次の文を和訳せよ。


「この場合は……っと、男性名詞だから。……ん? 違う、中性か」
 日本語にはない、ややこしい名詞の性別を考えながら、手にしたペンを乱暴にノックした。
「あ、くそっ」
 ガリガリと書き込んだスペルのミスを見つけたと同時に芯が折れ、指先がかすかに沈み込む。
 跳ねて消えていった芯が残した跡を払うと、白いノートが炭素で薄汚れ、おもわず舌打ちが出た。
「……ったく、めんどくせー」
 ビリヤードの誘いもバイクの誘惑も振り切って、朝から夏休みの課題に取り組んでるっつうのに、まだほんの数ページしか終わっていない。
 あのキツいドイツ語教師が、黒い羽をチラつかせながら高笑いしている姿が頭の中に浮かんで、腹の底からムカムカする。
 消しゴムを取ろうとして思い直し、ペンを放り投げた手を頭の後ろで組むと、背もたれ代わりのベッドに寄りかかった。
 テキストの上を恨めしげに滑る視線に、苛立ちの溜め息が重なっていく。
 なんでこう、ガッコウのお勉強っつーのはつまんねぇんだよ。
 『アンナは昨日、友達とレストランに行きました』……だ?
 それがどうした、ガキの絵日記じゃねぇんだから。
 架空の主人公がレストランで何を頼もうが、興味ねぇって。
 それでも、そんな小学生レベルの簡単な文を訳すのすら、辞書と記憶をフル活用しても数十分かかってると気がつき、残りのページを絶望混じりの重い気持ちでパラパラめくる。
 このままじゃダメだと一念発起して、得意な物理以外もヤル気にはなったものの、お世辞にも楽しいとは思えねぇ。
 そもそも物理が得意になったのもビリヤードに役立つかもしれないという、少し邪な計算があったからだ。
 英語だってビリヤードの本場アメリカに行く機会に役にたつだろう。
 ……けど。
「ドイツ語が役に立つ機会なんてあんのかよ!?」
 さっきから繰り返し出てしまう独り言が、さらに大きくなった。
 何やってんだと我に返り、あくびをかみ殺しながら背を伸ばすと、マットレスが軋みベッドの上に放っておいた雑誌が崩れ落ちてくる。
 まだ全ての記事に目を通していない雑誌は、中途半端に開いた状態で止まり、誘惑するようにカラフルな写真を垣間見せていた。
 新しいキューの紹介記事もチェックしてぇし、近場のトーナメントも確認しておきたい。
 ビリヤードのことなら、いくらでも吸収できる。
 祥慶の授業も、ビリヤードくらい面白ければ良かったのによ。
 つい雑誌に伸ばしかけた指を一呼吸分みつめ、強く握り締めると雑誌を目の届かないところまで放り投げた。
「くそっ、しょうがねぇ」
 いくら文章を追ってもいまいちパッとしないとこはムカつくけど、自分でやると決めたことだ。
「よしっ。次は…………ん?」
 わからない単語に線を引き終えると、意味を思い出しながら分厚い辞書を持ち上げようとした腕が、軽やかなノックの音で固まった。
「麻生くん、今ちょっといい?」
「あぁ、入れよ」
 名を呼ばれるよりも先にノックの仕方で察して緩んだ口元を引き締め、雑誌に負けなくて良かったと心の底から思いながら声をかけると、遠慮がちにドアが開く。
 覗いたすずは、背後に回していたものを差し出しながら、俺の様子を確認してふわりと顔をほころばせた。
「勉強の進み具合はどう? 誕生日なのに頑張ってる麻生君に差し入れ持ってきたんだけど、どうかな。あたし特製の野菜ジュース」
「お、うまそうじゃん。サンキュー」
 目にしたとたん喉が渇いたことに気がつき、すずの気遣いにほっとしながら受け取り、一気に半分飲み干した。
「どう?」
「これマジで旨い。へぇ、ベースはグレープフルーツか」
「うんっ。サッパリした味がいいんじゃないかと思って。あとはね、オレンジと……」
 どろりとした見た目と違い、爽やかな後味が心地いいジュースの作り方を、本当に嬉しそうに説明する様子を見てると俺まで嬉しくなってくる。
「……でね、最後にほんの少しお塩を入れて……あれ? もしかして本当は美味しくなかったんじゃ」
「違っ、これは」
 夢中になって語っていたすずが、残りをちびちび飲みだした俺に気がつき不安げに顔を曇らせた。
 勘違いした瞬間に表情が変わるあたりがこいつらしいと思いながら、また一口含んで苦笑いを浮かべそうになるのを押し留める。
「そうじゃねぇって。飲み終わるまで、ここで待ってろよ。そしたらグラス取りに来る手間、省けるだろ」
 すぐに飲み干して、おまえがあっさり行っちまうのが嫌だから……て、思ったなんて恥ずかしくて言えねぇって。
「う、うん。じゃあ……うわ、これが教科書? すっごい難しそう」
 首をかしげてソファー代わりのベッドに腰掛け、俺がついさっきまで悪態をついていたテキストをパラパラとめくるすずの横顔に、知らず知らず詰めていた息をそっと吐いた。
「なに、この点々。呪文?」
「あぁ、ウムラウトっつって、母音が変化したとかなんとかを示す記号」
「へぇ、あ、じゃあこれは?」
「それは……」





