自覚のルース


 音を消していた携帯電話が振るえて、低い振動が積んでいた書類を揺らした。
 山が崩れて、机から落ちそうになるのを横目で見てから、名前を確認して眉を寄せる。
 なぜ今日このタイミングなのか思い当たるふしはないが、出ないわけにもいかないか。
 キーをいくつか叩いて画面が黒く落ちる合間も、振動は書類を揺らし続けていた。
 すでに決断が済んだ書類はシュレッダーにかけられるのを待つだけで、バラバラに崩れたところで秘書に任せればいい。
 これが自宅だったら、あいつに任せる。
 無駄な努力をしたところで、何の解決にもならないのは俺自身が一番わかっているからな。
 震えがついに紙を散乱させたところで、一呼吸おき通話ボタンを押すと、ディスプレイに浮かんでいる懐かしい名を呼んだ。
「松川さんか、なんの用だ?」
「相変わらず単刀直入だね。一哉」
 同じ屋根の下で暮らしていた時と同じ、愛想のない切り口で電話に出たのに、いまも変わりない穏やかな苦笑いを返される。
 時間が遡って、四人と一人で暮らしていたときのような、気軽な雰囲気が電話口から溢れてくるようだった。
 表の顔の象徴である社長室とは対照的な空気は、やけに懐かしくて、そして少し胸をざわつかせる。
 咳払いを一つして電話を持ち直すと、奥から幾人もの気配が伝わってきた。
「用件がなければ、松川さんがわざわざ男に電話なんてしないだろう。あんただって、稽古で忙しい時期じゃないのか」
「確かにそれはそうだけど。散々な言われようだね」
 どこがだ? と、言い返したい気持ちを堪えて話を進めるべく先を促す。
 今日はさっさと仕事を切り上げて帰りたい理由があるのだから、たとえ数秒でも無駄話に費やしたくはなかった。
「稽古の途中にわざわざ掛けてくるんだ、よほど重要な用件か」
「重要、といえば重要かな」
 急いているのを気取られないよう鷹揚に切り出したからか、松川さんはやけに静かな声音で謎めいたセリフを吐いて気をもたせる。
 ちらと時計を確認して、ため息を押し殺す。
 じれた気分がやっと伝わったのか、向こうの雰囲気がふっと変わった。
「一言、伝えておきたくて。一哉、君きょう誕生日だろう」
「珍しいことが重なる日だな。あんたが俺の生まれた日を覚えていたなんてな」
「そこまで薄情じゃないさ。仮にも一時は一緒に暮らした相手だし」
 気を悪くした様子もなくさらりと流されたけれど、俺は松川さんを薄情と思ったことはない。
 ただ、どこまでもフェミニストで徹底してるから、わざわざ男の誕生日に電話をかけてきたことに純粋に驚いただけだ。
「それでわざわざ。サンキュ」
 説明も億劫だと短い礼だけ告げると、引き止める言葉が耳を通る。
「どういたしまして。あぁそうだ、一哉。あまり遅くなるのも迷惑かと思っていま掛けたんだけど、まだ仕事中だったかな。邪魔したなら悪かったね」
「いや、いいタイミングだったぜ」
 自宅で、あいつが張り切って用意している食事の最中なら邪魔だと感じただろうし、もっと遅い時間なら、おそらく気がつきもしないで放置していただろうからな。
 そういう間を読むのは、さすが松川さんといったところか。
「ならこれから食事かい? むぎちゃんが腕によりをかけて準備しているんだろうね。羨ましいよ」
「あいつの手料理を食えるのは、いまは俺だけだからな」
「そうだね……ふふ」
 何気ない会話の端々から、ディスプレイを見た瞬間に感じた違和感が、急速に膨らんでいく。
 妙な予感、それも不愉快な類のものがじわじわと広がって、体を覆っていくような感覚。
 疑問を口にしていいものか我ながら珍しく躊躇っていると、ふっと短く息を吐いたような笑いが聴こえて、違和感の正体が、はっきりと形をつくりだした。
「むぎちゃんに伝えてくれるかい? 先日は席を外していたから直接受け取れなくて、お礼がまだだったんだ」
「礼? あいつがなにかしたのか」
「バレンタインに届けてくれたんだよ、チョコレートを。俺と……あと皇にも。受け取った皇の話の様子だと、たぶん麻生と瀬伊も受け取ったんじゃないかな」
 声の調子だけ聴けば、他意はないと思いそうになるけれど、あいにく俺はこの人の性格を嫌というほど知っている。


