ビターとスイートの不等式


 部屋の中には、それぞれがめくる雑誌の乾いた音だけが、繰り返し交互に響いていた。
 麻生くんはビリヤードの雑誌。
 毎月、発売日を待って律儀に買ってくるその雑誌は、麻生くんにとって夢が詰まった世界なんだろう。
 ハスラーになりたいと語ってくれた時と同じ、真っ直ぐで、キラキラと輝く眼で取り出してからかなりの時間がたっている。
 呟きが聴こえて顔をあげると、ビリヤードに関する単語を繰り返しながら、熱心に読みふける姿が目に入った。
 目を輝かせて、ほんと子供みたい。
 体躯を考えれば、そして彼の性格を考えれば、子供と思ったなんて口が裂けても本人には言えないけど、決して馬鹿にしてじゃない。
 そんな麻生くんが好きなんだから。
 ……だから、思うだけなら許してね。
 心の中で手を合わせて、止まっていたページを進めた。
 あたしはお菓子の作り方がいっぱい載った雑誌。
 バレンタインデーまでもうすぐという今日、書店の特設コーナーで選んだ一冊。
 あたしでも作れそうで、麻生くんが好みそうなお菓子が載った中から、特別な一つをこれまた念入りに選んでいるところだった。
 同じ部屋にいるのに会話一つ交わすことも無く、それぞれ読みたいものを読んでいる。
 寂しいなんて思わない。
 別々だけど、同じ事をしている──バラバラのようで繋がってる。
 十分幸せだと思える関係を築いてきた事に、誇らしささえ感じる。
 いっぱい喧嘩をしても最後には必ず仲直りをして、二人でいろんな事を乗り越えて、これから先の未来も隣にいると信じられるから、こんな時間も愛おしい。
 少しずつお互いを理解しあって、今があるんだから。
 ……って、急になに考えてんだろ、あたし。
 ふいに恥ずかしさに襲われて、慌てて誌面に意識を戻した。
 こってりしたチョコレートケーキ……は美味しそうだけど却下。
 甘いものが苦手な麻生くんは、見ただけで胸焼けを起してしまうかもしれない。
 チョコレートのムース、トリュフ、カップケーキ、どれもこれも美味しそうな濃い茶褐色が彩る誌面を読み飛ばす。
 あたしが探しているのは、麻生くんが喜んでくれるものだから。
 材料の欄にざっと眼を通して、ココア味のクッキーもふるい落とした。
 どのレシピも、想像する味と比べて砂糖の量が意外に多い。
 もっとアッサリした味がいいのに。
 書店で探していた時はいい雑誌を見つけたと嬉しくなったのに、お菓子は甘いもの、だから雑誌のレシピは至極当たり前だとわかっているのに、ガッカリしてしまう。
 今日は一先ず置いといて、別の本を買うことにしようか……。
 悩みながら閉じると同時に、どうした? と笑いまじりの声を掛けられた。
 顔を向けると、麻生くんも読み終えたところなのか、雑誌を閉じてあたしを見ている。
「うーん」
 どう言ったらいいのかわからなくて言葉を濁すと、堪えきれなくなったのかとうとう吹き出されてしまった。
「なんで笑うの?」
「だっておまえ、ブツブツ言いながら百面相してっから」
「えっ、あたしそんな事してた?」
 いつ見られていたのか、変な顔をしてなかったのか、いくら思い返しても浮かばなくて、変わりに恥ずかしさで顔が熱くなってくる。
 赤くなっているはずの頬を両手で挟むと、指先が少しひんやりとしていて気持ちいいと思うくらい熱い。
 ひとしきり笑ってから、あたしが手にしていた雑誌を覗き込むと、つられたのか麻生くんまで顔が赤くなってしまった。
「それって、さ」
「うん。麻生くんに贈るお菓子を探してたの」
 バレンタインの、と言わなくても伝わったらしい。
 あぁ、と照れくさそうにこぼした後、笑っちまって悪かったなと小さな声が聴こえた。
 そんなところが麻生くんらしくて、あたたかい気持ちが沸き起こる。
 恥ずかしがりやだけど、どんな気持ちでもちゃんと受け取ってくれる人。
 好きだなと思った時には、体が自然と寄り添っていた。
 何も言わなくても抱きしめてくれるのが嬉しくて、そっと仰ぎ見るとどこか困った顔で眼を逸らされてしまう。
「ったく、おまえは……勘弁してくれよ」
「なにが?」
「だから……いや、いい」
「ちょっと、気になるってば」
「聞くなって」
 横を向いたままの顔から首筋まで、ほんのりと紅くなってるのが目に入って口を噤んだ。
 どんなチョコよりも甘い時間は、すぐに解けてしまうかもしれないから。
 ムリヤリ聞き出そうとして、穏やかで優しい時間を壊してしまうのが勿体無い。
 寄り添った頬に伝わるあたたかさと、布越しの鼓動が気持ちよくて、勝手に瞼が閉じていく。
 雑誌の音も消えて静かな部屋の中にいるのに、麻生くんの鼓動に同調した自分の音が、耳の中でうるさいくらい。
 鼓動はだんだん大人しくなっていくのに、好きって気持ちはどんどん膨らむばかり。
 心地いい沈黙の後、ねぇと呟くとシャツ越しにくぐもった返事が聞こえた。
「昔っから甘いの苦手だった?」
「言われてみりゃ、そうかもな。ガキの頃からスパイスきいたもん好きだったし。夕飯がカレーだとすっげー嬉しくてさ」
「あ、わかる。ふふっ、子供の麻生くんが目に浮かぶ」
あたしも家に帰ってカレーの匂いがすると、妙にわくわくした。
小さな麻生くんも、顔を輝かせながらキッチンに飛び込んでいったのが本当に見えるようで、口元が緩んでしまう。
「おまえは?」
「あたし? うーんとね」