 好奇心で顔を輝かせたすずがあれこれしてくる質問に、少し誇らしい気持ちになりながら答えていくうちに、不思議な事実に気がついた。
「ねぇ、ドイツ語が苦手って嘘でしょ。だって、麻生くんの説明すっごい解りやすい」
「……俺も驚いた」
「え?」
「一人でやってる時は、つまんねぇって思ってたのに、さ。おまえとだとすげー楽しいし、自分でもすんなり理解できるんだよ。この調子ならすぐに終わりそうだぜ」
「ほんと? じゃあ、案外あたしも役に立つものだね」
 えへへ、と照れ笑いを浮かべて自慢とも謙遜ともつかないセリフを口にしたすずが、やけに可愛くみえて直視できなくなる。
 こいつは無意識なんだろうけど、何気ない仕草……言葉……全部に……いつもドキドキさせられる。
「そうだ! ねぇねぇ、なにかドイツ語で喋ってみて!」
「は?」
 突然、いい事を思いついたとでも言いたげに、声を弾ませながら身を乗り出された。
「いいでしょ?」
「……う」
「だめ?」
 上目遣いで覗き込まれて、癒されたはずの喉がまた渇きだし、慌てて残りを飲み干した。
「んな、いきなり喋れって言われても」
 妙に恥ずかしくて出来ねぇって。
「なんでもいいの。例えば、いま考えてる事とか」
 いまの気持ち……? ますます恥ずかしくてドクドクと血が沸く音が、耳の中でうるさく鳴り出す。
「だって、目の前でドイツ語を聞いたことないんだもん。お願い」
 言い出したら後に引かない性格のすずは、じりじりと距離を詰めながら迫ってきて、とうとう目の中に顔を引きつらせる俺が映る距離まで近づいた。
「……わかった。でも、一回だけだぞ」
「うんっ」
 一回、それも……すずが分からないドイツ語でなら……。
 ぱっと顔全体を輝かせて待ちかまえる様子に、大きく深呼吸してから聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「……いっひ、りーべ、でぃっひ……? それって、どういう意味?」
「……教えない」
「じゃあ、後で一哉くんに」
「聞くな!」
「なんで? あ、もしかしてあたしの悪口いったんじゃ」
「違うって!」
「だったら教えてよ」
 どうせバレないだろうと、高をくくっていた自分を呪いたくなった。
 よくよく考えれば……考えなくても、この家にゃ完璧なドイツ語を自慢するヤツがいるし、そもそもすずの性格なら一つ納得した途端に次の質問が飛び出すのは、分かりきってたってのに……。
「いいよーだ。やっぱり一哉く」
「わかった、わかったから! あいつにも他のヤツにもぜってぇ喋らねぇって約束しろよ」
「うーん……約束する」
「その……さっきのは……」
「うんうん」
「……好きだ、って」
「あ」
 小さく驚いた声をあげたすずがどんな顔をしてんのか、見れるはずもなく顔を背けていると背中に柔らかい衝撃を感じて、空のグラスが鈍い音を立てて床に転がった。
「嬉しい……えへへ、あたしも好きだよ」
「……おぅ」
 体を通して伝わる鼓動と交わされる体温に、相変わらず心臓がドキドキしてんのに、なぜか気持ちは透明になっていく。
 俺が渋った言葉も、すんなりと口にするこいつが……堪らなく好きだ。
 ドイツ語も役に立つ機会が、あるもんだな。
 勉強もいいもんだって、今さら思っても少し都合良過ぎか?
 けど、たった一言でこんなに喜ぶなら、これからは嫌々する事じゃなくなるかもしれない。
「……サンキュ」
「え?」
 急な礼に戸惑ったのか、顔をあげたすずの視線が何かを確認して見開かれた。
「もう、こんな時間! ……ずっとこうしてたいのに……リビングの掃除と、買い物に行かなきゃいけないんだった。ほら、夜は麻生くんと食事に行くから、いまのうちに済ませないと一哉くんに叱られちゃう」
「そっか、仕方ねぇよな。俺も飲み終わったし。ごちそうさん」
 今度こそ意味を問いただされなくて、マジで良かった。
 おまえが傍にいてくれれば、何もかもいい方向に進むから……って意味を込めたなんて、口が裂けても言えそうにねぇ。
「おそまつさまでした。ふふ、麻生くんが気に入ってくれて良かった。実は、勘で作ったから自信なかったんだよね」
 またころっと表情を変える仕草に、じわりと衝動が呼び覚まされる。
「これ店で売ってるのよりウマイって。また作ってくれよな」
「うん、喜んで。あ、でも何をどのくらい入れたか……味、覚えてない」
 空になったグラスを満面の笑みで見詰めながら手を伸ばすすずに、意識するより早く腕が伸びた。
「きゃ……麻生く……ん」


