けんせい球はストレート


 ふぅとため息をついて、水気を吸ったタオルを力任せに絞った。
「食器は、片付け終わり」
 そしたら、あとはもうやることないんだよね。
 きれいに整ったキッチンを見渡して、頭の中のメモ帳に“済”のハンコを押す。
 だからもうここには用がないんだけど……。
「一哉くん、またコーヒー頼んでくれないかな」
 いつもはあたしが何をしていてもお構いなしに、容赦なく要求されるコーヒーに文句の一つや二つもでるところだけど、今日ばかりは願ったり叶ったりだ。
「でも、さっき持っていったばかりだしなぁ」
 いくらカフェイン中毒の一哉くんでも、三十分前に飲んだばかりじゃ、気を利かせたふりして持っていっても“いまはいい”って断られるのが目に見えている。
「どうしよ……」
 磨き上げたシンクに、これ以上ないってほど困った顔のあたしが映っていた。

 だって、本当にどうしたらいいのかわかんないんだもん。

「はぁー」
 声に出るほどのため息をついて、シンクに寄りかかる。
 頭の中では、この数日の彼の態度が、疑問符つきでつぎつぎと浮かんでいた。





 昨日は買い物に付き合ってくれて、荷物を持ってくれた。
 玄関でばったり会った依織くんが、車を出そうかって気を使ってくれたところに彼が現れて、俺が荷物持つからいいって言ってくれたから。
「ふふっ」
 思い出して笑い声が出てしまう。
 実は、メニューの相談をしながら歩いたり、一つのカゴを二人で持ってスーパーを回るのって、何だか新婚さんみたいなんて思ってた。
 お店を出たところで空いたほうの手を急に差し出されて、家までの道のりをずっと繋いで歩いた。
 恥ずかしさと照れくささがごちゃ混ぜになって、何も言えないままだったけどすごく嬉しかった。
 自分からそう仕向けたのに、彼も目が合うと真っ赤になって逸らしちゃったのは、きっと同じ気持ちだったからだと思うんだけど。
 だったら何で手を差し出してくれたのかが、わかんない。

 一昨日は夕食の準備を手伝ってくれたんだよね。
 めずらしく、あの瀬伊くんが手伝おうか?って聞いてきた時に、突然“俺が手伝う約束してたから、いい”って。
 そんな約束してなかったのにって聞ける雰囲気じゃなくて、引っ張られるようにキッチンに連れて行かれてさ。
 でも、一緒に同じことをするのって何だか凄く幸せで、ほんとは別のメニューにするつもりだったけど、急遽カレーに変更した。
“おっ、いいな!”って喜ぶ顔をみてたら、なんで“約束してた”なんて言ったの? ってますます聞けなくなっちゃった。
 付き合うようになってから、いつの間にかこのキッチンに種類が増えたカレー用のスパイスを、二人でああでもないこうでもないと足していくのは、実験みたいで楽しかったんだけどやっぱり引っかかってる。
 ……彼が勘違いしてただけ? それともあたしの聞き間違い?

 その前の日は、あ、そうそう。
 もう仕事が終わるころに、携帯がなって一哉くんにコーヒーを頼まれた。
 相変わらず五分でなんて無理いうから、ぶつぶつ文句をこぼしてたら彼に聞かれちゃって……。
 “あいつもたまには健康的な飲み物をのんだほうがいい”って、冷蔵庫からいくつか取り出すとアッという間に“特製ジュース”を作ってくれたんだよね。
 ハマってるって自分でいうくらいだから手際が良くて、出来たものは見た目はもちろん味もおいしそうだった。
 あたしの仕事なのにオマカセしちゃったから、せめてあたしが持っていこうとしたのに、一哉くんにちょうど用事があるから俺がもっていくって。
 ──用事があるってほんとだったのかな?

 疑ってしまう自分がすごく嫌になる。

 だって……こんなに優しいのに、ふたりきりになると目も合わせてくれない。
 帰宅途中の人であふれた夕方の道では手をつないでくれても、彼の部屋でふたりっきりになった時、指先が触れた瞬間には思いっきり振り払われてしまった。
 寝る前にちょっと話をしたくて、部屋に行っても“これから風呂はいるから”って。
 話をする気分じゃなかったのかな?
 会話がなくても、顔を合わせて、同じ部屋にいるってだけでよかったのに。
 こないだの日曜なんて、3人みんな出かけて、せっかく二人きりでのんびり過ごせると思ったのに、急に“ダチんとこ行ってくる”って。
 避けられてるって……思っちゃうよ。
 このごろ、ずーーーーっとそんな感じ。
 友達と、ビリヤードと、あたし……どれが一番、大事? なんて聞けない。
 そんなヤキモチ焼いてるの知られたら、呆れられてしまうかもしれないし、はっきりと友達とビリヤードの方が大事って言われちゃったら立ち直れない。

