Better-halfまでの日

 もう何度、こうして通ってきたのか分からない家の先で、バイクを押し上げ軽い段差を乗り越えた。
 邪魔にならない場所イコール俺専用の指定席になった場所に、手際よく停められるようになったのも慣れの証で、スタンドを蹴ってヘルメットを外すまで体に迷いがない。
 そんな単純なことを嬉しく思っている自分に多少の気恥ずかしさを感じながら、水浴びした犬よろしく頭を振って深呼吸を一つする。
 連日の猛暑のせいで立ちのぼる独特な街の匂い、焼けたエンジンを挟んで走ってきた汗の匂い、どちらかといえばそういう不快な部類のものを覚悟していたのに、鼻をくすぐったのは最高の香りで自然と口元が緩みだす。
「今夜はカレーか」
 なにげなく零した言葉が、よくあるドラマの中のありふれた家庭の一コマみたいだと気がついて、全身を襲うムズ痒さに苦笑いしながら慣れた仕草でチャイムを押した。
 数秒もすれば、いつもの笑顔で出迎えてくれるだろうすずを想像して、笑みが苦さの欠片もないものに変わっていくから思わず口元を押さえてしまう。
「はーい、いらっしゃ……どうしたの麻生くん?」
「な、なんでもねぇよ。それより、さ」
「気がついた? うん、今日は麻生くんの大好きなやつだよ」
 俺が、じゃなくて、俺の、と言われたのに。
 なにげないその単語に、手の平の下の唇はとうとうだらしないほどニヤけきってしまった。





「なぁ」
 忙しく動き回る背中に声を掛けると、キッチンに響いていた鼻歌が途切れた。
「だめ。麻生くんは座って、待ってて」
 そして、まだなにも訊いていないのに笑顔できっぱりと断られる。
 このやりとりが、さっきから少なくとも片手に余るほど繰り返されていて、意外と頑固なすずの性格をわかっているのにまたかと天を仰いだ。
「つってもなぁ……ただ座ってろっていうのも」
 出来立ての料理を食べて欲しいからと、てきぱき動いているすずを横目に、何もしないでいろというのは軽い拷問だ。
 慣れたとはいえ、ここは好き勝手していい場所じゃないから。
 すずが生まれて育った、すずの家だ。
 いくら付き合ってるといっても俺は客に過ぎないのに、勝手にしろといわれて“はい、そうですか”と寝転がるわけにもいかない。
 かといって手伝いを申し出るたびに、きっぱりと断られる。
 これがあいつら……どんな不思議な縁か、一時期とはいえ同じ屋根の下で暮らした御堂、松川さん、一宮なら何のためらいもなくすずの言葉に従うんだろうけど。
 特に一宮。
 いや、そもそもあいつなら自分のペースで振り回す側に違いない。
「なんか飲みもん貰っていいか?」
「あっ、ごめん。いま手が空かないから、冷蔵庫の中の勝手に取って」
 空になったグラスを持ってお伺いを立てる俺を見たら、小馬鹿にした笑いが注がれるんだろう。
 どっちがマトモなのか、あいつらの中にいると基準がおかしくなる。
 それでも動じなく、一番マイペースに過ごし、気がつけば全員を自分のペースに巻き込んでいたすずは、世界一の大物としか思えない。
 そのすずがいいと言ったのに冷蔵庫の前で躊躇っている俺に、はいっと小皿が差し出された。
「味見おねがい」
「あぁ」
 俺が味見なんかしなくても、すずの作るカレーならいつだって美味いに決まってんのに。
 素直に受け取ったのは、到着してからずっと胃を直撃している匂いに我慢ができなくなったのと、満面の笑みで見上げるすずがとてつもなく可愛く見えたから、で。
 じわりと浮かんだ感情……、そのままキスして流れ的にそのまま……なんて考えを振り払いながら皿へ口をつける。
「うん、すげー美味い」
