心から矢も盾も外して
会社の長だから社長、学校の長は校長。じゃあなんで銀行の長は行長じゃなくて頭取というんだろう。麻生くんなら理由知ってるかな? でも、少し家族との関係が和らいだとはいえ、まだ銀行頭取の御曹司であることに拒否反応がある麻生くんに訊けるわけないな。 そんな他愛もないことを考えながら、ぐるりと室内を見渡した。 革表紙の本ばかり収められている本棚は重厚で、本棚そのもので一財産になりそうなもの。いま掛けているソファーだって、しっとりとした革と体の沈み加減から相当高価だと分かる。土足でいいのかと躊躇ったほど毛足の長い絨毯も、部屋全体で一体幾らかかったのか。 皆で同居していた一哉くんの家でセレブな世界をだいぶ見慣れたはずなのに、この部屋は一種独特の雰囲気に包まれていて無意味にスカートのひだを直した。 祥慶で教師を演じていたときに一哉くんが用意してくれたスーツだから、場違いってことはないんだろうけど不安になる。 日本屈指の大銀行の頭取室にふさわしかったのかな、この格好。 先導の秘書に専用のエレベーターでしか入れない部屋で、こんなにも落ち着かないのは、調度のせいだけじゃない。 ここは静か過ぎる。 銀行本店のさらに最上階、広々とした窓からは街の喧騒は何一つ入ってこない。 壁には世界各都市の名前がついた時計がずらりと並んでいるのに、秒針の動く音すら聞こえない。 静かなのが何故こんなにも異質なのか……それは、この部屋にいるのがあたし一人じゃないせいだ。 あたしが通されて以来もうかれこれ数分間、窓の外を見つめたまま一言も発しない人の背中をじっと見つめた。 不躾な視線でも平気だろうと思ったのは、いきなり呼びつけておいて──それも当日の一時間前なんていう強引なやり方をしたくせに、通してくれた秘書に軽く頷いただけであたしの存在をきれいに無視されているからだ。 無視されているなら好都合。 はじめて見る恋人の家族、それもずっとずっと確執を抱えてきた父親を観察してみる。 麻生くんも背が高いからきっと家族も……と想像したことがあったけど、確かに体格がいいのは家族譲りみたい。でもラインはこの人の方が少しがっしりしている。麻生くんも、このくらいの年齢になったら、同じラインになるんだろうか。 ちょっとどうかと思うけど、頑なに呼んだ人間を無視しているところは、麻生くんの頑固さに通じるかも。 髪はきれいに整えてあるけどちらほらと白いものが混じっている。麻生くんが白髪になったところ……駄目、想像できない。 ……もう止めておこう。 背中を向けている相手で出来る観察なんて高が知れていて、早々に切り上げた。 大銀行の頭取様に比べたら子供の遊びみたいなものかもしれないけど、あたしだってそれなりに忙しい。一哉くん家の家政婦はまだ続けているし、今は一人で暮らしている自分の家の家事だってある。それにもうすぐ麻生くんの誕生日だから、いろいろ回って買い物もしたいし、やることとやりたいことを挙げたらキリがない。 用がないんだったら帰ります。 そう言おうと口を開きかけたその時、はじめて耳に生きているものの音が飛び込んだ。 「鈴原さんといったね」 ほんの一瞬前まで、もう帰ろうと思っていたのに。 その声に開きかけていた口が勝手に閉じた。 麻生くんの声をいくらか落ち着かせて、年齢相応の渋さを加えたような……。明らかに血の繋がりがあると知らしめる声のせいで。 驚きのせいか、何分も待たされたのにたった一言で意識を削がれた自分に無性な反発が湧いた。 どうせあたしの名前も素性も知ってるくせに、調べてるくせに。そう言ってやろうと思うのに喉からは「はい」と従順な掠れ声しか出ない。 なんで。 麻生くんを銀行のための道具だとしか見ていないような人だって。お母さんを亡くして苦しんでいた麻生くんを麻生くんのお姉さんにまかせて、父親の自分は大事な大事な銀行のことしか見ていなかったって人だって。 同居しはじめの女性全てを信じないという距離を越えて、やっと傍にいることを選んでくれた彼の苦しみをずっと見なかった人なのに、なんで。 どうして詰ってやらないのか、自分で自分が分からなくて混乱する。 詰らないことが麻生くんを裏切っているようで、自分が信じられない。 何かせめてたった一言でも……。 そう奮い立たせたとき、その人はようやくゆっくりとこちらを向いた。 「あれが世話になっているそうだね」 ほら。あれだなんて、麻生くんを、自分の息子をモノみたいに言わないでって言ってやればいいのに。 気持ちは命じるのに、別の方向から何かを引きとめる心の声がした。 気持ちより本能に近いところで言ってはいけないと悟っている。 ますます混乱して、言葉も無くただ見つめ返すことしかできない。 麻生くんの父親はあたしの瞳に何を見たのか、ふっと表情を和らげた。 「わざわざ来てもらっておいて、失礼な振る舞いを許して欲しい。