彼女の太陽 彼の月


「一哉くん、今日は遅くなる?」
「いや、いつもと同じくらいだろう」
「そっか、じゃあ買い物は午後にして、午前中は掃除と洗濯と……」
「ふっ、忙しいやつだな」
「一哉くんに比べたら全然っ。今日だっていくつも予定あるんでしょ?」
「あぁ、朝一で報告書に目を通したら会議。その次も会議。それが済み次第、新しく開発中の新エネルギー技術を視察、あとは」
「……忙しい人」
 差し出されたネクタイを、とうに慣れてしまった手つきで結びながら視線をあげると、見下ろしていた彼の目がふっと緩んだ。
 つられてあたしも笑いながら、仕事の質はまったく違うのに、お互いに今日も忙しいという事実を何故か嬉しく思う。
 一哉くんは世界的にも有名なグループの御曹司で、学生の頃からいくつも会社を経営してる人。
 あたしはごくごく平凡な家庭に生まれて、ちょっと非凡な経験をして、いまは彼の専属家政婦。
 普通に考えたら絶対に出会うはずのない二人が、こうして向かい合ってネクタイを締める関係になるなんて、誰が想像できたんだろう。
 運命の神様の気まぐれな采配は、あたしをドン底まで突き落としたと思ったら、今度はこんなに素敵な出来事を用意しててくれた。
 他愛のない会話をしながら毎日が過ぎて、幸せを一つ一つ積みあげていくのがとても嬉しくて、離れている間もつい頬が緩んでしまう時だってある。
「……きゃ」
「なにニヤけてんだよ」
 言葉で指摘するよりも先に、軽く引っ張られた頬から彼の手の温かさが伝わってきて、怒るよりもますますニヤけてしまった。
「おかしなやつ。普通、抓られて笑うか? おまえにそういう趣味があったとは知らなかったぜ」
「ちょ……ひはうって」
「うん? 何を言ってるのかわからないぜ」
 くつくつと笑いながら覗き込む眼が、楽しそうに輝いている。
「もうっ、放してってば! 痛いでしょ」
 魅入られそうになる視線から無理に逸らして、頬に添えられたままの手に指をかけた。
 ほんとは全然、痛くなんかない。
 抓る、なんて言葉は似つかわしくないほど、優しく触れていたのをあたしよりも一哉くんが良く知ってるはず。
 口を開けばイジワルで偉そうなことばかりだけど、一哉くんの手は……手も体も気持ちも、絶対にあたしを傷つけたりしないってわかってる。
 言葉とは裏腹な態度が、すこし不器用な彼の愛情表現だって知ってる。
「はい、できたよ」
 タイピンを差し込んでからジャケットの内側へ戻したネクタイを、手の平ごと押さえられた。
 シャツを通して伝わる体温が手に気持ちいい。
 ほんの少し詰めた距離が、コロンの香りを強くした。
 反対の腕がそっと頬に戻ってきて、さっきまで触れていた箇所を優しくなぞる。
 ゆっくりとした動きに合わせるように、静かに降りてきた唇が後を追う。


 ……一哉くんて、ほんと不器用。


 怒られるから本人には言わないけど。
 形だけの抗議を気にして、宥めてくれてるんでしょ?
 優しく触れるキスは、無言の謝罪。
 ずっと傍にいて、誰よりも同じ時間を過ごしてきたのに、そういう気遣いをバレてないと思ってるんだから……ちょっと可愛い。
 可愛いなんて感じてるのが知られたら、もっと怒るだろうから絶対に言わないけど。
「……ん」
 うっとりするほど甘い指と唇に浸っていた頭に、無情な音が割り込んで容赦なく現実に引き戻された。
「車が到着したようだな」
 なり続ける呼び出し音に離れていく唇から、仕事モードに切り替わりつつある声がでた。
「いってらっしゃい」
 送り出す言葉を口にしながらも、今度はあたしが離れていく手の平を押さえる。
 痛いなんて言って、ゴメンね?
 少し申し訳なく思いながら、罪のない指に触れるか触れないか……無言の謝罪を。
「……可愛いやつ」
 “いま行く”と、有能な経営者の顔で告げた後、一瞬だけ恋人の顔を覗かせたセリフに鼓動が跳ねた。
 あたしが可愛いって思ってたの、もしかしてバレてるんじゃ……?


