世界で一つの意味


 イライラするものを一つ挙げろと言われたら、今のあたしは迷いなく、さっきからぜんっぜん進まない時計と答える。
 ドキドキするもの一つと訊かれたら、いつ鳴り出すのか分からないポケットの中の携帯電話って答える。
 ワクワクするものと……。


 突然、響いたチャイムに体がびくりと震えた。


 数字にしたらほんの僅かなタイムラグでも、物思いに耽っていた頭が意味を悟るまで時間がかかる。
 もうそろそろ夜中と言っていい時間に、チャイムを押す人物といえば一人しか思い浮かばない。
 厳しいセキュリティーの家で、泥棒がわざわざチャイムを押すはずもなくて、友達だったら事前に連絡をくれるはずで……。
 思いつく限りの理由を浮かべては消しを繰り返したけど、考えるまでもなくただ一人の面影だと本能が叫んでいる。
 やっと立ち上がった時にはもうドアが開く音がして、ワクワクする瞬間がやってきたと教えてくれた。
 スリッパが滑って転びそうになるのを宥めながら、急いで音のする玄関へ駆けると、待ちわびた人が待ち望んでいた笑顔で微笑んでいた。
「おかえりっ」
「あぁ、ただいま」
 重そうな音をたてて置かれたバッグには、出張中に増えた仕事が詰まってるんだろう。
 めんどくさそうに外すネクタイも、またすぐ締める羽目になるかもしれない。


 でも。
 やっと会えた。


「一哉くんっ」
 思わず抱きついたあたしを、しっかり抱きしめてくれる腕が懐かしくて、どうしても頬が緩んでしまう。
「たった一週間留守にしただけでこんなに歓迎されるなら、次はもっと長い出張を入れてもいいかもな」
 驚いたのか笑い混じりの声だけど、そのちょっと呆れたような言い方も懐かしい。
「たった、じゃないでしょ。も! 一週間、もっ!」
 そりゃ一哉くんにとっては、一週間って言ったら、曜日が一巡するって意味しか無いかもしれなくても、あたしには少し複雑な意味があるんだから。
「ガキか、おまえは。仕事を片付けたら帰ってくるとわかってる事なのに」
 それでも、抱きしめる腕から力が抜ける気配はない。
 一哉くんの温かさと匂いに包まれて、そっと息を吐いた。
 約束通り帰ってきてくれた。
 それだけで安心する。
 もう一度、住み込み家政婦をしてくれとあたしの実家に言いに来てくれた日。
 その夜から一週間も連絡が取れなくなって、事故にあったって事以外なにもわからないまま不安だった、遠い日々の記憶がやっと薄くなっていく。
 帰ってくるとわかっていても、理屈じゃない不安に襲われて、落ち着かなかったこの数日が消えていく。
 誰にだって一つくらいトラウマになった出来事や物がある。
 一哉くんにだってある。
 あたしにとってのトラウマは、いってきますと出かけた人が戻って来なかった事。
 それも……永遠に。
 一週間という時間は、また大切な人を失ってしまうんじゃないかって思ったのと同時に、一哉くんが大切な人だと気がついた期間。
 だから今回の出張の話を聞かされたとき、心の奥がちょっと冷えた。
 出張自体は珍しいことじゃない。
 卒業してからは徐々に回数が増えていった。
 今までも数日家を空けることはあって、あたしは平気だった。


 一週間……じゃなかったから。


 笑顔で見送って、ドアが閉まったとたんに叫びたくなった気持ちをやり過ごして、毎晩泣き出しそうになるのを堪えたのはとっくに過去の話。
「どうしたんだよ、歓迎の挨拶にしてはおかしいぜ?」
 思わずきつくしがみ付いたのを不思議がる声が、耳をくすぐって甘く染み込んでくる。
「なんでもないよ。離れるのが久しぶりだったから、顔を見てちょっと興奮してるのかも」
 我ながら上手い言い回しじゃない?
 興奮してるのはほんとの事だし。
 一つの本当以外は嘘ってわけじゃないんだ。
 いくつもの本当があっても、騙してるわけじゃないから。
 その中の一つ、本当の理由……なんて言えない。
 言ったって一哉くんはまた仕事で家を空けるだろうし、止める権利なんてない。
 一哉くんには、責任がある。
 重くて大きくて、あたしなら放り出したくなるような御堂グループ次期総帥としての責任に、真正面から向きあってる。
 心配かけて、わずらわせちゃいけない。
 一哉くんがスムーズに働けるよう、足を引っ張ることだけはしたくない。
 まわりが納得するだけの家柄も、地位も、財産もないあたしを望んでくれた……、それだけでも負担になってるってのに。
 帰ってきてくれて、あたしを抱きしめてくれるこの腕があれば大丈夫。
「一哉くんに会えて嬉しいの」
 一呼吸置いて見上げると、ちゃんと笑顔になってるのが一哉くんの瞳に映った。
 大丈夫だ。
 あたしは数分前……ううん、たとえ数秒前まで悲しんでいたとしても、この人の中で笑っていられる。
 次に一週間離れることがあっても、今日を思い出せば乗り越えられる。
「……ったく」
「え?」
 短いため息が聞こえてとっさに見つめた瞳が、不思議な色合いを帯びて光ったように見えた。
「おまえってヤツは」
 見つめ返す瞳がわずかに細められて、青みがかった澄んだ黒の中で、あたしが驚いて目を見開いている。
「俺が離れている間、どうして最低限しか連絡しないと思う?」
「急に、どうし……」
「おまえがそんな顔で待っていると、簡単に想像できるからだよ。……バーカ」
「そんなって」
 あたし、ちゃんと笑えてたはずなのに。
 不安で曇った顔は、腕の中に置いてきたのに、何で!?
 絶対にバレないって自信あったんだけど。
「その顔を……俺を見て笑う顔を見たくて、一秒でも早く帰りたくなるんだぜ? この俺が」
 背中に回っていた腕が、そっと頬に添えられた。
「お陰で、処理するスピードは更に速くなったけどな」
 こめかみに触れるだけのキスを落とされる。
 外の匂いのする柔らかなキスは、限りなく優しい。
「それでも、おまえが何をしているのか、どんな思いをしているのかが……いつも気になる」
 おでこに唇が移った。
 互いの髪が触れ合う音が、さらさらと耳に心地いい。
「仕事先に連れて行っても、おまえを困らせるだけだしな。日中は放っておくことに変わりないんだったら、安全な場所でおまえが好きなように過ごしてる方が、俺も安心する」
 独り言みたいに呟いて、目の際に羽のようなキスをされる。
 自分の睫毛が返事をするのを、遠くで聞いた。
「……会いたかったのは俺も同じだぜ」
 鼻の頭に軽くキスをされる。
 会議の合間にでも飲んだのか、ふわりとコーヒーの香りが漂った。
 くすぐったさと嬉しさが、胸の奥でちりちりと音をたてる。
「もっとよく顔を見せろよ」
 有無を言わさず顔を上向けられなくても、あたしは一哉くんしか見てない。
 今も、これからも。
 あたしこそ、一週間ぶりの一哉くんをもっと見ていたいのに……。
 次に唇が降りてくる場所がどこか、分かったと同時に瞼が勝手に閉じていく。


 いま、一秒の意味と価値を訊かれたら、あたしは迷いなくこう言う。
 ほろ苦いコーヒーの香りがするキスの、温かさと確かさだって。

あとがき

出張ネタ好きです
帰ってきたらキスまみれネタも好きです
そんな猫百匹が書くのだから、必然的にオチはチュウ

にしても、思いのほかチュウ回数が多くなった

ネズミ年だからって事でお許しを