世界基準の聖祝日


 必要な内容は全て頭に入れた。
 これで今日の会議はさっさとケリがつくだろう。
 すずと約束を交わしていたわけではないが、今日はどうしても早く帰宅したかった。
 製菓業界の策略に、日本中がのせられていると皮肉な気持ちにもなるが、浮き立つ感情は押さえられそうにもない。
 あいつはあれでも隠しているつもりだろうが、昨夜、帰宅した時キッチンからやけに甘い匂いが漂っていて、張り切って用意しているのが一目瞭然だった。
 パソコンの電源を落としたと同時に、寝室からけたたましい時計の音が聞こえ、同時にふっと笑いが漏れる。
 6時ジャスト。
 ……すずがいつもセットしている時間に、ちょうど一段落ついたのか。
 ドアを開けて薄暗い部屋の中へ目を向けると、もぞもぞと布団が動き、中から出てきた腕が音を止めた。
 朝食の準備をしに起き上がったら、また早くから仕事をしていたことについて、文句を言い出すのだろう。
 いつものことだ。
「うん?」
 様子が、おかしい。
 そう思った瞬間に足はベッドへと向かっていた。
 布団を跳ね除けるような勢いで起き上がる、そう、いつもの仕草がみられない。
「すず……おい、すず?」
「ん」
 寝起きのせいだけとは思えない掠れた声に、布団を引き下げて顔に手をつける。
 急に触れた指先に驚いたのか、うっすらと汗をかいた額にしわが寄った。
「熱があるな」
「……だいじょぶ」
 言い終えると同時に咳をして、身を起こそうとした途端に顔をしかめている。
「自分の状態も把握できていないヤツが、何が“大丈夫”だ、馬鹿」
 浮かんだ肩を押すと、あっけないほど簡単に元に戻った。
「でも、朝ごはん、つくらなきゃ」
「でもじゃないだろう。朝飯くらい何とでもなる。いいから寝てろ」
 今度、眉が寄ったのは熱のせいではなく、俺が使ったあとのキッチンを想像してだろう。
 俺以上に、俺の家事能力を把握しているからな。
 自分の体調よりも、そっちが心配とはたいした家政婦根性だぜ。
 ふっと息を吐いてから脇へ腰掛け、なおも起き上がろうとする体を両腕で閉じ込める。
「いま体温計をもってくる。それで確認したら素直に従えよ」
「やぁ」
 呂律が回っていない状態で嫌だと言い張ってる場合か、馬鹿。
「ベッドから、一歩も、動くな」
 耳元で言い聞かせるように囁くとようやく諦めたのか、枕がくぐもった音をたてて沈んだ。





「8度2分……で?」
 こほっと一つ咳をして、目の前に突きつけた体温計から目を逸らすと、不承不承という顔で口を開いた。
「わかりました、今は寝ています」
 今は、という言葉にひっかかりを感じて眉をあげる。
「俺が出社したら、動き出すつもりじゃないだろうな」
 むせているところを見ると、どうやら図星か。
「この馬鹿。こんなあからさまに風邪をひいているヤツが、なに考えてんだ」
 隠し事をするときの癖で、ついと目を逸らしながら咳き込んでいる。
 そして掠れ声が返ってきた。
「なにも」
「ほぅ」
 言葉の響きから苛立ちを感じ取ったのか、布団を引き上げて顔を隠した。
 具合が悪いやつを攻めたてている後味の悪さに、気を取り直して、かろうじて覗いている頭を撫でる。
「とにかく、薬となにか食べられる物を探してくるから、絶対に動くなよ」
 返事のかわりに、また咳き込む音が聞こえた。