「ほんと? もうちょっと辛くなくても平気?」
「大丈夫だって。おまえのカレーでハズレなんて思ったことねぇし」
「えへへ、ありがとう」
 あたりまえの感想を言っただけで上機嫌になったすずは、鼻歌を弾ませながらまた鍋をかき混ぜる作業に戻る。
 冷蔵庫を開けて一番はじめに目に付いたボトルを取り出すと、ほどよく冷えた麦茶を注いで、そんな後姿をなんとなく目で追った。
 こいつの作るカレーは、マジでそんじょそこらの店には引けを取らない味だ。
 まだお互いをよく知らない関係のときだって、はじめて口に入れた瞬間に美味いと思ったんだから、今はいろんな感情が余計にスパイスになって美味さを倍増させている。
 いつ食べても新しい発見や工夫があって、いまはオリジナルのレシピも増えて、それが全部俺のためだっていうんだから不味いはずがないのに、今度は別の色をした皿を差し出された。
「はい、こっちも味見お願い。これはタイカレーがベースなの」
「おまえ、何種類つくったんだよ」
「三種類だけど? それにナンでしょ、サフランライス、あと付け合せには……」
「今日はやけに張り切ったメニューだな。んな手間かけなくてもいいのに。いつもメシ作って貰うだけで助かってんだし」
「だって今日はねー、へへっ」
 今日?
 なにか特別な意味があった日だったか、記憶を遡りながら味をみる。
 サラリとしたカレーの本格的な辛さが舌と空腹を刺激して、確実に美味いということはわかるのに、なんの意味があるのかは見当もつかない。
「うん、これも美味い。で、今日って……」
「そっか良かった。はい、これが最後。これははじめてチャレンジしたスリランカ風でーす」
「へぇ……って、それよりも今日って」
「空いたお皿洗わなきゃ! ほら、こういうのって小まめにやった方が後がラクなんだよね、あはは」
「あ、おいっ」
 答えるのをはぐらかそうとしているかのような矢継ぎ早のセリフに、首を傾げながら最後の小皿に口をつけ、同じ感想を告げる。
「そう? ふふっ、良かった。じゃあ、もう少しで完成だから待っててね」
「なぁ、なんか隠してねぇ?」
「なにも隠してなんかないよ! あ、冷蔵庫にサラダ入ってるから、テーブルに持っていって貰える?」
 目を合わそうとしないあたりが、あからさまに嘘をついていると言ってるのも同然だってのに、それで誤魔化した気になってる辺りはすずらしくて可愛いけどよ……。
 なんか釈然としない。
 今日……は、七月二十三日、なんてことないただの平日だ。
 学校も夏休みに入ってしばらく経つから、期末テスト終了祝いってわけでもないだろう。
 すずの誕生日はとっくに過ぎた。
 そういや、俺の誕生日も楽しみにしててとそんとき言われた気がするけど、八月六日はまだ半月も先だ。
 付き合いだした日ってわけでもねぇし、はじめて会ったって日でもない。
 そもそも、はじめて会った頃の俺は“女なんて”が口癖だったから、正直、御堂の野郎が面倒連れ込みやがったくらいの記憶しかねぇし……。
 その話になると、いまだに怖かったと言われるから、二人の間であまり話題にしないしな。
 ……となると。
 いやいやいや、考えなくてもアレは別の日だった。
 抱きしめた体の柔らかさも、震える息も、唇の感触さえ覚えてる。
 そんなことを口にしたら、軽蔑か呆れ混じりの目で見られるかもしれないという恐れと、けどそれが男ってもんなんだから仕方ねぇだろと開き直る気持ちの間で行ったり来たりしてる俺にはおかまいなしに、目が合ったとたん頬が落ちるんじゃないかってほど笑みを浮かべられる。
