雲の上の挨拶


「すず、食事が済んだら急いで三日分の荷造りをしてくれ」
 帰ってくるなりのセリフに手から力が抜けた。
 床に菜ばしが転がる音が、妙に重く耳のなかで響く。
「なっ……なんで? また出張?」
 今から三日分っていったら、一緒に新年を迎えられなくなるのに、そんな簡単そうに言わないでよ。
「違う」
 短い否定にほっと安堵のため息をついた。
 でも違うなら、なんでこんな急に。
 火を止めて、拾い上げた菜ばしをシンクに置くと、正面に向き直る。
「ちゃんと説明して」
「飯がすんだら、ゆっくり教えてやるよ」
 不敵な笑みを浮かべて、それで会話は終わりというように肩からコートを落とした。
 一哉くんは時々ゲームしてるみたいに、あたしに謎を出す。
 自分で答えを出すか、一哉くんが教える気になるか、どっちにしても時が来るまで疑問は解けないってルールで。
「じゃあすぐに準備するから」
 ゲームに乗ったあたしを満足げに見返して、ぽんぽんと頭を撫でられる。
 こんなに機嫌が良さそうだから、またあたしが想像もつかない答えが待ってるに違いない。
 そしてどんなに驚くかも。





 最後のお皿を水切りカゴに伏せると、澄ました顔でコーヒーを飲む出題者のもとへ戻った。
「さ、約束どおり答えを教えて」
「当ててみろよ。夕食の間、あれだけ考え込んで大人しかったんだから」
「ずっと考えてたけど、わからないから聞いてるの。不公平だよ、一哉くんだけ知ってて、あたしは悩まなきゃいけないなんて」
 ふっと笑ってカップを置いた手が、あたしを膝の上に誘い込む。
 照れる気持ちを少し押し込めて、世界中で一番安心できる場所に……一哉くんの腕の中に滑り込むと、答えを期待して見つめ返す。
「そう簡単にタネを明かしたら面白くないだろう?」
 教える気はないって事ね。
 意地でも当ててみせるんだから。
「仕事じゃないのに、一哉くんが家を空けるなんて今まで無かった」
「いい線いってるな、続きは?」
「誰かと旅行に行くなら、もっと前もって教えてくれてるよね」
 答えに近づいているのか、優しい目で見つめ返される。
「急に思いついたか、あたしを驚かそうとして、黙ってたって事でしょ?」
「あぁ、どっちも正解だ。午前の会議が終わった瞬間に思いついた。昼には必要な手続きが済んだから、おまえに連絡しようとも思ったが」
 凄く楽しげに頬を撫でられる。
「驚く顔を見逃したくなかったから、帰宅するまで黙っていたんだぜ?」
 目の前で告げることを感謝しろと言いたげな声音に、手が添えられている頬が膨らんだ。
「ほんとは言いたくて仕方ないくせに」
「拗ねるなよ。それで、続きは? ヒントは出したぜ」
「……うーん」
 仕事じゃなくて、誰かと出かけるわけでもなくて、三日分の仕度。
「あたしとどこかに出かける……どう?」
「それじゃあ、まだ半分だな」
 とりあえずの正解でも、ご褒美を与えるように頭を撫でられる。
「行き先、教えてくれないの?」
「ヒントは出したと言っただろ」
 早く正解に辿りついて欲しいのか、ふっと目が細められる。
 その笑顔で一生懸命、それまでの会話を頭の中で再生させた。
 えっと……午前の会議で思いついたって……今朝、予定を聞いたときに何て言ってたっけ?
 商談、たしか海外のメーカーとの提携がどうのって。
「会議の相手と関係あるの?」
 軽く頷いて、抱きしめられる腕に少し力が入った。
 記憶を必死に巻き戻す。
 相手っていってもどんな人でどんな内容なのか、さっぱり見当もつかない。
 いつも詳しい仕事の内容までは言われてないし、あたしも聞いてないんだもん。
 ただ、現地から代表が来日するって聞いたような……現地……。
「あっ」
「答えは?」
「イギリスッ、ロンドン!」
「あたり」
 どちらからともなく抱きあって、ゲームに終わりを告げる。
「おまえにしては鋭いじゃないか。もっと長引くと思っていたんだが」
「えへへ、ねぇねぇ、やっぱりその行き先にしたのって」
「もう長いことお姉さんに会っていないだろう」
「嬉しいっ」
 背中にまわっていた腕が、また頬に戻ってくる。
「その顔が見たかった」
 一哉くんの瞳の中に、もの凄く嬉しそうに笑うあたしがいた。
 あたしの瞳の中には、限りなく優しい顔で微笑む一哉くんがいるはず。





