冷めない熱を抱えて


 ずり落ちそうになる携帯電話を肩で抑えると、耳障りなノイズが会話の途中に割り込んだ。
「あぁ……報告書には目を通した。それで、その件だが」
 親ほども年の違う部下に、必要と思われる指示を出しながらも視線は別の案件を追っていく。
 モニターの中で踊る緻密なデータを頭の中でさらに整理して、次に出すべき指示を練り始める。
 たった一つ数字が違うだけで、どれほどの影響が出るか判らない世界を俺は相手にしていた。
 めまぐるしく方向を変え、その度に背を押す流れさえも支配できなければ、御堂の次期総帥は務まらない。
 俺に出来ると判断したからこそ、現総帥──祖父は、傘下の数社をまかせてみる気になったのだろう。
 だったら期待に応えてやらなくてはな。
 もっとも、期待通りの出来だけで済ますつもりなんかないが。
 更に上をいってやるぜ。
「先方には、先日の席で匂わせている。こちらから取引をもちかければ優位に進められる。あぁ…… 最終的には提携に持ち込む」
 俺につき合わされて、勤務時間という言葉が意味を成さなくなっている部下のたてる忙しなくキーを叩く音が、電話越しにかすかに耳に伝わってきた。
「……そうだ」
 一通りの指示によって、質問と了承が耳の奥で響いては消えていく。
「あぁ……よろしく頼む」
 通話と同時に片がついた仕事は、一瞬で記憶の奥にしまい込まれた。
 音を立てないようキーを叩くと、別のデータが数字の氾濫を巻き起こす。
 耳をつけていた温もりが冷めてもいない携帯電話を開くと、いくつかのボタンを押した。
「御堂だ」
 待機していたのだろう、ワンコールで繋がった秘書に先ほどとほぼ同じセリフをくり返しながら、しかるべき指示を出していった。
 会話の合間に予測を立て、希望を取り除いた現実だけを見据えながら、経済の波をどう乗り越えるか考える。
 膨大な人間が関わってきたデータを前に、音を立てないようキーを叩きながら、必要な情報を集めては指示を出す。
 もう何度、こんな夜を過ごしただろう。
 学生としての俺と社長としての俺が、常にせめぎ合いながら日々をくり返す。
 うまく両立してきた。
 ……あいつが現れるまで。
 新しく割り込んだ第三の自分が、これほど主張をするようになるまでは。
 あいつときたら俺の常識を簡単に打ち壊してくれた。
 次になにをしでかすか予測不能、そのたびに周囲の人間を巻き込んで大騒ぎをする。
“社長?”
 不審そうに問いかける声が、はっと意識を呼び覚ました。
「あぁ、なんでもない。……今は相手の本意を探るのが先決だろう。明日にでも……」
 指示を考えあぐねていたと合点したのか、電話の向こうであからさまに納得したという雰囲気がした。
 俺が、仕事に関して方向を見誤った事など、今まで一度もないのだが。
 現にアポイントを取るよう促すだけで、この用件は区切りがついた。
 ほんの僅かな躊躇を疑われるなど、まだ統率力を試されているのか。
 電話を置き、何の為かわからないため息をつきながら椅子にもたれると、皮がきしんで歪な音をたてる。
 帰宅してからずっとモニターを見詰めていたせいか、さすがに全身が強張っていた。
 疲れを感じたからといって、留まっているわけにはいかないのだと頭の中で声がしても、目頭を押さえると瞼の裏に自然と顔が浮かぶ。
 空になったカップから携帯電話に視線を移し、漏れる苦笑いを押し殺した。
 こういう時に、まず真っ先に考えるのがあいつの事とはな。
 会話がなくてもいい。
 ただ顔を見たいとだけ想う気持ちが膨れ上がる。
 なぜ頻繁にコーヒーを頼むのか……、あいつがその意味を理解しているのか怪しいところだ。
 そういうところは天才的に鈍いからな。
 お陰でいまだにハラハラさせられる。
 あいつが自然にとる態度が、周りの男に妙な期待をもたせるとまったくわかっていない。
 この御堂一哉が、こうまで振り回されるとは……、あいつに出会う前の俺なら人に指摘されても鼻で笑っていただろう。
 あいつのどこに惹かれたのか、一つ一つに理由をつけなくてもかまわないと思っている自分を。
 本来の性格からは、かなり逸脱している。
 あいつに出会う前は、恋愛すらどこか冷めた感覚で、割り切って済ませてきた。
 データを集め、分析して、結果を出す……仕事との扱いと大差がなかったと言っていいだろう。
 当たり前だと思っていたことすら、あいつは打ち壊して入り込んできた。
 相手も納得の上での一時的な付き合いだと、確信していた気持ちが揺らいでいる。
 もし……と考えても今さら引き返せないのに、もし……割り切れない感情を抱いていた相手がいたらどれほど傷つけただろうと考えると、なんともいえない気持ちになった。
 新しく知った自分は、それでもあいつが──すずだけが大切だと言い切っている。
 まったく、たいした女だぜ。
 深く息を吐いて、携帯を持ち上げる。
 口実だとこじつける自分をあざ笑っても、掛けなれた指は迷いなく番号を選んだ。
 呼び出す音が変化した瞬間、ドア越しに聴こえる音に疑問と確信が同時に浮かぶ。