 偶然だと自分に言い聞かせながら、今度こそ手を振って送り出した。





「よしっ、終わりっ」
 パンッと手を叩いて周りを見渡し、額を伝う汗を拭った。
 夏本番を迎えた大気はピークに向かって容赦なく上昇しているけど、からりとした風が心地よさを残してくれていたお陰で不快感はなく、どこまでも澄んだ青空に背を伸ばし降り注ぐ陽の光を全身に浴びる。
 干したばかりの服やタオルも気持ちよさそうに日光浴しているのをぐるりと見渡せば、充実感が体の奥から沸き上がって来る。
 雲一つない晴天の下で、真っ白なシャツが跳ね返した光が屋上をさらに明るくしているのを目を細めて眺め、心に浮かぶ姿に一つ報告をした。


 ね、一哉くん。明日も、キレイなシャツ用意できるよ。


 ……真っ白なワイシャツは一哉くんの制服。
 祥慶学園でも選ばれた人だけが着ることを許されたディアデームの制服から、ネクタイとスーツに変わった今の制服。
 ううん、戦闘服っていった方が正しいのかも。
 本人はいたって余裕の顔をして日々の激務をこなしているけど、その裏でどんな苦労があるのか話してくれなくても想像がつく。
 日本に残ることを決め、中泉が起こした一連の事件の後処理に追われていた頃は、はらはらするくらい顔色が悪い日もあった。
 出張と視察の合間に沢山の指示を出して、家には着替えに戻るのがやっとの日だってあった。
 あたしは彼の仕事を手伝えるわけもなく、そもそも望まれてすらいない。
 理事長の秘書をしていた時に覚えた書類の整理やコピーなんて、一哉くんの秘書に比べたら子供のお遊びみたいなものだろうから、あたしも出過ぎた真似はしないとこっそり誓っていた。
 そのかわり、あたしはあたしにしか出来ないことを精一杯頑張る。
「きゃっ」
 ふいに、目の前を一陣の風が通り抜けていき、ふわりと髪を巻きあげた。
 暴れる髪を押さえながら向けた視線の先には、袖を通してもらうのが待ちきれないとでも言いた気にはためくシャツがある。
 タイミングのいい風が彼のご褒美みたいで、くすりと笑いが零れた。
 何をしても完璧で、絶対的な存在感で君臨する彼が、心の中でした報告に返事をしてくれたみたい。


 シャツを元に戻し、ついでに襟元をそっと撫でる。


 じりじりと灼熱を注ぐ太陽を見上げ、あたしにとっての太陽は彼──……ときどき凄くイジワルで、驚くほど偉そうで、でも限りなく優しい御堂一哉その人だと思った。





 アイロンがけも済んだし、晩御飯の下ごしらえも済んだ。
 これを洗い終わったら、冷たいココアでも作って一休みしようかな。
 想像以上に早く片がついた家事に、思わず鼻歌が浮かぶほど気分がよくなって、弾ける泡に勢いよく腕を突っ込む。
 テレビで聴いた流行の歌をハミングしながら、一枚一枚キレイにしていくのも気分がいい。
 最後のフレーズと最後のお皿を洗うのが同時に終わって、妙な満足感に包まれる。
 あとは、水で流して……っと。
「あ……はいはい、ちょっと待って……いま、出るから」
 シンクに跳ねる水音に割り込んだ着信音に、独り言を呟きながら慌ててタオルを探した。
「はーい。かず……」
「遅い」
 名前も呼ばせてくれない相手は、不機嫌さを隠すつもりもないのか、ほんの少し出るのが遅くなってしまったあたしを、ぶっきらぼうに遮った。
「いつも二コール以内に出ろと言っていただろう」
「あのねぇ、あたし、いま洗い物してたの! 濡れた手で出れるわけないじゃない」
「こっちは急いでるんだ。いいから、今から言うものをとっとと準備しろ」
「……は?」
「メモの準備は」
「あ、えっと……」
 容赦なく続けられる言葉に慌てて視線を彷徨わせると、冷蔵庫にかけたホワイトボード──ただの家政婦だった頃の名残が目に付いた。
 苦戦しながら片手でキャップを取り、電話越しにいらいらした雰囲気を送ってくる彼に“いいよ”と答えると、さっきより容赦ないスピードで次々品をあげられる。
「それを持ってここまで来い。急げよ」
「あ、ちょっ……待っ」
 一方的に音がしなくなった電話を呆然と眺め、次いで乱雑に書き記したメモをこれまた呆然と眺めた。
 なんで……?
 理由の一切を話すことなく、ただ要求だけした一哉くんの態度に首をひねる。
 なんで……急にこれらが必要になったんだろう。
 まったくわからないけれど、急いでいると何度も繰り返したのだから、とにかく言う通りにした方がいい。
 駆け足で一通り揃えて、ここと指示された場所までの行き方を急いでメモに書き写す。
 ……まったくもう、いっつもあたしの予定なんかお構いなしなんだから。
 ぶつぶつと不満を漏らしながらも、予定より数時間はやく彼に会える喜びで口元を緩めて、真上にあがった太陽が輝く外へ飛び出した。