 今度こそはっきりさせようと口を開く間も与えず、踵を返して食事の準備に入る背中に絶対に聞き出してやると妙な闘志が湧き起こった。
 どんなささいな事でも突破口になればと、すずと俺に関係する日を遡っていく。
 先週、先月、その前も、とうとう去年の今日まで辿り着いても、何も記憶に引っ掛からない。
 忘れていること、抜け落ちてることはない筈だ。
 すず以上に強烈な記憶を残す女なんて、俺の人生の中にはいねぇんだから。
「いったい何なんだよ」
 ぼそりと呟いて、伸ばした指に触れたグラスの水滴を振り払った。
 手際よくテーブルを整えだしたすずだけがやけに上機嫌で、謎の切れ端だけ与えられた俺は、これでもかと並べられていく好物を前に唸るしかできないなんて不公平だろ。
 すっかりぬるくなった麦茶を一気に飲み干して、こうなりゃ正攻法でぶつかるしかねぇなと、エプロンを外して近づいてくるむぎに手を伸ばした。
「どうしっ……きゃ」
「っと、あっぶねぇ。大丈夫か?」
「うん、大丈夫。だけど……。あの、麻生くん? ごはんの準備できたよ」
「わかってる」
 なんの記念かまったく心当たりはないのに、俺にとっては最高にめでたいメニューがずらりと並んで、スパイスが絡み合った芳香が早く食ってくれって言ってんだから。
 俺だって早くそうしてぇよ。
 この世で一番好きなメニューを、好きな女が……自分の彼女が作ってくれたんだぞ?
 出来立てをというすずの気持ちだって、ないがしろにしてぇわけじゃない。
 けど、こういう中途半端なのはどんなに些細に感じたとしても、ほっといたらあっという間に直しようのない亀裂になる可能性があるって、学んだからな。
「今日がなんの日か教えてくれるまで動かねぇし、離さない」
「……」
「俺は俺なりに、一生懸命考えたんだけどよ、なんも心当たりなくてさ。俺、なんか忘れてることあったか?」
「……ないよ」
「けど、今日はって言ってたじゃねぇか」
「ダメ! 絶対に言わない!」
 驚くほどキツイ口調で拒絶して、腕から逃れようとする体をあっさり抱きしめる。
 駄々を捏ねる子供みたいに身じろぎしても、体格の差は簡単にすずを閉じ込めて離さない。
 カレーが待つテーブルまでほんのちょっとの距離で、傍から見ればじゃれあってるとしか思えない攻防でも、すずも俺も互いの思惑で必至だ。
「もうっ、気にしないでよ。せっかく麻生くんの大好きなカレー作ったのに、冷めちゃうじゃん」
「だから早く教えろって。冷めちまうだろ」
「深い意味はないんだってば。ほら、夏バテ防止にはカレーがいいんだって良く言うじゃない」
「おま……誤魔化すなよ。あの口ぶりは絶対になんか別の意味があった」
 こんなのガキの喧嘩と同じレベルだ。
 御堂たちが見てたら、思いっきりバカにされるだろう。
 それだけでも同居を解消してて良かった。
 そりゃ、こいつと出会うきっかけになったのは感謝してるけどよ、女なんてとあからさまに態度に出してた俺が、えらい変わりようだと今だに事あるごとにいじられてんだから。
 誰も見てねぇなら……。
 卑怯な手だと思いつつも、膝の上で暴れ続けるすずの首筋に顔をうずめて、直接耳に注ぎ込むよう言葉を寄せた。
「こんなにさ、張り切って準備したんだから、おまえには大事な意味があんだろ? それを俺が分かってねぇのってすげぇ悔しいじゃん」
「やっ、待っ……。それ反則、麻生くんズルイッ」
「ズルくてもいいよ。教えてくれるまで離さねぇって言ったろ」
 しばらく、うぅとかあぁとか呻いていたすずの全身から、やがてふっと力が抜けた。
「言っても、笑わないのとバカにしないのと呆れないの、約束してくれる?」
 俺が求める一つの答えに対して、やけに多い交換条件が胸の下で告げられる。
