甘く巡るは愛の感染



「忙しいとこ悪ぃ。ん、やっぱインフルだった」
 多忙な御堂が電話に出るなり、詫びもそこそこに今し方出た結果を告げた。
「……分かった」
 電話の向こうからの返事よりも、短いため息が耳に痛い。
 こうなる前にワクチン接種を勧められていたのを、型が合わなきゃ意味ねぇんだろ? と無視したのは自分だし、ビリヤード場のような不特定多数の人間が集まるうえに空気の循環が不十分な閉鎖空間……まさに感染させてくださいと言わんばかりの場所へ平気で出入りしていたのも自分だ。
 すずにも気をつけるよう心配されていたのに、体力あっから大丈夫だろ今まで罹ったことねぇし、で軽く受け止めていたのも、だ。
「それで、どうするんだ?」
「あー……しばらくは籠るわ。悪ぃけど、ドアの前に水とか適当な食いもん置いとくよう手配頼めるか」
 忙しい上に現実的な御堂はそれを聞いて、何事かを傍にいた人間、たぶん秘書に告げたようだ。
 無視した忠告の相手に頼るのは極まりが悪かったが、御堂なら何でも何とかしてくれるという甘えもある。
 夜中に急激にあがった熱から嫌な予感がして、地下の部屋から出るのもおっくうで御堂に電話をかければ、朝一で医師の往診の手配がすでに済んでいた。医師と一緒にやってきた看護師から渡されたのは、御堂からだというミネラルウォーターのペットボトルや栄養ゼリーの類。おまけに、同じフロアで生活している一宮をどう言いくるめたのか、しばらく一宮は家に戻って来ないらしい。
 ほんの数時間でここまで出来るのが御堂一哉で、情けないことにこんな事態になってから後悔するのが今の俺だ。
 集団生活で一人が病気になれば、どうなるかなんて考えなくても分かるもんなのに。
 わざわざ口にしないだけで、御堂や他の同居人はいつの間にか予防接種を受けていたのに、そこまで考えがいたらないことが殊更にガキ臭く感じて嫌になる。
「おい、本当にそれで大丈夫なのか」
 沈黙した俺が不安になったのか、心配そうな声音で問い直された。
 御堂が俺の心配とか。
 前の自分なら余計な世話だと反感を覚えていただろう。それがどんなに甘えているのかも気付けずに。
 苦笑したついでに込み上げるような咳が出た。
「やはり無理があるだろ。快癒まで籠るなんて」
 御堂が声に厳しさをにじませる。今にも命じて強制入院させられそうな勢いだ。
「大丈夫だって」
「羽倉。いくらおまえが大丈夫だと言い張ってもな」
「……これ以上迷惑はかけねぇよ。他んとこに行けたら良かったんだけどよ、診断出た以上、こっから動く間にも誰かにうつしちまうかもしれねぇし。ここなら四、五日の籠城なんて余裕だろ。悪いな」
 他のとこ、が実家をさしているのだと御堂は察してくれたらしい。
「確かにうちは水と食料さえなんとかすれば、地下のフロアだけでも生活できるからな。……分かった」
「助かる。松川さんにも寄るなって……まぁ、あの人の場合は言わなくても大丈夫だろうけど」
 熱の狭間でなんとか考えた最善の策は、御堂たちの協力があってこそだ。せめて共倒れにならないよう、治るまで顔を合わせないようにするくらいしか出来ない。
「なら、あいつに定期的に食事を運ぶよう」
 その中にはすず──恋人も含まれている。
 御堂なら言いだしそうだと構えていたから、反論はすぐに出た。
「それと、もう一つ頼みてぇんだけど。すずにも近づかねぇよう言っといてくれ」
 御堂の返事は沈黙だ。
「頼む。心配はさせちまうけど、俺からもメールしとくし。あいつにうつしたくねぇんだよ、俺より体力ねぇのにこんなしんどい思いさせたくねぇって」
「羽倉の気持ちはわかった……が」
 重ねる言葉が通じたのか、ほっとした瞬間ぞくりと悪寒が背中を駆けのぼる。
「助かるわ。んじゃ、少し、寝る」
 電話口で御堂がまだ何か言っていた気がしたが、悪寒はいつの間にか指先にまで達して携帯電話がすり抜けた。
 メールをしておくというその口で眠りに落ちかける最後、布団を手繰り寄せた関節が軋むのが本格的に病気っぽくて、どこかにいった携帯を探すのすらできない。
 起きたら速攻で連絡するから。
 んで、心配かけてごめんってちゃんと謝る、あぁ……そういやバレンタインのチョコすっげー楽しみにしてたのに……それも。
 動かない指にかわり脳裏に過る文面と、すずの顔。
 どれも笑顔のそれを追いかけながら、意識は暗く暗く沈んでいった。


「麻生くんの馬鹿」
「人の気もしらないで」
「元気になったらお説教だから」

 笑顔……って違う。なんかすっげー怒ってる。

「あたし彼女じゃないの?」
「あたしじゃ頼れないかな」
「甘えてよ」

 それよりも悲しんでる。

「素直に看病してって言えばいいのに」
「意地っ張り」
「あたしが、はいそうですかって聞くと思った?」

 いや、呆れてる?

