず大きな声が出た。
「ね、依織くん。もしかして紅茶を飲みたいから準備して欲しいって……ほんとはあたしを休ませよう……とか、思って?」
 口が動くほど図々しいんじゃないかって考えに、少しずつ声が小さくなっていく。
「ふふ」
 冷めてしまった紅茶からはもう、湯気が立ちのぼっていなくて……二人の間には遮るものがなかった。
 穏やかに微笑む依織くんの瞳にも、曇りはない。
「あの、もう一杯いただいちゃってもいい?」
 甘えてもいいんだよね?
 もっと依織くんと一緒にいたいから、この時間を延ばしてってお願いしても……いいんだよね。
「もちろん、喜んで」
 はっきりと肯定されてるんじゃないけど、それが正しいんだと本能で悟る。
 注がれる甘さに芯からほぐされて、やっぱり敵わないなぁなんて思いながら、カップの白さを通した紅色に映った自分へ微笑を返した。

(拍手公開時の)プチあとがき…甘えて欲しいと、甘える気持ち

追加あとがき

猫百匹を甘やかしてくれるのは友人:ムギムギ
彼女の家に遊びに行ったときシェルパティーをご馳走になり、瞬間的に浮かんだ話

表面に出さなくても、猫百匹はこういう妄想を常にしている人間なのです
危険だ!