 なんで?
 優しかったり、そっけなかったり。
 ほんとに、麻生くんの態度が、気持ちがわかんない。





 住み込みを始めた頃にはみえなかっただけで、ふとした瞬間の気遣いや優しさは変わってない。
 ぶっきらぼうだけど、気がつけば一番そばで支えてくれてる。
 だからいつの間にか好きになってた。
 気持ちに気がついてからは、いま何をしているのか、どんな事を考えてるのかとか、ぜんぶ知りたいって思っちゃう。
 あたし、けっこう独占欲が強いのかも。
 どうして急に優しくしたり、逆に避けたりするようなマネするのか、理由が知りたい。
 なんど彼の部屋の前までいったんだろう?
 また避けられるんじゃないかって、ドアをノックできないまま部屋に戻るのが日課になってしまった。
 知りたい気持ちより、不安のほうが強いんだもん。

 いまだって、キッチンの掃除が終わってもぐずぐずと居座っているのは、顔を合わせたときにどっちの麻生くんなのか想像できないからだった。

「うーん」
「なにを唸ってるんだ?」
「は? あ、うわぁ一哉くん!」
「驚きすぎだ、馬鹿。ずっと声をかけていたのに一人で百面相して、お陰で面白いものを見せてもらったぜ。で? また馬鹿なことで悩んでたのか?」
「ちょっと、さりげなく馬鹿バカって連呼しないでよ。なにか用だった? ……あ、コーヒー!?」
「なんで嬉しそうに聞くんだ。いつもは文句たらたらのくせに」
「それは、ちょっとこっちの事情ってやつで」
 笑ってごまかそうとしたのに、曖昧さを嫌う一哉くんは眉を軽くあげただけで、あたしの気持ちを溶かしてしまった。
「あの、さ。実は」
「うん?」
「麻生くんのことで、ちょっと悩んでるっていうか腑に落ちないっていうか」
「あぁ」
 やっぱりなという顔をして、ふっと笑われてしまう。
 高校生やりながら会社も経営してる一哉くんにとっては、どうせ“馬鹿なこと”なんだろうけど。
 あたしにとっては大事なことなんだもん。
「なんかね、この頃……よくわからないの」
「よくわからない、とはどういうことだ?」
 自分がつきあっている人を理解できない情けなさと悔しさが、うまく説明できないもどかしさに合わさって、次の言葉を消してしまう。
 それに、こうして話すことが麻生くんを信じてないって、裏切ってるみたいで。
 疑問は心の中で渦巻いているのに、頭が追いつかない。
「うぅ」
「おまえな」
 呆れた声にますます身がすくんでしまう。
「馬鹿が無理に考えたって、仕方ないだろう。うまく言おうと思わないで、とにかく吐き出してみろよ」
「う、ん……。あのね」

 ポタンと、水滴がシンクに落ちる音が鈍く響いた。
 きちんと締めたはずの蛇口の先から、ゆっくりと気がつかないうちに溢れていた雫は、まるで今のあたしの気持ちみたいだ。

 ぽつりぽつりとこの数日の出来事を説明していく。
 同じ家で暮らしてるんだから、一哉くんも皆も、何かおかしいってもう気がついていたのかもしれないけど、できるだけ自分の言葉で感じたままを言おう。
「差がありすぎるの、態度に」
 繋いだ手の温かさと、振り払われたときの凍りついた感じの差が、ふいに指先に蘇る。
 両手を握り合わせて、震え出しそうになる指先を誤魔化すと、あれこれ考えるより先に唇を動かした。