 繋がらない電話を切ると、疑問を確かめにドアを開けた。


「……きゃ、あっ、一哉くん」
「ちょうど良かった……うん? それは」
「ごめ、これちょっと持ってて、いま電話が鳴って」
 返事を聞くより先に、押し付けられたトレイの上で食器が震える。
「それは俺だ」
「なぁんだ、なにか用事?」
 一度、取り出した電話を戻して差し出された腕に、条件反射でトレイを返すと、機嫌良さそうに笑いながら脇をすり抜ける背中を視線が追う。
「その件はもういい。それよりそれは一体」
「お夜食もってきた。コーヒーばっかりじゃ体に悪いと思って」
 机のいたるところに山をなしている書類を咎めるように眺めて、かろうじて見つけたスペースにトレイを置くと誇らしげに見返された。
「結構、自信作なんだから。一口でも食べて?」
 自分で自信作だと言い切った照れ隠しなのだろう、えへへと笑い声をあげながらはにかむ姿につられて笑いが漏れた。
「あ、笑うなんて酷い。本当にうまく出来たんだから」
「早とちりするな、馬鹿」
「じゃあ何で笑うのよ」
 まるで、百面相だな。
一瞬前まで笑っていたかと思えば、今は頬を膨らませて腰に手を当てている。
「理由を説明したところで、おまえが理解できるか怪しいな」
「なにそれ、あたしそこまで馬鹿じゃないもん」
 湯気を出しそうなほど顔を赤くして怒る姿を、愛しいと想う理由など俺だってわかっていない。
 こいつを好きになって、手に入れたあの日から、自分に説明をつける癖などどこかへ消えてしまった。
 俺にそこまでの影響を及ぼす女は今までいなかった。
 これからも、こいつだけだ。
「なによ、そんなに楽しそうに笑わなくてもいいじゃない」
「怒るなよ」
 面白い女だと、素直に口にすれば更に機嫌を損ねるだろう。
 もう何度目かわからない感想を心の奥に閉じ込めて、頭をぽんぽんと叩くと器に前に落ち着いた。


