雇い主の責任


「依織くん、今日は? …………うん、わかった。じゃあ、軽いお夜食用意しとくね。麻生くんは? …………オッケー!」
 ようやくやってきた春の日差しが柔らかく室内に降り注ぐ中、それぞれが予定を告げる。
 いつからか当たり前になってしまった毎朝の習慣が、もうすぐ終わるとは信じられないほどいつも通りで、経済誌に目を通しながらなんとなく会話に耳を傾けていた。
 拾うのは、あいつの声ばかりだが。
 弾むように飛び出す言葉が耳の奥で跳ね、心の底に落ちていく。
 結論は出したというのに、この光景がもうすぐ消えてしまうと考えると、気持ちが揺らぐ。
 こんな気持ちも、卒業シーズンならではの感傷だと切り捨ててしまえれば、どれだけ気が楽だろう。
 そうもいかないから、こうして態度と気持ちのギャップを抱えたまま、足掻きもがいている。
「二人ともいってらっしゃーい! 引っ越しの準備まだ終わってないんだから、あまり遅くなっちゃダメだよー」
 松川さんが卒業を期にここを出ると告げた日から、幾日もしないうちに羽倉も出ると言ってきた。


 ──そして……意外にも一宮まで。


 家を出るだけならまだしも、留学するとはな。
 一宮らしい突飛さだ。
「瀬伊くん、待って……逃げないのっ。今日こそ引っ越し準備はじめるよ、あと一週間しかないんだから。…………えぇーじゃなくて! あたしも手伝うから。あっ……もうっ」
出て行く背中にぶつぶつぼやく声が次第に小さくなり、かわりに食器が震える音が響いた。
「……鈴原」
「また逃げられちゃった。あ、これ? えへへ、やっぱ一気に運ぶのは無理みたい。ワゴン持ってこなきゃ……」
 それで平静を装っているつもりか?
 消えていく3人はどうでもいいと思うほど、ただ一人おまえがいればそれでいいと思うほど、ずっと見てきた俺の目をそんな愛想笑いごときで誤魔化せるか、馬ー鹿。
「食器を片付けたら俺の部屋に来い。話がある」
「話? って今じゃダメなの」
「あぁ。ついでにコーヒーも頼む」
「……う、うん。わかった」
 首を傾げながらも、持てるだけの食器を手にキッチンへ向かう背中を、自然と視線が追いかける。自虐の笑みで口元を歪めながら静かに雑誌を置いた。
 ここで話しても、かまわない内容だった。
 むしろ一秒でも早く言った方が、あいつを喜ばせてやれるとわかっているのに。
 食器を片付けるのが、遅ければ遅いほど良いと思ってしまう気持ちに縋りつくような真似をして、俺らしくもない。
 ここまで影響を与える存在に出会うのは、おそらく最初で最後だろう。
 ……卒業、か。





「おまたせ! はい、コーヒー。いつものブラックだよ」
 住人の好みを全て把握している優秀な家政婦は、慣れた手つきで書類を寄せカップを置く。
 こんな些細なことも、いつか懐かしく思い出せるようになるのだろうか?
 いまは……ふわりと香るいつもと同じはずのコーヒーが、酷く苦く感じるとすらいうのに。
「それで、話って何?」
 見当もつかないという顔で盆を抱える鈴原を直視できず、寄せられた中から適当な書類を取り上げ文字を追うふりをした。
 苦味が増して舌を刺激される。
「一哉くん?」
 強張る舌をなだめ決定的な一言を、こいつを自由にしてやる……そして失う一言を唇に乗せる。
「クビだ」
「……は?」
「聞こえなかったか? クビにすると言ったんだ。なんども言わせるな」
 まったく、どこまで鈍いんだ、おまえは。
 たった二文字を口にするだけで、心の中に暗雲が立ち込めるんだぜ?
 留学すると決めた一宮と、どんな話し合いが行われたのかわからなくとも、鈴原の不自然な態度から望むような結果ではなかったことくらい、用意に察しられた。
 日に日に落ち着きを失っていくおまえを、俺がどんな気持ちで見ていたのか、馬鹿なおまえは想像すらできないだろ。
「急に何でっ!?」
 戸惑いと疑問と、かすかな怒りを滲ませて声を荒げられても、視線を向けようとは思わなかった。
 人と会話するのに相手を見ないなんて……叩き込まれたマナーに照らし合わせれば無作法の極致だ。
 それでも……、消しても押し込めても、目に浮かんでいるだろう感情を覗かれるよりはマシだぜ。
「あたし、クビにされるような失敗してないじゃない!」
 失敗……か。
 失敗したのは、俺の方だ。
 鈴原の気持ちが誰に向けられているのか判っていながらも、一宮と付き合いだしたと知らされてからも、心からおまえの存在を締め出せなかった俺の。
 御堂グループ次期総帥として望めば何でも手に入ってきたのに、御堂一哉というただの男が望んだものは永遠に手に入らないとは皮肉な話だ。
「理由は!? ねぇ、ちゃんと説明して! じゃないと納得できない」
「……理由?」
 言えば、おまえは俺を選ぶのか?
 留学する一宮を追いかけたいと、離れたくないと夜中に声を押し殺して泣くおまえが、あいつと別れて俺を好きになる可能性ができるのか?
「ふっ」
 思わず漏れた苦笑が、覗き込んだコーヒーに波紋を立てる。
 何度も考えて出した結論だ。
 姉の失踪を解決するきっかけを作った俺に対する恩と、自分の気持ちとで板ばさみになっているのを知りつつ、このまま何も手を打たなければそのままの関係を保てるんじゃないか……そんな浅ましい考えを何度も振り払ってな。
 その度に思い知らされる苦痛を、少しは理解しろよ。
 例え引き止めたとしても、おまえの中では雇い主と家政婦という関係が変わることはないと、残酷なまでに思い知らされる辛さをな。
「……いまさら、言ったところで何になる」
「そんなっ、横暴だよ」
「雇い主が決めたんだ。一週間以内には荷物をまとめろよ。実家に戻るなり、行きたいとこに行くなり好きにしろ」
「一週間……行きたいとこ…………それって」
「話はそれだけだ。仕事をするから出て行ってくれ」
「あ、でもっ! あたしは」
「行け」
 どこか呆然と、まだ事態を飲み込めていない顔で喋る鈴原を遮り、書類を放り投げる。
 やけに大きく響いた音に肩を震わせるのが、視線の端に映った。
「わかった……。だったら! 一週間で一哉くんに整理整頓を教え込むから」
「馬ー鹿。余計なお世話だ」
 本当に、おまえは最後まで家政婦でしかないんだな。
 閉まったドアの向こうで、駆け出す足音がどこに向かうのか考えなくとも判る。
 少し冷めたコーヒーを飲み干すと、染みる苦々しさに顔をしかめた。

(拍手公開時の)プチあとがき・・・リストラする側も辛いんです

追加あとがき

プチがきだと、まるで猫百匹もリストラする側みたいですが
もちろんそんな事はありません
月給35万も(一哉にとってはお小遣い程度だろうけど)払って
好きな子が別の男のものになる過程を見せ付けられて
イチャつかれる度に眉間に皺がふえ、喧嘩する度に頭を抱え
リストラする辛さまで味わうなんて……一哉ドM?