迂回路


 コン……コン……と、小さく控えめなノックの音がした。
「はい」
“あたし……むぎ”
「どうした、入れよ」
 声をかけながら時計を見ると、すでに日付が変わっている。
 こんな時間にめずらしい。
 おずおずと開いたドアからすずと一緒に香ばしい匂いが入ってきた。
「仕事してるなら、必要かと思って」
「あぁ、助かったぜ、サンキュ」
 書類が散乱したデスクの上を手早く片付け、カップを置くスペースを作ると湯気のたつコーヒーを受け取る。
 片付けなければならない事柄は、この書類のように簡単にはいかず、うずたかく山積していた。
 そんな状態だからこそ、ささやかな気配りが素直に嬉しかった。
「無理しないでね? まだ体も治りきっていないんだから」
「俺を誰だと思ってるんだ? 心配されるほど柔じゃないぜ」
 疑わしげな視線がデスクと体を往復する。
「おまえこそ早く寝ろよ、明日に、もう今日だが……響くぜ? 怠惰な家政婦を雇った覚えはないからな」
「う、うん」
 パタッとスリッパが鳴り、ドアに向かったつま先が不意に止まった。
「なんだ」
「なんでもない、じゃあおやすみ」
「あぁ、おやすみ」
 入ってきたときと同じようにそっとドアが閉まル。


 様子がおかしい……?
 そのドアを見つめながら、帰宅してから一度も視線を合わせていないことに気がついた。





 キーボードに向かう手がふと止まる。
 今は一分一秒でも止まっている場合ではないというのに、ここ数日のすずの様子が気にかかって仕方がなかった。
 避けられている訳ではない、しかし、目が合うときまって逸らされる。
 無理にでも捕まえて問いただしたい気持ちはあったが、それが出来ないのはなぜか。
 進もうとする気持ちを何かが押しとどめる。
 理解できない感情に流され、仕事を言い訳にして時間だけが過ぎていた。
 肘の下で書類の束が乾いた音を立てて崩れる。
 そうだ。
 今は止まっている暇はない。
 再び動き出した指をさえぎり、軽く、それでも鋭いノックと同時にドアが開けられた。
「一哉、ちょっといいかな?」
 返事を聞く前に入ってくるあたりで、無理だと言っても引き下がるわけではないだろう。
「松川さん、何か」
「少しね、気になった事があったから」
「気になる? ……学園でなにか動きがあったのか?」
「いや、それとは関係ないよ。むぎちゃんの事なんだけど……このごろ何だか元気がないように思えてね」
 今さら指摘されるでもない事をはっきりと言葉にされる。
 頼んだ仕事はこなしている、しかし得意なはずの家事で単純な失敗を繰り返していた。
「なにか心当たりはないかと思ってね」
「いや特には……松川さん、あんた、それだけを聞きにきたのか」
「いけないかい? 彼女と付き合っているのは一哉、君だろう……。彼女の様子がおかしければ一番に気がつくんじゃないか、と思ってね」
「……何が言いたい」
「なにも。そう……思い当たる節がないのならいいんだ。じゃあ邪魔したね」
 とても、なにもないとは思えない意味深な視線を残してドアが閉まった。
 深く息を吐くと、鈍い痛みが走るわき腹を押さえ、音がしなくなったドアをただ見つめた。
 放り投げていた携帯電話を手に取り、体に染み込んだ動作が何も考えなくても番号をおす。
「コーヒーを二つ、大至急だ」
“二つ?”
「あぁ、ニ分で持って来い」
“あ、ちょっ……”
 返事の途中で切ると、ドアが音を立てるのを待ち侘びた。





「おまたせしましたっ」
 ジャスト二分。
 乱暴な音を立てて目の前にコーヒーが置かれる。
「もうっ、こっちの都合も聞かないで……お洗濯の途中だったんだから、じゃあね」
「おい」
「なに?」
「二つ、と言った意味がわからなかったのか」
「…………忙しいから」
「だったら、おまえの様子がここ数日おかしい理由をいますぐさっさと話せ」
 ドアに向かいかけていた背中がびくっと震えた。
「おかしく、なんかないよ」
「俺にしらを切りとおせるとでも思っているのか」
「……っ!」
「すず」
 出来るだけ柔らかい響きになるよう意識して、立ち尽くしている恋人の名を呼ぶ。
「あのっ、あのね!」
 勢い良く振り向いて、久しぶりに視線が合わされた。
 威勢のいい声音とは対照的に、ひどくゆっくりと腕が動くとポケットから何かを引っ張り出した。
「それは……」
「こないだ、部屋の掃除を頼まれたときに見つけたの……皺になってたからアイロンかけて戻そうかと思って持ち出したんだけど……大事なものならあたしが勝手な事しちゃいけないんじゃないか、とか……考えちゃって」