 淡い乳白色に輝くスープが、胃に納まるのを待っている。


「……ヴィシソワーズか」
 一度、手の内にあったときは感じることができなかった温度を指先でなぞりながら、確認するというでもなく呟く。
「あ、うん……暑くなってきたから、冷たいほうが喜ぶんじゃないかって思って」
 あっという間に機嫌を戻したすずは、ついと進んで自信作を覗き込んだ。
「確かに、今日は特に蒸し暑いからな。おまえも考えるじゃないか」
 丁寧に器まで冷やしてあるところをみると、夕食が済んだ直後には調理にとりかかっていたはずだ。
 指示を受けたわけではなく、こいつが自発的に……俺の事を考えて、した。
 その事実が、冷たいスープとは逆に、胸の奥に温かさを湧き起こす。
「いくら一哉くんがコーヒーを好きだっていっても、毎晩毎晩コーヒーだけじゃ体によくないよ、絶対。これならお腹にも優しいし」
「……すず」
「仕事しながらでも冷める心配しなくていいし……え? なに」
「ありがとう」
「は?」
 音を立てて固まる、という言葉を体現するなら今のすずがいい見本になるだろぜ。
 間抜けな声を出して目を丸くしている恋人を、それでも愛しいと想う俺は、どこまでこいつに溺れているのか……。
 我ながら理解不能だ。
「ど、どうしたの!? なにか悪いものでも食べ……それはないか、晩御飯あたしが作ったんだし」
「なんだよ、礼を言っただけなのに随分な態度だな」
「だって!」
 声を荒げながら、額に手を当ててきた。
「熱は……ないみたいだね。ねぇ、どうしたの? なんか変だよ」
「ほぅ」
「あ、あの」
 短くとも声の響きに何かを感じ取ったのか、慌てて空になったコーヒーカップを手にして、すぐに後ずさりはじめた。
「なんでもないならいいの。これ、片付けてくるっ」
 脱兎の如く逃げ出したすずの背中を見送りながら、声をあげて笑いだす自分を客観的にとらえて、さらに笑いを大きくした。
 ……ったく、本当に面白いやつだぜ。
 常日頃、偉そうだと文句をいうくせに、素直に礼を言えばいぶかしげる。
 矛盾の固まりのようで、どこまでも単純だ。
 幼い頃から上辺を取り繕った人間ばかり相手にして、それこそが人間の本質だと思ってきた俺に、新鮮な驚きを与えてくれる。
 あいつにとって、このスープは礼を期待して作ったわけではないのだろう。
 だからこそあそこまで驚き、慌て、見当違いの心配までした。
 それがどんなにか俺を喜ばせるのかを、まったくわかっていない。
 いつもそうだ。
 さりげない気遣いが想いを膨れ上がらせる。
 手にしたスプーンでそっと掬うと、滑らかな液体はとぷんと揺れて穏やかな波をたてた。
「さすがに……自信作と言い切るだけの味だな」
 スープの陰に、あいつがどれほど手をかけたのかが滲んでいる。
 キッチンの中で、忙しく動き回る姿が目に浮かぶほどの味だった。
 今日中に片をつけなければいけない仕事が、いくつか待っていると意識していても、このひと時を邪魔するのなら放り出してやるとさえ感じるくらいの味。
 とんだ家政婦を雇ったものだな。
 自宅に戻れば、いつもと同じ日常が待っているとわかっていながら、あえて疑問にすら感じなかった俺が、あの日──学園の前で番犬に追い回されて涙を浮かべていたあいつを連れ戻ったのか。
 すずが心の中に入り込んで来てから、何度となく思い返したというのに説明はつかない。
 おそらく、一生の間に答えが出ることはないあの日の決定を、手放しで褒め称えるのは俺自身だけかもしれない。
 たった一つの行動が与えた影響を計れなくとも、正しかったと思える相手はあいつしかいないと想いながら沈めたスプーンの先が、笑い声をたてたかのように揺れた。