 ……俺が夜明け前に起きだした時点では、変わった様子がなかった。
 急に熱が出たのは疲れのせいか、ウイルス性の可能性が高い。
 そういえば、以前にもこんな事があった。
 あいつが住み込みで働くようになってしばらくたった頃か。
 あの時もこうして粥をつくった。
 おかげで本を見なくても作り方を覚えていたから、さほど困りもせずに準備はできた。
 記憶通りにすすめているから、味も問題はないだろう。
 俺がここまでするのは、してやりたいと思うのは、世界中でただ一人だけだ。
 ……おとなしく恩恵に与ればいいものを、あいつは人の手を借りる事を極端に嫌がる。
 自立心を尊敬はするものの、体調が悪いときくらい素直に甘えて欲しかった。
 仕事にかまけている間に一人苦しんでいたと思うと、鈍い痛みが胸をよぎる。
 たとえ俺が熱をさげてやる事は出来なくても、隣で抱きしめていてやりたかった。
 おそらくは、あいつの母親がそうしていたように。
 心配をかけまいと一人で耐える姿がかえって心配を煽るというのに、ある日突然、親の庇護をなくしたせいかギリギリまで自分ひとりで何とかしようとする。
 火を弱めると、傍らに置いておいた携帯電話を取り上げ、なれた番号を素早く押した。
「御堂だ。至急、頼みがある」
 いくつか電話をかけ終わる頃、土鍋のすき間から湯気が噴き出してカタカタと鳴りだした。
 それがまるで熱に震えるすずのようで、知らず知らずのうちに眉間にしわが寄った。





 身じろぎをして、腕の中で向きを変えた顔に髪がかかる。
 汗で張り付いた髪に眉をしかめている顔からそっとかき上げてやると、朝よりも熱がひいているのが伝わってきた。
 手首にそっと指をあてると、脈も落ち着いて規則正しく打っている。
 多少、呼吸が荒く早い以外は快方にむかっている様子に、詰めていた息を吐きながら送られてきた資料をサイドテーブルに置いた。
「ん……」
 カサッと鳴った紙の音に眉をしかめて、うめき声を出したすずを抱きしめると、よりハッキリとした声が腕の中から返ってきた。
「かず……く……」
「悪い、起こしたか」
「う……な、んで」
 熱でうるんだ瞳が困惑の色を浮かべて、あたりを見渡す。
 そして軽く咳をした。
「あたし、どのくらい寝てた、の」
「うん?」
 すずの頭越しに腕時計を確認して答えを返すと、慌てふためいて体を起こそうともがきだした。
「おい、暴れるな」
「だって、仕事っ」
 熱で赤くなっていた頬からみるみる血の気が引いて、口をあわあわと震わせている。
「今日は出社しないで指示を出すだけにした」
「でもっ」
「あぁ、薬の時間だな……なにか食べられそうか?」
「ねぇっ、待って、なんで!?」
「果物ならいろいろ揃ってるぜ。他に食べたいのがあったらすぐに用意するから言えよ」
「はなしを聞いてってば、ちゃんと説明してよ」
 立ち上がろうと頭の下から引き抜こうとした腕を、熱があるにしては驚くほどの力でつかまれ戻される。
 こういう強情さはいつでも健在か。
 思わず笑いを漏らすと、不思議そうに見つめ返された。
 納得のいく答えをもらうまで解きそうにない指に手を重ね、起こした体をまた戻す。
「高熱でうなっている彼女をおいて、さっさと仕事に向かう薄情な男だと思われるのも癪だし、指示をだすだけなら電話やメールで事足りる。だから、おまえが気にする必要はない」
「あたしの為に仕事……やすんだの」
「社長の特権だろ?」
 あえて傲慢なセリフで笑うと、丸く見開かれていた瞳が揺れてじわりと濡れた。
「馬鹿……泣くな」
「うん」
 そう言いながら次第に強くなる嗚咽が、胸に突き刺さる。
 ここまで思いつめるくらいなら、もっと普段から甘えて、我がままを言って、俺に頼ればいいものを。
 すずは思い違いをしている。
 俺の優先順位は、常におまえがトップなんだぜ?
「っく……うー」
「わかった、好きなだけ泣けばいい」
 苦しくなるほどきつく抱きしめたい気持ちを抑えて、しゃくりあげる背中を抱き寄せながら、熱がこもる毛布を被って潜り込んだ。