「お姉さんとは連絡ついたか?」
「うんっ、すごく喜んでた」
 パソコンに向かって忙しく手を動かしながら確認する声に、あたしも手を止めることなく返事をする。
 かなり寒いから、あったかい格好してきなさいねって……一哉くんはこのセーターと、あ、やっぱりこれも。
 仕事じゃないから、ネクタイやシャツを崩れないように詰める必要は無くて、かわりに弾むような気持ちをバッグに詰め込んでいく。
 後ろではどこかに電話をかけて、短く指示を出している声がする。
 今日は大晦日だっていうのに、この人の世界は回るのを止めようとしないんだから。
 でも三日分は、一哉くんの時間を独占できる。
 それに、カードや電話じゃなくて、直接お姉ちゃんに会える。
 こんなにウキウキした気分で新年を迎えられるなんて、最高のお年玉を前倒しで貰ったみたいだ。
 指示を出し続けている声がふっと止んで、背後から覗き込む気配がした。
「あと、どのくらいかかりそうだ?」
「一哉くんのは、洗面用具を入れたら終わり。明日の朝にやっとくから」
「いや、もう詰めていいぜ」
「え、だって、シェービングクリームとか、朝に必要でしょ?」
 いつも出張に行く時だって、使い慣れたやつがいいって家にあるのを持ってくのに。
 驚いて斜め後ろを見上げると、さっきまで無表情といってもいいくらい冷静な顔で、難しい単語を口にしていた人が、いつものえらそーで不敵で……くやしいくらい大好きな笑みを口元に浮かべて立っていた。
「あと1時間で迎えが来るから、早くしろよ。俺はそれまでにあと何件か指示を出さなくちゃいけないからな」
 見上げたままの体が、そのまま床にひっくり返るかと思った。
「ちょ……っと待って、じゃあ今から行くの!?」
「仕事始めに間に合うよう帰ってくるには、今日しかチケットが取れなかったんだよ」
「そんな、急に、だって食材も何も整理してないのに」
 それくらい何だという表情で見返される。
「おまえなら、どうとでも出来るだろ。それともナシにするか?」
 挑戦的なセリフに、頭が忙しくまわり始めた。
 すぐにダメになっちゃう物は買ってなかった筈……冷凍できるものは移して……。
 うん、どれも無駄にしないで済みそう。
 あたしの荷物は化粧ポーチを入れれば完成するし。
「にしても今日なら今日で、もっと早く言ってくれればいいのに」
「帰ってすぐに、急いで準備しろ、と言っただろう」
「そうじゃなくて、もっと早く! お昼には決めてたなら、その時点で連絡くれたらもっとちゃんと準備できたのに」
「そして、おまえが喜ぶ顔を見逃すのか? 馬鹿をいうな」
 うっ……と言葉に詰まった。
 一哉くんはただあたしを喜ばそうと、それだけの為に手を尽くしてくれたに違いない。
 ロンドン行きのチケットや、いろんな手配をするのに、どれだけの手間とお金がかかったのか想像できないけど、そんなこと一言もいわずに“喜ぶ顔”が見たかったって。
 なのにあたしは……。
「ごめん」
「そういう顔がみたかった訳じゃないぜ」
 少し乱暴に頭を撫でる手が、気にするなと言っているみたいで安心する。
「残り五十五分、間に合うように準備しろ。一分でも遅れたら置いていくからな」
 人が聞いたら、なんて傲慢な命令口調だと思うかもしれないけど、あたしはこれが彼の優しさだって知ってる。
「はーい」
 威勢よく返事をすると、それでいいって微笑みがかえってきた。





「起こしたか?」
「……ううん」
 ぼんやりと辺りを眺めて、見慣れない光景に首を振った。
「あれだけ大騒ぎしていたわりには、ずいぶん気持ち良さそうに寝ていたな」
「ん……着いたの?」
「まだ十時間近くかかるぜ。いまコーヒーを頼んだところだが、おまえも何か飲むか?」
「ううん、まだいいや」
 家がそのまま飛んでいるような広い空間に、ところどころ小さな明かりが点いているのをぼんやり見つめた。
 ここが飛行機の中だって、自分が乗った記憶がなければ、夢の世界だと勘違いしそうなくらい。
 大騒ぎって馬鹿にするけど、当たり前じゃない。
 お姉ちゃんとお正月を迎えられるだけでも驚きなのに、まさかファーストクラスだなんて思ってもいなかったんだもん。
「そうだ。ねぇ一哉くん、いま何時?」
「うん? ……日本時間で午後……」
 手首を傾けて確認していた声がふっと止まった。
「静かにしてろよ」
「えっ」


 耳元で囁かれたと感じた瞬間、羽で触れられるような優しいキスが訪れた。
 いくらシートの間隔があいてるとはいえ、まわりには人がいて、頼んだコーヒーがいつ来るかもわからないのに……。


「午前零時、年が明けたぜ」
「な、いきなり……誰かに見られたら」
「気がつくやつなんていないさ」
 大胆不敵な新年の挨拶に、ブランケットを引き上げて熱くなった頬をごまかした。


あとがき

2006年クリスマスの話があんまり甘くなかったので
新年一作目は・・・
とにかく
甘ーく甘ーく、一哉ベタ惚れ
な内容にしようと頑張ってみた結果がコレ
猫百匹が乙女な性格じゃないから、努力してコレ

成田→ロンドン間は昼のフライトのはずだから
設定もなにもかも妄想全開だけど、ご容赦を