甘い音
「この俺が……」 そこでふいに言葉が途切れた。 間の効果を熟知している、そんな沈黙に、次はなにが訪れるのか身構えて全身が強張る。 ごくりと喉を鳴らすと、そのタイミングを待っていたかのように口を開く気配がした。 「スケジュールの合間を縫って電話一本かける、それがどれだけ貴重か、わかってるんだろうな。うん?」 案の定、心底呆れたと言いたげなため息のあと、静かな怒りがちりちりと肌を焼くほどに伝わってくる。 わかってないだろう? と、滲ませる声に言い訳を用意していた頭は竦んで、固まってしまう。 「それは、その、悪かったなー……と」 精一杯の謝罪を鼻で笑う音が、携帯電話を通して耳に突き刺さった。 「だったらなんで、前もって終わらせてないんだよ」 ごもっとものセリフだ。 海外出張中、離れている間の十数分の会話、それを一哉くんも楽しみにしてくれているのは判ってる。 なのに『今日は電話してる暇ない』なんてメール一通で片付けようとしたあたしに、腹を立てるのは当然だ。 あたしにはあたしの、切羽詰った理由があって、きちんとメールの続きで説明していたとしても、だ。 「馬鹿は馬鹿なりに努力しないからこうなる」 「なっ……あたしだって努力はしてるよ!」 でも、もとが低い位置からのスタートだから、大変なんじゃないの。 それを一哉くんも知っているのに、恥を忍んで告げた理由を鼻であしらわれてカッとなった。 「でも間に合いそうにないから、今日はそっちに集中したいってお願いじゃない!」 「結果がでない努力は、徒労に過ぎないな」 「そこまで言うことないじゃん! 天才の一哉くんにはわからないだろうけどね、凡人のあたしはいっぱいいっぱいなの!」 半分以上空白の宿題を前に、情けなくも盛大な逆ギレをして……海の向こうで呆然とする彼の気配に少し泣きたくなった。 「……で? なにが終わってないんだ」 「ドイツ語と……フランス語」 これ以上、あたしを馬鹿にしても意味がないと悟ったのか、もしくはもう呆れはてて馬鹿にする言葉も出ないのか、わずかな沈黙のあと気を取り直したように聞かれて素直に答えた。 「どうせ和訳だろう? 辞書があれば楽勝のはずだぜ」 「単語の意味が解ったって、文法が理解できなきゃ文章にできないんだもん」 また沈黙。 心の中で、なにが理解できないのか、理解に苦しむと思っているのがありありと伝わってくる。 生まれた時から英才教育を受けて、それをこなすだけの能力があった一哉くんには、どうせ解らないよ。 あたしはあの事件がなきゃ、平凡な人生を送る予定だったんだもの。 まさか全国でもトップクラスのおぼっちゃまお嬢様が集まる有名校に編入して、編入する機会を作ってくれた人と付き合うことになって、その人は全国一有名な高校生実業家、だなんて人生は想定していなかった。 一哉くんにとっては当たり前の知識でも、外国語といえば英語がせいぜいという一般教育しか受けていないあたしには、毎日の授業に追いつくのが精一杯で、こうして分厚い宿題を出された日にはパニックに陥ってしまう。 「英語だってギリギリなのに、もっと馴染みがないから……仕方ないじゃん。ほんとにこれでも努力してるんだってば」 こういう時に二人の違いをまざまざと思い知らされてちょっとキツイ、なんて思っちゃうのだって一哉くんには理解できないんだろう。 泣き言なんて言いたくないけど、あたしだって一哉くんの電話を楽しみにしてたけど、でも……。 一哉くんより宿題を優先したからって、ここまで不愉快そうにしなくてもいいじゃない。 「……馴染み、ね」 何事か思案しているような雰囲気に、こくりと頷く。 電話じゃ見えないと当たり前のことに気がついて、そう……と返事をしようと思った瞬間、耳に洪水のような外国語が押し寄せてきた。 「な……なに? 早口すぎて何を言ってるのか……」 かろうじて拾った単語とニュアンスで、ドイツ語だろう、というのは解る。 イッヒ、って私……で、えっと……あれ? ディ? ディッヒ? は、あなた……? なにか一哉くんがあたしに向けてなにか言っている、それくらいしか解らない。 「待っ……もっとゆっくり、っていうかいきなり何!?」 あたしの悲鳴にも似た遮りを無視して、落ち着いたテノールは流暢に流れて止まる気配がない。 「……一哉くん? ドイツ語が完璧なのは知ってるけど、さ」 拙いあたしに対する嫌味だろうかと思うほど、なめらかで耳に心地いいドイツ語。 硬いニュアンスを持つドイツ語なのに、なぜか優しく響く声はつい聞き入ってしまうけど、肝心の意味がわからないんじゃ……。 それに、なんでいきなり、こんな……。 首を傾げていると、唐突に異国の言葉が止まった。 「とっさにドイツ語だと、わかるくらいの頭はあったか」 「それくらいは……。でも、なにを言ってるか」 だからその内容を、と続けるはずだったセリフを今度は別のニュアンスが遮った。 「次はフランス語なの!?」 言葉を、一哉くんの意図を理解しようと、回転が追いつかない思考回路を必死に動かす。 弾けるようなフランス語の響き、踊るように上下するイントネーション、世界一美しいといわれる言語が、朗々と何事かを伝えてくる。 ジュ……って、さっきと同じで私、だよね。 えっと……あぁもう! 早すぎて単語も拾えない。 大体、フランス語の文法って文章によってころころ変わるから、ややこしいったら。 一哉くんが意味のない行動をするわけないから、なにか意図があるんだろうけど、携帯電話を握り締めて、これでもかと耳を押し付けている自分が滑稽でならない。 意味を追うのを諦めて、フランス語の持つ甘やかなニュアンスにただ浸る。 ここまで話せれば、どこに行っても苦労しないんだろうな……。 「……Je t'aime」 世界を飛び回る人にふさわしい能力に感嘆しきった頃、最後のセリフにとくんと心臓が跳ねた。 いくらあたしがフランス語に馴染みがなくたって、これくらい解る。 愛してる。 世界一美しい言語のなかでも、とびきりの美しい響きをもつ愛の言葉。 そういえば……と、記憶が巻き戻る。 Ich liebe dich. ドイツ語でも、同じことを……。 「一哉くん、もしかして」 「馴染みがないとは言わせないぜ?」 ふっと笑う声に、かぁっと頬が熱くなる。 一つ一つの言葉は聞き取れなくても、それで全ての意味が解ってしまった。 それは、いつも、出張で家を空ける間あたしにくれる社長という肩書きを外した御堂一哉の言葉。 会えなくて俺も寂しい、体に気をつけろ、そして……愛してる。 「これで苦手意識も少しは紛れたか。外国語ってのは、考えれば考えるほど難しくなるんだよ。直感で把握しろ」 「……うん」 「なら、さっさと課題を終わらせるんだな」 明日も電話すると約束して切れたのを確認してから、宿題に向かったものの。 文に出てくる一人称を訳すたびに、あの甘い言葉の数々が蘇って、その度に何度も手が止まってしまった。 |
あとがき
誰か……
この蜂蜜漬けのケーキにシロップ漬けのフルーツを添えてガムシロと黒蜜かけたような脳みそを止めて……。