悪い話ではないから安心して欲しい。ただ」 そこで少し声が途切れる。 「もうすぐあれの……麻生の誕生日だっただろう」 どこかためらうような声音を聞いた瞬間、混乱が溶けた。 本能が悟っていたのは……。 この人の中に潜む、孤独だ。 「君はどこまで聞いているのかな。あぁ、いや答えなくていい。君の目をみれば麻生が随分と信頼しているのは分かる。たぶんほとんど全て聞いているね」 答えなくていいというから、質問には頷きだけを返した。 「酷い親だと思っているだろうね」 その答えにはさすがに頷きを返せない。 この人の孤独や寂しさ、それにたぶん後悔を感じる前は、あんなにも心の中で非難していたのに。 「その通りだよ」 あたしの無言の肯定に対して、麻生くんの父親は自嘲するよう小さく笑った。 笑うと目のあたりが麻生くんに似ているかもしれない。 はじめて正面から親子のつながりを見つけて、強張っていた体から徐々に力が抜けていくのを感じる。 その雰囲気が通じたのか、それまでの無視が嘘だったかのように麻生くんのお父さんは話はじめた。 「現に息子の生まれた日に何をすればいいのかも分からないのだから、酷い親で当然だ。今さら言い訳のようだが、麻生が小さい頃は家族で誕生日パーティーなんてものをしていたこともあったんだ。頼子……麻生の母親はそういうことが好きでね。本当に細やかな気質だった」 その話は聞いたことがある。 麻生くんのお母さんはたくさんの料理とお菓子、一番大事な誕生日ケーキを準備して、麻生くんの友達を何人も呼んで、盛大だけどアットホームな誕生日パーティーをしてくれたって。 その輪の中に仕事で忙しいお父さんの姿はあまりなかったとも聞いていた、けど。 「妻が家族のためにすればするほど、私は私で必死に銀行のために働かなくてはと思った。婿養子の立場なんて脆いものだ、組織の中でしっかりとした足場を作らなくてはいつ落されるか分からない。だから必死で銀行のために働いた」 それが麻生くんのお母さん、つまり自分の奥さんをどんどん追い詰めてしまったことを、今のこの人は分かっている。 息子の恋人に弁解する必要なんてないことを、痛々しいほどの冷静さをまとった声で語りながら、あたしにではなくここにいない妻と、離れてしまった息子に聞かせるように分かって欲しいと訴えている。 はじめに感じていた反発はもう消えてしまった。 亡くしたものを悲しむこんな切ない独白を聞いてしまったら、もう。 「だから妻の両親が決めたことは絶対だと思っていた。愚かな話だろう? 羽倉を継ぐために、結局、妻を失って娘を頑なにして息子が離れた」 もう……止めてと叫びそうになって、唇をかみ締めて堪えた。 きっと、お父さんがこんなことを言うのは、今日この時がはじめてだ。 その相手にあたしが認められたなら、最後まで聞かなくちゃいけない。 これは麻生くんを裏切っているんじゃなくて、絶対に麻生くんに必要になるものだ。 「妻がなくなって次の年だった。同じものは用意してやれなくても、せめてもと思って私なりに誕生日を祝うために用意した。いや、させたと言うのが正しい。私はケーキを作ってやれないから、有名どころのパティシエに依頼して。あの年代が好むという玩具も用意させたよ」 あぁ、結果が目に見える。 「麻生は……ケーキどころか料理にも、玩具にも手をつけなかった。祖父母が贈ったのは辞典だったか、それは窓から放り投げられていたよ」 やっぱり。 だって麻生くんは、ただ物が欲しかったんじゃないって分かるもの。 気持ちが欲しかっただけなのに。 「用意するだけで充分だと出張に出ていた私が、どうしてそんなことをしたと叱ったけどろくに口を利きもしないという話を娘から聞いたのは、何日も経ってからだった。次の年も、その次の年も、そうして何年かするうちに結局、誕生日に何かすることを止めてしまった」 そこからの話は、一哉くんの家で同居する中で大体知っている。 お姉さんからの電話を無視したり、家族の話題に触れられると凄い勢いで拒絶したり、でもその後はそんな自分を責めるみたいに部屋に閉じこもって、一人もがいてる姿を見てきた。 どんなことも何とかなるって信じてるあたしが腹立だしいって、はじめのころは態度が物語っていた。 理由を知らないでムッとしていた自分が間抜けにみえるくらい、麻生くんはどうにもならない感情と記憶を持て余していた。 「何をしても気に入らないのなら何もしなくても変わらないと思う方が楽だった。でも、これだけは理解して欲しいんだが、見捨てていたわけじゃない。娘を通して麻生の話は聞いていた」 そんなことくらいしかと言いたげな表情で、ほとんど囁きに近い独白を続ける相手に、何かを答えなくちゃと思って何も言えずに首を振る。 麻生くんも家族を見捨てていたわけじゃない。だなんて、あたしが言っても意味がないはず。それは麻生くんが自分で伝えるべきことだ。たとえ後何年かかかっても。 