 いくら空調が効いてるとはいえ、八月に入ってから連日ニュースで最高気温を更新だと騒いでいるから、喉を通る冷えたジュースは異常に旨く感じた。
 旨く感じる理由は、きっとそれだけじゃない。
 こいつが、俺のために作ってくれたって隠し味があるからだ。


「っん」
「……これで、思い出しただろ?」
「な、な……なにし……あ、麻生くんのエッチ!」
 唇を離しながら囁くと、息を呑んで口をぱくぱくと動かしていたすずが、これ以上ないほど顔を赤くして駆け出し、ドアが音を立てて叩きつけられた。
 その反応に緩む両頬を叩いて気合を入れ、座りなおす。
「この調子で、さっさと終わらしちまうか! えっと、次は……と」
 すずの手の温もりが残っているテキストを開くと、目に入った次の文章でおもわずむせ返った。
「な、な……」
 どこかで見ていたヤツが、こっそり書き加えたんじゃねぇかってほどタイミングの悪い文章が、自然と日本語に訳されて脳裏をぐるぐる巡る。
 『そのジュースは美味しいですか?』
 ジュースの味そのものより、重ねた唇の感触がリアルに蘇ってかぁっと顔に血が上った。
 『どんな味か教えてください』
「せ……説明できるかっ」
 本にむかって叫ぶのを他のヤツら、特に一宮に見られたら、しばらくからかわれること必須の挙動不審な態度だと、自虐しながら手から滑り落ちたテキストの上に突っ伏した。

あとがき

まず言い訳
……無印の中だと、8月6日、麻生は日本にいません
……2後はどうなってるか謎だけど、おそらく一哉&依織の卒業と同時に同居解消だと思われます
だから、この話は設定上ありえない時間軸に存在します

でも、2次元の世界に時間という概念は存在しない!!

そういう事にしといてください……書きたかったんです……

誕生日おめでとう話のつもりで書きはじめたのに、それっぽくありませんが
何はともあれ、おめでとう麻生!