天秤の片側
ふと時計を見、一休みでもと思ったと同時にドアが開いてすずの顔が覗いた。 「コーヒー欲しいかなと思って」 はにかんだ笑顔を共に差し出されたトレイの上で、いつもの豆の温かい香気がふわりと渦を巻く。 「あぁ、助かる」 「どういたしまして」 もう数えきれないほど繰り返されたやり取り。 丁寧に挽いたことがわかる雑味のない香気は、長い時間モニター画面を見つめ続けて、知らず張りつめていた神経を柔らかくほぐす。 「さすが、いいタイミングだな」 恋人だからこそ通じる頃合いと、押しつけがましくない心配りに口角があがる。そのセリフを聞いて、すずは俺よりもっと嬉しそうな顔になった。 「この時間まで仕事してる時は、だいたい今のタイミングで休むじゃない。ほんとはミルク入れて飲んで欲しいとこだけどね」 ちくりと刺された心配の棘に苦笑して、それでも俺の好み通りブラックで注がれたコーヒーを口に運ぶ。 ここで一休みしたら、後一時間は仕事をするのを知っているすずからは、“深夜に胃に負担がかかる”や“飲みすぎ”と何度か苦言を呈されている。せめてミルクでやわらげて欲しいという気持ちは分かる。 分かるが、家の中でくらい誰に遠慮することなく好みを優先させたい。 結局はそれを理解し、毎回ブラックで用意してくれる配慮が愛おしい。 今日も気遣いだけ受け取って飲み進めていると、くすくすと小さく笑い声がした。 「しょうがないなぁ。ほんっと好きだもんね」 そこで何か思いついたのか、あっという顔をする。 「そろそろなくなりそうだから買っておくけど、同じのでいい?」 すずはどの店でどう注文すればいいのか知っている。俺が飲む量も計算して、常に新鮮な豆を用意しておくのも。いつも通り頼むと答えかけて、ふと考える。 「……いや、豆は同じで深煎りにするよう頼んでおいてくれ。あの店ならそれで通じるはずだ」 深煎りにすればわずかでもカフェイン量が少なくなると思いだして、すずの気遣いに応えるつもりで答えると、予想外だったのか思ったより驚いた顔をされた。 「え……うん、わかった」 何事か言いたそうな表情を浮かべながらも、空いたカップを持って部屋を出ていくすずが何を考えているのか、俺は何もわかっていなかったのだと気付くのはそれから数日してからだった。 ◇ 「今日はどっちのネクタイにする?」 セリフだけならかいがいしく世話をやく恋人か妻のそれが、すずの目に浮かぶ真剣さで妙な違和感となって投げつけられる。 右に軽やかなグレー、左に濃厚なグリーンのタイを手にして笑顔だけはいつも通りだ。 出かけるまでに残された時間と、ぎりぎりまでずらせる予定を一瞬で計算してから 「そうだな……そっちのグリーンで」 左を見る、と見せかけてすずの表情を窺う。 案の定、すずは目に動揺を浮かべながら、何度かネクタイの間で視線を往復させた。 今日のスーツの色なら、今まで間違いなくグレーを選んでいた。その俺が急に変えたのだから納得できない、目にはそう書いてある。 こんな出来事は今だけでなく、この数日、品を変えて繰り返されていた。 色だけではなく、生活のほぼ全てで。 ──味噌汁の出汁変えたのか? うん、どっちが好きかな。 ──新しいタオル用意したんだけど。 あぁ、いいんじゃない。 前のより? 何をはじめたのか分からないが、はじめは試されているようで面白くなかった。 本人が隠しているつもりでいるから気付かないふりをしていたが、一回二回ならまだしもここまで繰り返されると、意図を掴みたくなる。 しかも今日はいつになく露骨だ。 他の選択肢は、“どちらを選んでもさほど違いがない”ものだったのが、グレーのタイとグリーンのものではまったく印象が変わる。母親の職業病もあってか、服飾に関して常識をはみ出ることのない価値観を持つ俺が、グリーンを選んでくれるなと言わんばかりのもの。 「そっかぁ……うん、こっちね」 すずの声は途端にしおれはじめた。 少しからかうつもりで逆のネクタイを選んだだけのつもりが、今までになく落ち込んだ素振りを見せるすずが気になって、ついと距離をつめる。 「どうした?」 「な、何でもないよ?」 