「と、いう訳なの」
 今日何度目か分からないため息をついて、ずっと黙ってとりとめのない話を聞いてくれていた一哉くんの返事を待った。
 知恵を授けてくれるんじゃないかって、縋る気持ちで様子を伺う。
 オトコの人にしかわからない事もあるかもしれないし。
 腕を組んだまま目を閉じて、もたれていたカウンターから体を起こして、口元がかすかに引きつっ……て?
「くっ」
 ──え?
「おまえ本当に、馬鹿だな」
 な、なんでそこで笑うの!?
「世界の終わりみたいな顔してるから、なにかと思えば」
 面白いジョークを聞いたって顔で、声をあげて笑う一哉くんを呆然と見つめる。
 あたしは、麻生くんの気持ちがわかんなくて、自分がどうしたらいいのかも本当にわかんなくて、悩んで悩んで話したのに、その返事が爆笑!?
「ちょっと! あんまりじゃない?」
「なにがだよ」
 口元を押さえて、笑いをこらえながら見つめ返す目を睨みつけた。
「人の話きいて大笑いするなんて」
「笑わずにいられるか。あれだけわかりやすい羽倉の態度を、当の本人がまったくわかってないんだからな」
 わかりやすいって……。
「わかんないから相談したんでしょ!」
「頭で考えてるからだ、馬鹿。難しくしてるのはおまえ自身だろ」
 なんなのよ。
 ぜんっぜん、わかんない。
 先生にわからないところを質問したら、もっと難しい問いを出された気分だ。
「これじゃあ、羽倉も前途多難だな」
「その言い方……あたしが悪いっていうの?」
 思い当たるふしがありそうなのに、にやにやと笑うだけで返事は返ってこない。
 いじわるで教えてくれないって雰囲気じゃないみたい。
 やっぱり自分で答えを探さなきゃダメってこと?
 男の人と付き合うのなんて初めてなのに。
「はぁー」
 もしかしてあたしが気がつかないうちに、なにか麻生くんにしちゃってたの、かな?
 この数日、ううんもっと前から、自分がなにをしたのか必死で頭をめぐらせた。
 それは麻生くんの態度をおかしいって思い始めてから、なんども繰り返したことで、いまさら思い返しても何がいけなかったのかわかるはずないってわかってるのに。
 でも、このままぎくしゃくとした状態でなんて、耐えられない。

 三日前。
 一哉くんにコーヒーを頼まれたときは?
 違う。
 もっと前から軸がぶれたような違和感はあった。
 水滴がじわじわと溢れるみたいに、毎日の中で疑問と不安が膨らんでいったんだから、どこまで遡ればいいんだろう。
 気持ちはあっという間に、あの夜へと巻き戻る。
 告白されてすごく幸せで、抱きしめられたとき恥ずかしさよりも嬉しさで胸がいっぱいだった。
 ずっとそうしていて欲しいって思うくらいに。
 気持ちが伝わったのか、抱きしめる麻生くんの腕に力が入って……あたしは大好きな人を独占できる喜びで頭がくらみそうだったのに……いまは正反対。
 抱きしめるどころか、ふいに触れた指すら払われてしまってる。
 ……なにがいけなかったんだろ。

 物思いに沈むあたしの耳に、キッチンに近づいてくる足音が飛び込んできた。
 この歩き方は麻生くんだ。
 はっと顔をあげると同時にドアが開く。
「鈴原? ここにいるのか……」
 あたしの名前を呼ぶ声が素通りして、麻生くんの意識はまっすぐ一哉くんにむけられた。
「また、こいつこき使ってんのかよ?」
「……いや」
 一哉くんは、面白そうにあたしと麻生くんを見比べながら、もう笑いの引いた顔で寄りかかっていたカウンターから身を起こすと、小さな声で“やれやれ”と呟いた。
「明日の夕食は不要になったと伝えに来ただけだ。おまえの縄張りを荒らしに来たわけじゃない」
 縄張りって、なによ。
 そりゃ、一哉くんの家かもしれないけど、キッチンはあたしのお城なんだから。
 軽くむっとして視線をむけると、一哉くんはドアのほうをむいたままで。
「頭で考えるより、ぶつかってみろよ。おまえの得意分野だろ?」
 そして通り過ぎ様に、もっと小さな声で囁いて出て行ってしまった。