「ここで、いいんだよね?」
 迷子になりそうなほど広大な敷地にいくつもそびえる建物と、手元のメモを交互に見比べて、胸をよぎる不安を宥めていると背後から名を呼ばれた。
「鈴原さまですね? お待ちしてました」
 振り向くと、ここまで全力で走ってきたかのように汗を浮かべている男性が、あたしよりもホッとした表情を浮かべていた。
「はい。あの、か……御堂さんに頼まれてこれを」
 差し出した袋に目を留めると、ますますホッとした顔になって安堵のため息をついている。
「助かりましたぁ……」
 おそらくここの社員なんだろう。
 門扉に掲げられた名前を胸に刺繍した服を着て、汗をぬぐう壮年の男性には、あたしが救いの女神に見えているらしい。
「さぁさぁ、こちらへ。御堂様がお待ちの場所までご案内させていただきます」
 自分の子供よりも若いくらいのあたしに、やたらと低姿勢な態度をとる姿はちょっと滑稽なくらいだけど、それだけ差し迫った理由があるはずだと思いあたった。
 それがきっと全ての答え。
 一哉くんが急いでいる理由、あたしに持ってこさせた物の理由、あたしを呼び出した理由……もうすぐ明らかになる謎が待つ場所まで案内してくれる人のあとを追いながら、見慣れない光景へきょろきょろと視線が泳ぐ。
 透明なガラスで仕切られた数々の部屋で、なにかを真剣な目で見つめたり、ちかちかと変化する数字を書きとめている人々が、忙しく動いているのが見える。
 今朝、一哉くんが言っていた新しい技術ってやつを開発しているのが、ここだということは簡単に想像がつく。
 視察って言ってたけど、最中に何かあったのかな?
 ……なにか、事件が起こったとかじゃないといいんだけど。
 車にひき逃げされたり……はさすがにないだろうけど、彼の立場なら何が起こっても不思議じゃない。
「あのっ」
「はっ」
「彼は、御堂さんは無事なんですかっ!?」
「え……えぇ。こちらの不手際でご迷惑をおかけしましたが、ご本人は大事無いと」
 先を急いでいた案内役は、唐突な問いに一瞬固まったあと、はじめて笑顔になってあたしの不安を吹き飛ばした。
「そうですか……なら、良かった」
 一哉くんに変わりがないのなら、本当に良かった。
 ……けど。
 だったらはじめに理由を説明してくれればいいのに。
 あんな風に一方的に命令しなくても。
 そしたらこんな不安を抱かずに済んだじゃない。
「こちらです」
「……ぁ……」
 顔を見たら文句の一つも言ってやろうと待ちかまえていた唇が、大きく開かれたドアの向こうの光景に言葉を失った。
 椅子に座るその人は、今朝でかけていった時とはまったく違う服を着て、渋面を浮かべている。
「どうしたの!! その格好っ」
 この先、一生……目にできないだろう光景に思わず叫んだ。
「うるさい。間抜けな顔で突っ立ってないで、早くそれを寄越せ」
 手にしていたカップをやや乱暴に置いて立ち上がった一哉くんの剣幕に、ドアを閉めて逃げ出す音を背後に感じても、ここまで案内してくれたお礼を言い損ねちゃったなぁとぼんやり思うことしか出来ない。
「鈴原様、これには理由がありまして」
「は、はぁ」
「……着替えるから、外に出ていてくれ」
 後ろに控えていた顔なじみの秘書が、驚愕ももっともだという気持ちを押し込めた顔で話しかけてきたのを遮って、手にしたままの袋を催促される。
 いつもの態度の一哉くんは、逃げ出した男性社員が着ていたものと同じ作業服……世間一般で言う“つなぎ”を着ていた。