「約束する」
 どんな答えでも、すずが重要と思ったんなら俺にとっても大事なことに違いないだろうから、嘘偽りない気持ちで頷く。
 時間にすれば僅かなのかもしれない、けれど長く感じる沈黙の後で、ようやく観念したという声音が小さく小さく響きだした。
「あのね、なにげなくカレンダー見てて気がついたんだけど」
「あぁ」
 やっぱり、なにか日付が関係することだったのか。
 頭の中にカレンダーを思い浮かべて、今日にどんな印がついているのか答えを待つ。
「あたしの誕生日が七月九日でしょ?」
「おまえ同い年になったって喜んでたよな」
「……そう。そして麻生くんの誕生日が八月六日でしょ?」
「そしたらまた年の差できるってぼやいてたよな」
「うん。でね、なんとなく数えてみたら……その」
「数えたら?」
 その先にどんな答えが出てくるのか、ここまできてもまったく思い浮かばねぇけど。
 笑ったりなんてしないと気持ちを込めて促すと、背に回された腕にぎゅっと力が入った。
「ちょうど半分の日が、二人の誕生日の間ってのが、今日、だったから。なんとなく嬉しくなっちゃって」
 そんだけ、と言えばそれだけかもしれない。
 わざわざ意味を見出すなんて馬鹿らしい、と思うやつはいるかもしれない。
 けど、たったそれだけの偶然のために、俺のために手間隙かけていくつものカレー作って、自分は心の中で喜ぶだけで済まそうとしてたすずの気持ちを思うと……。
 笑ったり、馬鹿にしたり、呆れたりなんて心配されてたような感情は湧いてこなくて、代わりに戸惑うほど熱い気持ちが胸を焦がした。
「すげぇ。よく気がつくな、そういうの」
「どうせっ……! ……くだらないでしょ?」
「は? なんで? そんだけ考えてくれてたってことだろ。嬉しいじゃん」
「……女ってこれだから、とか思わないの?」
「あのな……。いや、昔はそう思わせるような態度だったのは認めるけど、昔はの話だろ。俺、いま笑ってるか?」
 恥ずかしさを悟られないようにか、ずっと胸に埋められていた顔がおずおずと上がってくる。
 一瞬どきりとするほど頬を染めて、なぜか目まで潤ませていたすずは、俺の様子を確認してようやくいつもの底抜けに明るい笑みを取り戻した。
「誕生日が近いとは思ってたけど、こういう偶然も隠されてたなんて、運命って……」
 言ってから、あまりにも気恥ずかしい単語だと顔に血が上る。
 なのにすずはますます嬉しそうな顔になった。
 すずもそう感じてた、って口にしなくても伝わってくるほど満面の笑顔に、照れくささを取り繕う気も失せて自然と顔が傾いていく。
 外まで溢れるカレーの匂いに包まれてするキスなんて、他人からしたら馬鹿馬鹿しいシチュエーションかもしれねぇけど。
 俺にとってはこれ以上ない舞台で、抱きしめる腕にも、触れ合う唇にも熱がこもっていく。
 このままキスし続けて流れ的にそのまま……って思惑は、冷めてしまうからというつれないセリフで打ち消されたけど、すずに対する感情は冷めようがなかった。

あとがき

「って、ことがあったんだって。羽倉があんまり気味悪い笑み浮かべてるから、ちょっとかまかけたらあっさり話してくれたよ」
「それはまた仲がいいね。ちょっと……、ふふ、妬けるかな」
「いや、ただの馬鹿だろう。あいつらは」
なんて後日談があったらイイ予感!

誕生日創作とはいいつつも、麻生の誕生日の話ではないので
ラブラブなお話を期待されていた方には申し訳ないですが
麻生とカレーとむぎのファンタスティックコンボを書けただけで
猫百匹は自己満足

あぁ〜愛してる〜麻生〜
誕生日おめでとう麻生〜〜〜v