グレーのタイをクローゼットに戻し、取り繕った声で当たり前のようにシャツの襟に伸ばされた指先を捉える。 「俺をごまかせるつもりでいるのか」 「だから! 何でもな」 「ないって態度じゃないだろう。最近の二拓はなんなんだよ。新手のゲームにしてはおまえらしくない」 間近で覗きこんでいる目の奥に、気まずさが浮かんで消える。 「やっぱ気付いてたんだ」 「この俺が気付かないと思われていた方が心外だぜ」 そこはかとなく憮然とした言い方になったのを、すずが苦笑で引き取る。 「一哉くんは何でもわかっちゃうんだね。あたしは……」 次のセリフの前にきゅっと唇を噛んで俯くすずの頬に手を添えると、ほんの一瞬寄り添った体がふいに強張る。 シャツの胸元に顔が落ちたと思ったら、大きく息を吸う気配がして 「なんで一哉くんの誕生日は二月十八日なのよ!」 続いた言葉に唖然とした。 言ってからすず自身も脈絡がないことに気付いたのか、苦い顔をする。 「これは、その、あー」 「俺がどうこう出来ない問題で責められる訳を教えて貰おうか」 言いきられたからには逃がすつもりはなく、体勢を利用して腕の中に閉じ込める。 予定を崩せるタイムリミットは、秘書の力量を問うということで片づける。 壁に背中がついて観念したのか、すねた声色がとつとつとシャツに吐きだされはじめた。 「今年のバレンタインと、一哉くんの誕生日、あたしが贈ったの覚えてる?」 「忘れるわけがないだろう、馬鹿」 品だけでなくどんな包装をされていたのか、シチュエーションもセリフも思い出せる。 すずも、忘れているだろうと疑問に思っているわけではないらしく、会話の糸口にすぎなかったようだ。じゃあ、と二つ目の問いが投げかけられる。 「どっちも、他の人から貰った物の中に被ってたのは?」 こちらはさすがに記憶を辿らないと即答ができない。少し巻き戻して、肩をすくめる。 「そうだったか? リスト化はされているから見れば思いだすだろうが」 対して問題にも思わず答えた俺の腕の中で、すずの体が脱力した。 「そうなんだってば……。バレンタインも誕生日もあたしなりに精いっぱい考えて決めたのに、どっちも被ってて……。それに、どっちもすごく高そうで」 堰が切れた告白は止まらない。 「一哉くんの誕生日がバレンタインのすぐ後だからって、すっごく頭使って選んでも他の人と同じになっちゃって」 合間合間に、恥ずかしいや情けないと卑下する言葉を挟みながら、最後はごめんなさいと締めくくられる。 「隠してたつもりだったけど、バレバレだったら嫌だったよね、ごめんなさい。判ってるつもりで、コーヒーの好みもいまいち把握できてなかったから、今からリサーチして来年こそは! って思ったんだ」 数日前の光景が脳裏をよぎる。 すずの気遣いを受けて、せめてカフェインを減らすかとローストを変えて頼んだのが、引き金になるとは。 つくづくこちらの予想をいい意味で裏切られて退屈しない。 しょんぼりと首から力が抜けたすずの頬に手を添え、眉の下がった顔にふっと微笑む。 「ばーか。他と同じなわけがないだろう」 「……一哉くん」 「お前が選んだ、それだけで特別だとわからないのか」 「あ、ありがと……あの一哉くん」 「いくら高価だろうが、その他大勢には変わりがないんだぜ」 「一哉く……いたたたたた。ちょ、もう痛いって」 喋りながらゆっくりと力を入れ、頬をつまんでいた手を放す。 「この俺に居心地の悪い思いをさせた罰をこれくらいで勘弁してやろうというんだから、感謝しろよ?」 口の中でもごもごと呟きながらさすっている手を取り、そこへ唇を落とす。 「かなわないなぁ」 「当然だ」 自分の価値に気付かず、見当違いの悩みで真剣になる全力さにかなわないのは、俺の方だ。 唇が重なる頃には、グリーンのタイが足元に曲線を描いていた。 |
あとがき
現在の状況を報告せよ!
はい隊長っ、6月10日であります!
貴様、御堂一哉誕生日をいつと心得る!
はい隊長っ、公式で間違えられたこともあるけど2月18日であります!
余計なことは言わなくていい!
はい隊長っ、このネタを思いついたリア友ムギムギとのメールのやり取りは1月だったなんて
余計なことは言わないであります!