「すず、おまえまで出て行ってどうする。馬鹿」
「でも」
「これを結ぶのはおまえの役目だろ、違うか?」
 席をはずす秘書に続いて出て行こうとした背中を呼び止めた一哉くんは、あたしが慌てて準備した中の一つを引っ張り出しながら、視線でドアを閉めるよう促した。
「それもそうだね」
 まさか家の外で毎朝の習慣をする羽目になるとは思いもしなかったけど、これはあたしだけに許された特権なんだから。
「急にスーツ一式届けろっていうから何事かと思ったら……」
 一式揃っているのを確認し終えた彼は、あまりにも不自然な格好をしながらも満足げに腕を組んでいる。
 興味津々のあたしの言葉は耳に入ってないみたい。
「で、何があったの?」
 強めに声をかけると黒曜石のような髪が揺れ、疲れた表情がわずかに覗いた。
「視察してる最中に、試薬がスーツにかかった」
「しやく?」
「強酸性化合物の一種だ。衣服に付着したらどうなるか、おまえでもわかるだろ?」
 もう着替えに取り掛かっている腕がふさがっているから、かわりに顎で掬った先には無残に変質したスーツがぶら下がっていた。
「うわぁ、これはさすがにもう着れないね」
「タイミングが悪かっただけで意図的なミスじゃないし、肌にかかったわけでもないから気にしなくていいと言ったんだが、謝罪だ弁償だと騒ぎ出すし……」
 腰までジッパーを下ろし、袖から腕を引き抜こうと苦戦している一哉くんが、なんだか可愛くて自然と体が向かう。
「あぁサンキュ。初めて着たから勝手がわからない」
「そりゃあ……」
 おそらくこういう機会でもなければ、御堂グループの御曹司で、若くして数社のトップに立つ一哉くんが、一生着ることはなかったと思う服をまじまじと見詰める。
「こっち……腕をあげて?」
「……ったく。そのままじゃ申し訳ないと出されたのが、これだ。新品でサイズが合うのはこれしかないというから仕方なく着たが……」
 ぶつぶつと不満を漏らす様子が物珍しくて、背中にそっと笑いを返す。
 上は、かろうじて無事だったアンダーシャツ替わりのTシャツ一枚になって落ち着いたらしい。
 尊大な笑みを漏らすと、ずり落ちないよう腰に袖を回し結び、そのTシャツも脱ぎ捨てだした。
「社に置いてあるやつを取りに行かせようとも考えたが」
 前触れなくあらわになった肌に少し照れながら、新しいTシャツを手渡す。
「おまえに持ってこさせた方が片道分早いと判断した。急かして悪かったな」
「ううん」
 理由を聞いて、安心した。
 それ以上に嬉しかった。
 いざって時、あたしを頼りにしてくれたんだ。
「うん? なにがおかしい」
「あ、違うの。おかしくて笑ってたんじゃないよ」
 不本意な格好を笑われたと勘違いのか、鋭くなる目つきに首を振った。
「今日すごく天気良かったら、アイロンがけまで済んでてちょうど良かったなぁって」
「ふん」
「ほんとだってば。それに、そんなに……その」
「なんだよ」
「似合ってないわけじゃ、ないかな? ちょっと意外だけど、かっこいいかも」
 天下の御堂一哉、太陽のように君臨する次世代のリーダー……雑誌やマスコミの賛辞も伊達じゃない。
 どんな服でも着こなしてしまう風格があるのかもしれない。
「おまえはつくづく変わってるな。この格好に頬を赤らめるとは想像してなかったぜ」
「じゃあ、どう思われるって想像してたの?」
「…………」
 今日は本当に珍しい事が重なる日だ。
 言葉に詰まる一哉くんなんて、めったに見れるものじゃない。
「あたし、一哉くんがどんな格好していても、かっこいいって思っちゃうよ」
 笑顔で告げた素直な感想に、彼の目がわずかに細められた。
「それだけ惚れてるということは、もう知ってるぜ」
「なによ、じゃあもう言わない」
 あんなに不器用な言い方で、お願いをしてきたくせに。
「おまえはすぐに表情がかわって面白いな。月のように毎日かわって見飽きないぜ」
「ふぅん……そういうこと言うんだ。じゃあ、これは持って帰ります」
 一哉くんが待ち望んでいた真っ白なワイシャツを取り上げようと手を伸ばした瞬間、机に広げられていたそれがあっという間に目の前から消えた。
「馬ー鹿。なんのためにおまえを呼んだのか意味ねぇだろ」
「ほんっとに素直じゃないんだから。ちょっとはあたしに会いたかったからだって白状したら?」
 一哉くんなら、電話一本かけるだけで直接お店から届けさせることも出来たはず。
 なのに、あたしを呼んだのは、頼りにしてくれたってことだけじゃ、ないよね?
「じゃないとネクタイ結んであげな……きゃっ」
 ふいに落とされたキス……素直じゃない恋人の素直な返事に言葉が消え、かわりにドアの向こうから咳払いが聞こえてきた。

あとがき

カリスマ御堂さまが、おそらく一生着ることはないだろう服を着せてみよう!

肩にモ……うぉっほん、あの突飛な制服ですら着こなす御堂さま
まさか、つなぎを着る羽目になるとはね

それでもカッコイイんです
それがカリスマ

「御堂さまが“つなぎ”!? ありえないっっ!」
と悲鳴をあげた全国の家政婦さん
ごめんなさいっ!