 やはり、松川さんは徹底的なフェミニストだ。
 一言伝えておきたかったのは、そっちの件だろ。


「ホワイトデーまでお礼を引き伸ばすのも彼女に悪いと思って。じゃあ、邪魔したね」
「……いや」
 掛かってきたときと同じ、唐突に切れた電話を見つめ数秒の思案ののち……。
 まだ温かい電話を持ち直して、掛けなれた番号を押した。





「早かったんだね。朝の様子じゃもっと遅くなるかと思ってたから、いきなり電話貰ってビックリしちゃった。仕事、はやく終わったの?」
「そう……だな」
 ネクタイを受け取りながら、朗らかに捲くし立てるすずが一息ついたところで、歯切れの悪い返事を返した。
 幼い頃から叩き込まれた帝王学が、心の内をあざ笑っているようで落ち着かない。
 言葉を濁せば決断力と統率力を疑われるからと、教えられなくとも俺がなにかで躊躇ったことなど今までなかったんだが。
 思いを他所に、すずは慣れた手つきでてきぱきと、俺が渡すものを片付けていく。
 毎日の光景だというのに自然と視線がひきつけられて、手際のいい仕草に感心する。
 欠けているところを無邪気に補って、押し付けがましくない好意は、いつの間にか当たり前だと錯覚すら起こしてしまう。
 鈴原むぎという女は、思うまま自由に生きているから、ふとした瞬間にその存在の貴重さを思い知らされる。
「よしっ、これはあとでクリーニングに出せばいいし。おわりっ」
 あっという間にくつろぐだけになって、どさりとソファーに腰をおろした。
「なんだか疲れてるみたい……。あ、まさか無理して切り上げてきたんじゃない?」
「いや、なんともないぜ」
「でも……」
「もう落ち着いた」
「ふぅん、じゃあ良かった」
 なにに納得したのか、それでも満面の笑みで嬉しそうな姿が、本心から良かったと思っているのが伝わってきた。
 自分が口にした言葉を裏付けるように、どこか緊張していた神経が落ち着いていく。
 同時に、その感覚に新鮮な驚きを感じた。
 落ち着くと思うのは、それまではその対称な状態だったのか? この俺が。
 御堂グループの次期総帥として、現在も傘下をまかせられていて、経営者としての緊張感なら何度も味わっている。
 気持ちが引き締まる心地いい緊張感と、胸に巣食っていた緊張感はまったくの別物に思えて、松川さんの電話から後、知らず知らずのうちに少し張り詰めていたと気付きもしなかった。
 こいつは俺にはじめて目の当たりにする感情を、まざまざと見せ付ける。
 弱さや脆さと混同しそうで、目を背けたくなる揺らぎも、だ。
 

 こいつは、凄い女だよ……ったく。
 この俺に嫉妬させるんだからな。


「来いよ」
「え?」
「いいから、早くここに来い」
「う、うん」
 差し出した手を、すずが戸惑いを浮かべつつも掴んだ瞬間に、引き寄せて抱きしめた。
「ね、やっぱり仕事大変だったんじゃない? きょうは一哉くんの誕生日だから、いろいろ作ろうって準備してたんだけど、簡単な食事にしてすぐ休む?」
「すこし大人しくしてろ」
 言いながら、今にも立ち上がろうとする体を腕の中に捕らえて、確かな温かさを補給する。
 わずかに早い鼓動も、立ちのぼる自然な香りも、柔らかな髪も肌も、すべてが俺のものだ。
 もちろん、気持ちも。
「おまえ……頼まれたら誰にでも作るのか?」
「は?」
 唐突な会話にきょとんと音がしそうなほど目を丸くして、言われた意味がわからないと表情が返事をする。
「たとえば誕生日だから食事を作ってくれと頼まれたら、相手が誰でも、義理で作るのかと訊いたんだ」
「誰でも、って……」
 わずかに伏せた顔のなかで、疑問符が飛び交っているのがみえる。
 やがてパッと明るくなると、待ち望んでいた答えが耳をくすぐった。
「ううん、一哉くんだけだよ」
「そうか、ならいい」
 行為の意味ではなく、込められた感情に意味があるなら、それでいい。
 満足のいく返事に納得する俺とは対照的に、なにもわかっていないすずが首を傾げるのにあわせて、ゆっくりと唇を重ねた。

あとがき

この話を思いついた日の夜
取調室で、一哉にむかってドラマCDを再生しながら
「君が独占欲強くて、意外とオトメンだというネタはあがってるんだ!」
と問い詰める夢をみました

バレンタインの4日後が誕生日だから、の話
義理チョコにすらヤキモチやく御堂グループ次期総帥

夢の続きで
「だからどうした。ふん」
とパイプ椅子にふんぞり返られました

なにはともあれハッピーバースデー!一哉