 残されたキッチンに、また水滴が落ちる音が響く。

「あ、麻生くん……なにか用事だった?」
 会話がない静かな雰囲気にたえかねて、むせるように口を開いた。
「あー……手伝うことないかって思ったんだけど」
「う……ううん、大丈夫」
「あ、あぁ、終わったみてぇだな」
 どこか困った顔で見渡すと、もう背をむけはじめている。
 やっぱり目も合わせてくれない。
 広い背中が無言で拒絶してるように感じられて、心がちくっと痛む。
 ……また同じことの繰り返し?
「じゃ、俺は部屋に戻っ、うわ、お……おまえ何してっ」
 嫌だと思うより先に、体が勝手に動いた。
「離せって」
「やだ。絶対に離さない」
 麻生くんがあたしから離れていこうとするなら、何度でも捕まえる。
 そうだよ、一哉くんだって“ぶつかってみろ”って言ってたじゃない。
 いくらうじうじと考えたって埒が明かないなら、本人に聞くしかない!
 腰に腕をまわしてしがみついているあたしを引き離そうと、麻生くんの指がかかる。
 解かれないよう力を入れると、顔を背中にうずめた。
「あたし、なにか怒らせるようなことした?」
 頬に伝わる心臓の音に負けないよう、声にも力をこめて不安の種を尋ねる。
 手に添えられた形になっていた麻生くんの指が、びくっと震えたのが見えなくてもわかった。
「なんだよ、それ。なんでそう思うんだよ」
「だって、こうしてふたりきりになると、目も合わせてくれないし、すぐに離れようとするし」
「……それは」
「なのに、みんなの前じゃすごく優しいんだもん」
 あんなに怖くて聞けなかったことが、自然と口をついて出た。
 腕の中に麻生くんがいる、それだけで勇気が湧いてくるみたいだった。
「だからあたしが気がつかない間に何かしたのかな? って……。だったら教えて。優しかったと思えば、急に避けられたり。こんなの嫌だよ」
 自分から抱きつくなんて大胆なことをして、顔が赤くなっているのもこうしてれば見えないから。
 一気に言ってしまうと、目を閉じてさっきより早くなってる鼓動に浸った。
 匂いも、腕の下のあたしとは全然違う体つきも、感じるのは久しぶり。
「すず」
 途方にくれたような響きで、小さく名前を呼ばれる。
 ふたりの中でいつの間にか定着した、麻生くんだけの呼び方。
 そう呼ばれるのすら久しぶりかもしれない。
「なぁ、おまえが悪いとかじゃねぇんだって」
 だったらどうして、と喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、麻生くんが話してくれるのを願った。

 沈黙に水滴が落ちる音が割り込む。

「離せ」
 時間にすればほんの数秒、でも永遠にも感じられる沈黙の後の、きっぱりとした言葉に思わず腕の力が抜けた。
 ……やっぱり、これ以上は無理なのかな。
「ごめん、急にこんなことし、てっ」
 おずおずと体を離していたのに、突然、視界がぐらっと揺れた。
「え?」
 背中を強く引き寄せられて、ようやく自分が麻生くんの胸に抱き寄せられているのだと気がつく。
「こういう風に抱きしめて、もう離したくねぇって思っちまうんだよ。その、ふたりでいると」
 頭の上から言葉が降ってくる。
「おまえを独占して、他のやつらの目に入れさせたくねぇって気持ちとで、どうしていいのかわかんなくなるんだ」
 わかんなくなる? ……麻生くんも?
 だからあんなに両極端だったの!?
「おまえが怖がっちまうんじゃねぇかって……だから、避けてるつもりはなかったんだけど、悪かった」
「なぁんだ」
 安心して体から力が抜けそう。
「なんだ、って……俺がどんな思いで言ったと」
「だって嬉しくて」
 力が抜けるまま、抱きしめている腕に体を預けてくっついた。
「あたしだけじゃなかったんだ」
 自分の気持ちをどうしていいかわかんなくて、相手がどう思っているのか不安になって。
 なんだ。
 離れてるようでも、ふたりの間にあるものは同じだったんだ。
「あたしも麻生くんを独占したいよ? 怖いなんて思わないのに」
「いや、あのな? おまえが思ってるような意味じゃ……」
「え、なに?」
 呟きにおもわず顔をあげると、真っ赤になった麻生くんと目があった。
「み、見んなって」
 視線を逸らされちゃったけど、いままで感じてたような不安は浮かんでこなかった。

 ようやく捕まえた。

「ね、これからはさ。いろんな事ちゃんと話し合おうよ」
「……あぁ」
 背中にあたる腕にぐっと力が入って、持ち上げられるみたいに……体が近づく。
 頬にゆっくりと手を添えられて、その指先のあったかさに躊躇いがあっという間に溶けていった。
 そっと胸に手の平をあてると、気持ちが伝わってくるみたいで。

 どちらからともなく唇をあわせる音を、こぼれる水滴の音が隠してくれた。

あとがき

苦労する麻生が、かわいくてかわいくて大好きです
アノ3人が相手じゃ
そして鈍感むぎが彼女じゃ
ずっと苦労すると・・・
ガンバレ麻生!
最後にキスシーンをいれてあげたから!(笑)