 ふと疑問に思っただけで何の気なしに聞いた、ちょっとだけ昔の話のはずが、互いにあっという間に夢中になった。
 子供の頃好きだった本、よくした遊び、クラスで流行っていたもの。
 一つ一つは些細だけど、振り返ればどれも大事な思い出を交換しあって、共有していく。





 育った環境はまったく違うのに、まるで一緒に大きくなってきたような感覚に包まれてしまう。
 つくづくおかしな巡り会わせ、だと思う。
 麻生くんは大銀行の跡取り御曹司で、あたしはごく普通のサラリーマンの家庭に生まれて、子供のころに同じ部分があるはずなんてないのに。
「途中までは普通の学校に通ってたからな」
 頭を過ぎったあたしの気持ちに気がついたのか、からからと笑う声が上から降ってきた。
 そういえば祥慶には途中からだって、聞いたことあったな。
 それまでは、あたしとあまり変わりがない子供時代をすごしていたのかも。
 でもそれは途中までで、それからどんな出来事があったのか……。
 知っているからこそ笑い声に身を固くすると、安心しろと言いたげに、抱きしめる腕の力が強くなった。
「で、海で遊んでたときにダチの一人が脚、滑らせてさ」
「うん」
 再び、とつとつと語られる何気ない夏休みの光景。
 真夏の太陽が降り注ぐ下で、暑さも気にせずはしゃぐ子供達と麻生くんの姿が、活き活きと浮かぶ。
 水際で遊ぶ子供達が跳ね上げた飛沫に、陽の光が当たってキラキラと輝いていて、声変わり前の高い声が重なって、きっと幸せな映画の一場面みたいだったよね。
 田舎ののどかな空気の中でどんなに自由だったのか、その後の麻生くんを知っているだけに少し切ない。
「あんときゃ、楽しかったな」
 懐かしむ声に滲む、押さえ込まれた割り切れない感情が胸をつく。
 こんな話題……出さなきゃ良かった。
 後悔しても一度口から出た言葉は戻らないのに、自分の迂闊さを大声で罵りたくなる。
 本人の意思より跡取りであることを望まれて、お母さんを亡くして、悲しみに飲み込まれる小さな心に、大人の思惑がどんなに非情に映ったのか……。
 心を守るために、家にも家族にも背を向けなくちゃいけなかった麻生くんが、どんなに辛かったのか……。
 昔のことに触れられるのは好きじゃないって知ってるのに、あたしの知らない子供の麻生くんを教えてくれるのが、あまりにも楽しくて調子にのってしまった。
 そんなつもりはなかった、ただバレンタインの参考になれば……と、浅ましい恋心が口を動かしてしまったとわかって貰えなかったらどうしよう。
 怒っていたら、どうしよう。
 そろそろと眼を開けたのに気がついたのか、ふと覗き込まれた。
「ん? おまえ、なんて顔してんだよ」
 よほど不安を浮かべた顔をしていたのか、見つめ返す、普段は鋭いといってもいい眼差しが優しく緩む。
「まぁ。おまえはその後の俺を知ってるからな……。でも、おまえに、んな顔して欲しくて喋ってたわけじゃねぇから、ほら」
 強引に笑わせようと軽く頬をつねる仕草が、不器用な麻生くんの優しさをなにより雄弁に語っていて、自然と笑みが浮かんだ。
「なんつうか、うまく言えねぇんだけど。ガキの頃のこと、こういう風に思い出せるのが嬉しくてさ。それに、おまえが喜んで聞いてくれんのも楽しくて」
「そう、なの?」
「あぁ。おまえには知ってて欲しかったし」
 さりげなく赦す言葉に、弱くなってる涙腺があふれそうになる。
 あたしの全てを受け入れてくれる、優しい人。
「ガキだった俺の目を覚まさせてくれたのは、すず……おまえだから」
「ううん、違うよ」
 時間がたてば麻生くんは自分で見つけていたはず。
 あたしの存在なんて、おまけに過ぎないのに。
 それでもあたしが大切だといってくれる。
 あたし、好きになったのが麻生くんで良かった。
「もっと、いろんなこと知って欲しい。おまえの事も知りてぇし。その、一生……かかるかもしれねぇけどよ」
 これから先の話を、ごく当たり前にする様子にふわふわと気持ちが浮かんでくる。
 過去も未来も一緒に分かち合える、なにより甘い関係を一生分先送りでプレゼントされて、嬉しくない女の子なんていない。
 バレンタインのことからはじまった、なにげない会話に幸福が大きく広がって体を包み込む。
「じゃあ……、バレンタインの、どのくらい甘くてもいいのか、一生かけて調べるから」
 バレンタインは女の子から贈る日だから。
 これから先のバレンタインデー全部を、麻生くんのために頑張るよ。
「楽しみにしてるぜ」
 そういって笑う麻生くんが、ビリヤードのことを語るのと同じくらい輝いていて。
 どれだけ甘くても、喜んで食べてくれると自信をもたせてくれてるみたいで。
 これ以上はない甘い雰囲気に浸りながら、頭の中で慌しくレシピを練り始めた。

あとがき

ちょっと雰囲気の違う麻生とむぎを書きたくなりまして
雰囲気どころかキャラまで変わってんじゃ……て内容ですがご容赦を

苦いチョコをビターと呼びますが
bitterにはつらいや厳しいという意味もある(らしい)ので
そこから脱却の意味もこめて、これからはスイートにって妄想です
sweetには優しいという意味もある(らしい)ので

麻生もむぎも、これ以上苦しまないで欲しいんだよ

なにはともあれハッピーバレンタイン麻生×むぎ!