「……一哉くーん?」
控えめなノックに続いて顔を覗かせたすずが、様子を確認して笑顔になった。
「よかったぁ、食べてくれたんだ。じゃあ下げるね」
 空の器を持ち上げて、ほんの僅かな間、幸せそうに笑うすずを引き止めたいと言葉を繋ぐ。
「あぁ、ごちそうさま」
「どういたしまして。ね、どうだった……?」
 一転して不安げな表情になったすずの手からトレイごと取り返すと、無造作に机へ置きなおした。
 乱暴な扱いに抗議する食器が、二人の中間で鳴る。
「そうだな」
 あいた手をとって軽く引っ張ると、急に静まり返った部屋の中で、二人の距離がなくなった。
「か、ずや君?」
「うまかったぜ」
「ありがと……あの、それは嬉しいんだけど」
「いいから、来いよ」
 距離がない中でさらに手を引けば、あとは自然と体が触れ合う。
 膝の上に腰をおろしたすずが、頬を染めながらうつむいた。
「ねぇ、やっぱり今日の一哉くんおかしいよ。なにかあったの?」
「なにもなかったが、おまえの言う通り、おかしいのかもしれないな」
「おかしいって……大変!さっきは熱なかったけど、やっぱり病気だったんじゃ……」
 額に伸びてくる腕を捕まえて、胸の中に閉じ込めた。
 肩のシャツ越しに、あわあわと戸惑う唇の動きが伝わってくる。
「は、放して」
「断る……少し大人しく抱かれていろ」
「だ、って……この格好」
 いまさらこれしきの触れ合いでうろたえるすずに、穏やかな独占欲が腕に力をこめさせる。
 目の前にある赤く染まった耳朶に唇をよせ、嫌なのかと問えば、かかる息から逃れようとしていると思うほど首が横に振られた。
「だったら、問題はないな」
 なにを言っても無駄だと悟ったのか、膝の上で強張っていた体からほんの少し力が抜ける。
 鼓動と体温を交換しながらの静かな抱擁に、やがてゆっくりと頭が傾いで肩口に乗せられた。
「いや……な訳ないでしょ」
 ──知ってるくせに……一哉くんのイジワル、と消え入りそうな声がすぐ近くで呟く。
 反射的に身を硬くするのは体を寄せ合う事が嫌だという拒絶の証ではなく、沸き起こる恥ずかしさに追いつかない照れ隠しだと、こいつはそういう性格だと、確かに知っている。
 知っていて、あえて手を出すのはすずの言う“意地悪”ではないと、開きかけた口を元に戻した。
 処理しなければならない案件が控えているというのに、俺だけが説明のつかない感情に翻弄されて、確かなものを守るように抱きしめているなどと、言葉にしなければわからないとは不公平だろう。
「おまえは、もっと知った方がいいぜ」
 簡単に理性を手放す男の独占欲が、どれほど激しいのかを。
「教える気がない人を相手にするのが、どんなに大変か……一哉くんこそ知った方がいいんじゃない?」
 どんな表情をしているのか目には見えなくても、言い返す言葉の響きが複雑な色を帯びている様子から想像がついた。
「それは、お互い様だな」
 おそらく俺の顔も、すずと同じ表情を浮かべているはずだ。


 ──さまざまな感情が複雑に混ざり合いながらも、触れ合うことを自ら止めたくないと願う顔を。


 俺がおかれている立場を理解して、忙しい身の上を案じながらも決して仕事を減らしたら?とは言ってこないすずに感謝する。
 その代わり、請われればコーヒーを用意し、過ぎていると感じれば黙ってスープを作る気遣いを嬉しいと思う。
 本来ならこいつがしなくてもよかった心配をかけている自分に腹が立ち、それでも手放せない子供じみた我がままを嘲笑する。
 さまざまに変化する感情を説明できなくとも、腕の中の温もりは確かだ。
「……すず」
「ん、なに?」
「愛してるぜ」
「なっ……!」
 胸に伝わる体温が一瞬であがり、響く鼓動が速くなった。
「今日の一哉くん、ほんとにどうしちゃったの」
「さぁな。おかしくなる一方だ」
 おまえと出会ってから、この先も一生。
 悪くはない。
「もぅ……そういう一哉くんも好きなんだから、困っちゃう」
 くつくつと笑う声につられて不審げな表情を浮かべたまま見上げたすずが、徐々に笑顔になるさまをただただ愛おしいと思いながら、更にきつく抱き寄せた。
 たまにはこんな夜の過ごし方も、悪くない。

あとがき

下に進めば進むほど甘くなる、ピラミッド型スイート創作(笑)

御堂さんが壊れてまーーーーーす
頭のネジが1本……、いやいや全部緩んじゃってまーーーーーす
しまいにゃもう、書いてる自分でさえ「……こいつら(苦笑)」と思ってましたーーーーー

ヴィシソワーズは冷たいジャガイモのスープでして
ランチについてきたそれを飲みながら、こんな妄想をしていた
そして口元がニヤけていた猫百匹

たまにはそんな話も悪くない、って事でお一つ