だからもう一度、伝わるように首を振った。 そんなささいな反応で正解だったらしい。 本棚の一つだとばかり思っていた扉を開けると、中からピッチャーを取り出して注ぐ端から立て続けに二杯飲み干す。 あたしも、通されたときに出された、とっくに冷えた紅茶を一気に飲んだ。 喉が渇いていたのはお互いにで、それだけ緊張していたらしい。 同じタイミングでグラスとカップを置いて、なんとなく同時に笑った。 「最近、麻生の様子が変わってきたと聞いてね。なにが起こったのか知りたくなった。何年かぶりに私から電話をかけたよ。経済の世界でそれなりの立場を手に入れて、大抵のことは対処できるようになっていたのに、出てくれないだろうと緊張したな。出てくれてほっとしたなんて恥ずかしい話だ」 ふわりと部屋の空気が緩んだことで、麻生くんが電話に出たと分かる。 「誕生日だな、なんて今さら父親面できなくてね。元気にしてるかなんて知っていることを訊いて、最近調子はどうだとか、我ながら遠まわし過ぎる言い回しに自分で呆れたよ」 話し方が柔らかいのは、きっとその続きが良いものだからに違いない。 「驚いた。本当に驚いた。麻生の方から、いろいろ教えてくれたんだ。調子はいいとか、周りともそれなりにうまくやってるとか。そして君のことも話してくれた。付き合ってる女が……と、乱暴な言い方で悪い、今度恋人が誕生日を祝ってくれるとね」 麻生くんらしい表現に思わず笑ってしまう。 麻生くんの性格からして、彼女や恋人だなんて言葉をお父さんに言えなかったのは照れくさかったからだ、絶対。 「御堂くんや一緒に暮らしていた子たちの影響も大きいのだろうが、それで、君の存在がなによりだったことが分かった」 続く言葉にあたしまで照れくさくなってしまう。 好きだから付き合って、好きだから傍にして、喧嘩したり仲直りしたりそれだけしかしていないのに、まるで重要人物みたいな扱いだ。 「えっと、自分ではよく分からないですけど」 まるっきり否定するのは彼女としてちょっと……。 中途半端な愛想笑いで答えると、間違いなく父親の顔をしたお父さんにあっさりいなされる。 「謙遜しないで、これからも麻生の傍にいてやってくれないか。君をだしにしているようで不快かもしれないが、取り戻したいんだよ、息子を」 後半の言葉をこの部屋に来る前のあたしが聞いたら、麻生くんを道具にするなって噛み付いていたかもしれない。 けど今は、この人が羽倉銀行頭取としてではなく、羽倉麻生の父親として言っているのだと自然に沁みこんで来る。 「それ以来、君と会ってみたいとずっと思っていて、きっかけを掴めればと思ったら矢も盾もたまらなくなって、突然呼び出してしまってすまなかった」 「私もお会いできてよかったです」 私も、には麻生くんも入っている。 きっかけはすぐそこにあるって、今の麻生くんならきっとすぐに分かる。 まるでボタンの掛け違えでちょっとずつずれてしまっていたそれぞれの気持ちが、徐々にあるべき姿になるような瞬間にあたしを入れてくれて、心から感謝したい。 「今のお話を麻生くんにしたら喜ぶと、思います。どんな誕生日プレゼントよりも……。あたしが言うのもあれです……けど」 ありがとうだなんておこがましい気がして、頭を振り絞って考えた言葉は繋げば繋ぐほど、余計におこがなしいものになっていくようで、だんだんと語尾が細くなってしまった。 おそるおそる窺うと、はじめて心から晴れたような笑顔を返してくれた。 その笑顔は麻生くんの笑顔とそっくりだった。 送らせるという言葉を固辞して銀行を出ると、八月の強気な太陽がぎらぎらと街を照らしていた。 いつもならうんざりする暑さが何故か妙に気持ちいい。 八月は麻生くんの生まれた月だもの。 どんなに厳しい冬だって、陽の光に温められて雪解けして、やがて夏に──八月がやってくる。 座りっぱなしで強張っていた背中を伸ばし、その光を全身に受け止める。 それだけで汗が浮かんだけれど、やっぱり気持ちいい。 今日は家事を全部後回しにして買い物に行こう。 麻生くんの誕生日の準備をするために、麻生くんの好きなカレーの材料や、あまり甘くないケーキの材料、他にもいっぱいいっぱい喜ぶものを用意しよう。 白髪頭の麻生くんを想像じゃなくてこの目で見れるまで毎年、誕生日をそうやって祝っていたい。 来たときの重い足取りとはうって変わって、気がつかないうちに小走りになりながら、そんな未来に夢を馳せた。 |
あとがき
麻生パパン捏造の巻。
2010年の麻生ハピバ☆創作は
本当ならギャグ寄りのものになる予定でした。
カレー納豆とか、カレーラムネとか、
創作に登場させようとしていたものだけでギャグだと分かるくらいにね!
でも
仕事中にふっとこれが浮かんでしまってね。
6日には間に合わなくてもいいや!って
急遽変更したのですが間に合っちゃったんだから
愛ってスゴイ。