 もう手元にあった事すら忘れていたハンカチ……遠く淡い思い出の中の一枚。


「これの話、聞かせてくれる?」
 すずの目に浮かんでいたのは単純な興味や好奇心ではなかった。
 不安よりももっと深い色で見つめられる。
「これって、女ものだよね」
 かつて誰の持ち物だったか、おそらくは察しがついているのだろう。
 その名を出さないよう、持ち続けていた理由を口にしないよう、噛み締めた唇をなぞって宥めたいという気持ちが湧いてくる。
 けれど何と言えば、こいつは納得する?
 俺にはとっくに過去の出来事でしかない事も、すずにとっては今現在、進行している出来事だ。
 致し方ないとはいえ、頻繁に訪れる人物に心を痛めているのは知っていて、それでも……。
「さぁな」
 誤魔化す方法を選んだのは、それがすずへの優しさだと信じての事だった。





 ふっと息をついて、見送ったドアから身を翻す。
「彼女は何か役に立つ情報を?」
 いつの間にか背後に現れていた人物が、寄りかかっていた壁から身を起こして口を開いた。
「松川さん、驚かさないでくれ。今日は特に目新しい情報があって来ていた訳じゃない」
「……そう」
 その先を口にしないだけの遠慮はあるらしい。
「それより、あいつを見なかったか?」
「むぎちゃん? いや……どこかの掃除でもしているんじゃないかな」
「そうか……見かけたら部屋にコーヒーを頼むと伝えてくれ」
「一哉、仕事も大事だろうけど」
「伝えてくれ」
 足を引きずってでも階段を使って部屋に戻ったのは、無意識に弱みを見せたくないという心理が働いたからかもしれない。
 淡々とした穏やかな顔の下で、機会をうかがっている相手に対して。
 席につくと予想以上に疲労が襲ってきた。
 早く解決するために役立つかと思っていたが、絢子さんからは大して重要な情報は得られていない。
 パソコンを立ち上げるのすら億劫で、目を閉じ思考の中に漂う。
 ──すず。
 誤魔化したあの日から、ぎくしゃくとした空気が間に流れている。
 納得していないのが全身から伝わってきて、その度にすずからも自分からも目を逸らす。
 過去を振り返るのは好きではない。
 あの時ああすればと無意味な時間を割いたところで、変えられるわけはない。
 すずの手から奪い、引き出しに無造作につっ込んでいたハンカチを取り出す。
 振り返っても、意味がない。
 ……握る手に自然と力が入った。





 コール音が耳の中で繰り返される。
 繋がったところで何を話せばいいのか迷った挙句、いつものようにコーヒーを頼むのがオチだとわかっているのに、それでも一目だけでも顔を見たいと思うのは気力が落ちている証拠か。
 一向に繋がる気配の無い携帯を置くと、机に手をついて立ち上がった。
 風にあたれば少しはこの気持ちも晴れるかもしれない。
 時間をかけて一段ごと上り、ドアの手前で息を整えていると、風に乗って声が聞こえてきた。
 松川さんと……すず!?
 同じ家に住んでいるのだから、二人が話をしていても不思議ではない。
 それが昼間のリビングかどこかで、まわりに他のやつらもいればだが。
 深夜の屋上で二人きりで何を話しこんでいる?
 ドアを開けて出て行けばいいと頭は命令するのに、体はぴくりとも動かなかった。


“……ありがと、依織くん”
“僕でよければ、これからいつでも……”


 かすかな会話の断片がやけに大きく耳に響いた。


 身が痛むのは無理に動いたからだと言い訳が出来た。
 他に言い訳の出来ない痛みを抱えて引き返す。


 自室のドアを閉めると、詰めていた息を吐き出した。
 過去の感情が襲ってくる。
 象徴であるハンカチを取り出して、ゴミ箱に放り投げようとした手が止まった。
 かわりに握り締めたまま目を閉じる。
 初めて自分にもあると知った感情の残骸だ。
 今は何の意味がなくても、これが何より大事だと思っていた時期があった。


 上辺だけの付き合いが交錯するパーティーで、偶然知り合った女性。
 ほんの少し服にかかっただけなのに、周囲の目も気にせず必死にふき取ろうとしていた。
 クリーニングしてから返すと預かっただけのつもりが、次に出会ったときの控えめな笑顔にポケットから出すのを忘れていた。
 何度か顔を合わせていれば、自然と話す時間も増えていく。
 それと同時に周囲の雑音も増えていった。
 あの時ほど、自分が御堂の跡取りだという事を意識させられたことはない。
 先がどうなるかなど関係なく、ただ淡い気持ちで接している相手が、やり玉にあげられる。
 雑音をくだらないと切り捨てるほど本気でもなく……相手の本意を問うほど真剣でもない恋の行方は、あっけないほどあっさり訪れた。
 相手の婚約。
 返しそびれたハンカチと、消化不良の気持ちをしまい込んで記憶から消した。
 結局あの時、一番大事だったのは自分の体面だったのだろう。


 目を背けるうちに彼方へと追いやられた記憶に問い返される。


 また、同じ事を繰り返すのか?


