優しい音
……あぁ、あったかいなぁ。 思ったとたん出そうになった欠伸をかみ殺して、ソファーの上で居住まいを正した。 春も間近の陽の光が射しこんで、リビングには長閑な空気が漂っているからか、手持無沙汰なのもあいまって眠気に負けそうになる。 春眠、暁を覚えずっていうけど、ほんとに長閑なんだもん。 「何度、お願いされたってダメなものはダメ。しつこいなぁ」 ただ一か所、瀬伊くんが誰かと電話している場所を除いては、だけど。 ピアノの練習の合間、午後のお茶を二人で楽しもうという予定が、その電話で中断されてからだいぶ時間が経っていた。 準備も終わって、さあ飲もうというタイミングで鳴って、ちょっと待っててねと言われた通り大人しく待ってるんだけどまだかな。 湯気が出なくなったミルクティーと瀬伊くんを見比べて、淹れ直してこようと腰を浮かしかける。 その瞬間、長い電話がやっと終わったのか、力なく置かれた携帯電話から視線をめぐらせれば疲れた顔とひとつのため息があたしに向けられた。 「まいっちゃう、ほんとしつこいんだから」 「どうしたの? ……ずいぶん長引いてたけど」 座り直すと瀬伊くんも隣に座った。 近くなった顔に色濃い疲れを認めて、胸の奥が自分のことのように痛む。 いくら瀬伊くんが、面倒事を苦手とする性格とはいえ、ここまでうんざりした顔になるくらいだから、よっぽどだったんだろう。 「うーん、話すから、そのまえに膝かして?」 言うが早いか、返事を待たずに頭が膝に乗せられる。 これは、本当に疲れる内容だったんだな……。 あたしの膝枕ぐらいで癒されるのなら喜んで、そう気持ちを込めて端正な顔にかかった前髪をそっと払い撫でる。 くせのない髪は、なんど払ってもさらさらと流れ落ちてくる。 しばらくそうしていると、眉根によったしわが徐々に消えて、ふわりと柔らかい笑みが戻ってきた。 「ありがと。すずの手ってきもちいいね、魔法がかかってるみたい」 「そうかな」 やっといつもの空気が戻ってきたのが嬉しくて、自然と見つめあって笑みを交わす。 瀬伊くんが気持ちよさそうなら、それであたしは十分で、電話の内容なんて気にならなくなっていたけど、ぽつりぽつりと瀬伊くんが語りだした。 「いまの電話。事務所のプロデューサーからだったんだけど」 「うん」 とあるCMの音楽を瀬伊くんが担当してから、ぜひにと仕事の依頼をされることが増えた。 そのCMが一哉くん絡みだったから、それ以来、マネジメントや公演の管理なんかを一哉くん傘下の事務所が請け負ってくれてる。 瀬伊くんがピアノだけに集中できるよう、面倒な事もすべて引き受けてくれてるのに、その事務所の人が持ってきた話が面倒って、どうしたんだろう。 「こないだの公演のリハで、指ならしに弾いてた曲をCD化させてくれって」 「あたしはそういうの詳しくないけど、CDにするのってそんなに大変なの?」 「ううん。ここって場所と時間を指定されて、僕はそのスタジオに行って弾いて帰ってくるだけだから、大変なのは段取りつけるマネージャーと音響の人たちじゃない?」 「じゃあ……」 問題は録音うんぬんじゃないんだ。 だったらなにがそんなに瀬伊くんを疲れさせたんだろう。 首をかしげていると、また静かに口が開いた。 「その曲はオリジナルだから、商品にするつもりはないって何度も断ったのに、しつこいったら」 「オリジナル?」 「うん、そう。一宮瀬伊作曲、鈴原むぎの曲その一」 「へぇ、あたしの……って、えっ!?」 「なんか感動したらしいよ。大げさなくらい褒めてた。リハを覗いたら新たな世界を見た! とかいって」 「ちょ、っと待って。あたしの曲って」 「うん? あぁあのね、すずが好きだなーって思うと音が浮かんでくるから、どんどん出来ていくんだよね。今のところその三まで、で、これからも増える予定」 新進気鋭、注目度ナンバーワン、人気ピアニストの恋人が、さらりと言う内容にあっけに取られているあたしにはおかまいなく、疲れを昇華させるかのように瀬伊くんは言葉を継ぐ。 「僕、弾いてるときって周りが見えなくなるから。プロデューサーが入ってきてたなんて、知らなかったんだよね。知ってたら弾かなかったのに」 「な、なんで」 「なんでだと思う?」 驚きから戻ってないあたしとは対照的に、いつもの瀬伊くんに戻ったのか、いたずらっぽい笑みが見上げてきた。 「わかんない」 こうなった瀬伊くんに詰め寄っても意味がないのを分かっているから、あっさり白旗をあげて答えを待つ。 下から手が伸びてきて、疑問符でいっぱいだろう頬を愛しげに撫でられた。 完全に機嫌が直った瀬伊くんは、ふふっと微笑んで体を起こす。 「すずをイメージして僕が作った曲だよ?」 言いながら顔を近づけられて、楽しそうに光る瞳に魅入られる。 「すずそのものじゃない? そんな曲に惚れた、世間に出すべきなんて言われて、いいよって答えるわけないでしょ」 あたしの曲、というのはおいといてもプロの人がそこまで絶賛する曲なら、きっとすごく素敵な曲だろうに。 「ミルクティー冷めちゃったね。新しいのお願いしてもいい? その間、僕はむぎの曲を弾いてあげる。すずだけに」 それが断る理由のすべてだと言う恋人から贈られた曲は、これ以上ないほど優しい音だった。 |
あとがき
だって瀬伊さまだもの