 俺はおまえに笑ってて欲しいんだって、いつも思ってんだけど。

「……っ、は……」
 乾いて張り付いた喉からは、言葉のかわりに荒い息が出た。
 どうやらだいぶ朦朧としていたらしい。何事か細切れの意識の中で思っていたことだけ覚えていた。
 べたついた布団を剥ぐと、汗に空気を感じて余計に不快感が増す。
 シャワーを浴びたいと思ったが、半身を起しただけでどくどくと耳元で鼓動が鳴る。
 それでも薬のおかげか眩暈がするほどの熱はなくなったけれど、少し身じろぐだけで肺が必死で上下する。
「はい、お水」
「ん……さんきゅ」
 差し出された水を飲むのすら、呼吸に遠慮して一口ずつが精一杯で、グラス一杯をやっと飲み干し手から空のグラスをそっと抜き取られてはじめて部屋に一人じゃないと気付いた。
「すず……なんで、俺いまインフルだって御堂から」
「聞いた。うつしたくないから近づかないようっていうのも聞いた。でもあたし予防接種してるしマスクしてるし」
 だから大丈夫、とは思えない。
「……やっぱ」
 出て、と続けたかった言葉は、なぜか泣きそうにゆがんだ表情を見て喉に戻って行った。
「出ていってあげない。離れていてあげない。麻生くんの馬鹿」
 なんかすっげー怒ってる。……こんなのどっかで見たな。
「心配するよ、当たり前でしょ。好きな人が苦しんでたら心配するし、同じ家にいるのに何もしないなんて出来るわけないでしょ。看病させてよ、こんなときくらい彼女に」
 悲しそうで、でも呆れてもいて。こんなすずを俺は確かに知ってる。
 あぁそうか。
「ずっと、看病しててくれたのか?」
「……うん」
 見れば、ベッドの脇にはタオルの浸された洗面器や、体温計がある。
「助かった、おかげで少しマシになった」
 ここまでしてくれていたのに今更という気もして素直に礼を言うと、マスクで半分隠れてはいたのにそれでもすずがほほ笑んだのが分かった。
 そして、自分が本当は一番に頼りたくて縋りたくて甘えたかったのだと、格好悪い部分に気付く。
「麻生くん!?」
 ベッドに倒れ込んだのを見て、すずが慌てた声を出した。
「なんか、やっぱおまえが傍にいると安心する。かっこ悪ぃけど、弱ってるとこ見せれんのってすずくらいだわ」
「良かった。そういってもらえて。病気しないのが一番だけど、ここ出た後は病気なっちゃったらお互いに看病しあわなくちゃいけない時もあるだろうし、そういう遠慮って今からなくそうね」
「今から、出た後?」
「うん、だってずっと一哉くんたちと住むわけじゃないでしょ? じゃあ、なにか軽めの作ってくるね、お粥でいい?」
 それはその通りで、いつかは同居生活もなくなってそれぞれの道を進むだろう中で、すずは当たり前のように一緒にいる未来を話す。
 俺的には結構勇気を出したつもりのセリフも、返すすずのセリフの破壊力であっという間に霞んだ。
「あー、チョコも食いたい」
「え、でも」
「一口だけで我慢するから、おまえからのバレンタインのチョコ今日欲しい」
「わかった」
 ダダをこねた俺を見て、すごく嬉しそうにすずが笑う。
 ウイルスより強烈な幸福感に一瞬で感染して、すずが戻ってくるまで口元が緩みっぱなしになるのを堪え切れなかった。

あとがき

バレンタインからだいぶ遅れましたが、久しぶりに麻むぎで糖度高めがんばった
がんばったんだよ、これでも
最初は『麻生にだけ本命チョコなのが面白くない瀬伊。
麻生が風邪をひいたのをこれ幸いと、カレー粥を食べさせようとしたり軽めジャブかまし
チョコ粥にしてやろうとした所でむぎに見つかり、しぶしぶ諦める』
というギャグ寄りでしたから