 さきほどのすずと松川さんの声が蘇る。
 握り締めたままのハンカチは、刺繍がつぶれるほど捩れていた。
 トラウマとまで大げさに言えない過去の象徴も、ここで立ち止まっていてはそうなる可能性を秘めている。
 なにが一番大事なのかを見失って、手放す事になるなど耐えられない。


 そっと引き出しに戻すと、軋む足を引きずって廊下に出た。





 手すりに寄りかかってぼんやりと夜空を見上げている顔に声をかけた。
「すず……松川さんは」
「一哉くん!? えっと、依織くんなら部屋に戻ったと思うけど、呼んでこようか?」
「そうか、ならいい。松川さんに用はない…………おまえに話がある」
「話?」
「あぁ、おまえがどういう結論を出そうとも、まずは聞いて欲しい」
「ねぇどうしたの……そんな真剣な顔して」
「少し黙って聞いてろ」
「は、はい……」


 知らなくてもいい事だと決め付けていたのが、優しさだと勘違いして不安を煽っていた。
 過去を振り返るのは好きでない事にかわりはない。
 それ以上に同じ失敗を二度繰り返すなど俺の辞書にはない。
 話す言葉にも戸惑いが混じりながらも、過去を振り返って浸るのではなく、先に進むための迂回路を順に追っていった。


「……だからおまえが気にする必要はない」
 実際はほんの数分だろうが、それでも痛みを感じる体を歯がゆく思いながら、話し終えるとベンチに座り込んだ。
「そっか、うん、わかった」
 隣に並んですずも腰をかける。
「話してくれてありがと」
 なんと返事をすればいいのかわからないまま沈黙が流れた。
 冬の澄んだ空気が肺の中を循環していく。
 吐き出した息の白さが、空に消えていくのを黙って見つめていた。
 ふと思い当たってすずの手を取る。
「冷えてるな。悪かった……部屋の中で話をすればよかった」
 そんな事すら思いつく余裕もないほど、焦っていたらしい。
「一哉くんもね、でもほら、こうすればあったかいでしょ?」
 つないだ手を包むように、さらに重ねられた手のひらの温かさに愛しさがこみ上げる。
「きゃ……か、一哉くん!?」
「もう少しだけこうさせてくれ」
 腕を放したら二度と戻らないかもしれない温もりを刻み込む。
「今の話を聞いたからといって、おまえを無理に引きとめようとは思わない」
「はい?」
「松川さんを選ぶなら」
「ちょ、ちょっと待った!」
「……っつ、馬鹿……あばらを押すな」
「馬鹿は一哉くんでしょ? あたしと依織くんがどうとか思ってた訳!?」
 会話の断片が脳裏によぎる。
 そうではないのか?
「相談のってもらったりはしたけど、何を勘違いしてるのよっ」
 怒った顔でまくし立てられる。
「一哉くんが話してくれなかったら、明日にでもあたしから聞こうって思ってたの、ハンカチの事! だって気になってたんだもん!! でも気持ちがまとまらなくて、そしたら依織くんが話聞いてくれるっていうから……それだけ!」
 すずはそれだけでも……まぁいい、こういう事は知らなくてもいい事柄だ。
「あたしの気持ちを疑ってたの?」
「そういう訳じゃない」
「じゃ、どういう事よ。あたしが好きなのはずっと一哉くんだけなのに、ひどい」
 怒りの口調には似合わないセリフと、さっきまで抱え込んでいた感情のギャップに苦笑が漏れる。
 俺が立ち止まってから迂回している間に、こいつは先回りをしていた訳か。
「……暴れるなよ」
「え、なに? うわっ」
 再び胸の中に温もりを閉じ込めた。

あとがき

一哉のトラウマと、それを癒すむぎ……
のつもりが、はて?
御堂さん勝手に立ち直って、むぎの出番なしです
もろもろゴメンなさい。

余談
「あばらを押すな」を変換したら「亜薔薇をお砂」と出ました
うちのPCはお馬鹿さんみたいです。持ち主が持ち主だから。