「落ち着いたか?」
「……ん……ごめん」
 どれだけの時間そうしていたのか、泣きはらした顔で体をおこしたすずに合わせて、自分も起き上がった。
 照れ笑いをしながら謝るすずに、軽く触れるだけのキスをすると、勢いよく胸を押し戻される。
「なんだよ」
「だって、あたし風邪ひいてる」
「人にうつせば、そのぶん早く治るっていうぜ?」
「そんな迷信ぜんぜん信じてないくせに」
「……口ごたえするほど元気になったか」
 言葉に詰まったすずの額を弾こうとした指先を、ふと思い直して頬に添えた。
「一時は朦朧としていたのに比べれば、安心した」
「だいぶスッキリしたみたい。迷惑かけてごめんね」
「それをいうなら“心配かけて”だろうが。おまえは俺が怪我で寝込んでいるとき、迷惑だと思っていたのか?」
「え? ……ううん。早く良くなって欲しいなって」
「俺もそう思っていたとは、考えられないか」
「そんなことない……ありがと」
 おさまっていた涙がゆっくりと頬を伝って、添えたままの指に流れ落ちていく。
 風邪のせいで気弱になっているなら、いくらでも泣けばいい。
 そのたびに受け止めてやるから。
 零れ落ちる順番を待っている涙を唇で拭うと、くすぐったそうに身を捩って笑い声に似た声を漏らした。
 今日はじめて聞いたその声を耳に焼き付けながら、手の平に軽く力をいれて動きを封じ、キスをする。
 熱のせいで少しかさついた唇は、それでも甘く溶けていく。
「うつっちゃうってば……インフルエンザとかさ、性質悪いのだったらどうするの」
 ようやく唇を離す頃には、いつもの顔で抗議をされた。
 目にも力が戻っている。
 安堵という言葉の意味を今ほど強く意識したことはないと感じて、笑みで緩みそうになる口元を引き締めた。
「軽い風邪と過労だそうだ。それに俺は自己管理に抜かりはないから、うつされる心配はない」
「それでもダメはものはダメ」
「わかった。まぁ、今日はこれで諦めてやるか」
「……うん」
「さて、と。薬の時間だ。なにか胃に入れてからの方がいいな……おい」
「はい?」
「どこに行こうとしている」
 酷くダルそうにベッドから足を下ろしながら、不思議そうな顔で聞き返された。
「どこって、だから何か簡単に作ろうと思って」
「この馬鹿、ついさっきまでぐったりしていたヤツがなに考えてる。この俺がつくった朝飯もほとんど残して、第一、医者が来た事すら覚えてないやつが、ちょっと良くなったからって動き回るな」
「う……あ、あの、ほら、顔も洗いたいし」
「どうしても行くと言い張るなら……」
「あ、うわっ」
「これが最大限の譲歩だな」
「降ろしてっ」
 抱きかかえられて慌てるすずの目を無言で見つめ返す。
「うぅ」
 決まり悪げに唸った後、ようやく観念したのか首に腕が回された。
「今日の一哉くん、妙に優しくて変」
 照れと嬉しさを隠せない抗議の声が胸元から聞こえて、シャツ越しにあたたかい息がしみ込んだ。
「変とは言ってくれるじゃないか。今日くらい甘やかしてやろうという、恋人の気遣いが変とは」
「だって骨折してたって休まない人が、わざわざ仕事休んだり……お粥まで作ってくれたり……そんな重病人じゃないよ、あたし」
 とん、と肩でドアを開けて進みながら、すずの追求をかわしていく。
「俺がしたかったから、したまでだ」
「果物いろいろ、って……一哉くんが買い物に?」
「いや、届けさせた」
「やっぱり。どこにスーパーあるか知らないくらいだもんね……ね、お医者さんっていつ来たの?」
「おまえが寝付いてすぐだ。運が良かったな、診療時間前だったからすぐに往診に応じてくれた」
「そっか、無理言って……迷惑かけ」
「あと1度でも“迷惑”という言葉を使ったら、口塞ぐぜ」
「手がふさがってるのに、どうやって…………あ」
 廊下の真ん中で、抱きかかえたまま出来る方法を実行に移すと、熱が引いたはずの顔が赤く染まった。
「……ダメって言ったのに」
「おい、大人しくしてろ……ったく、病気の時まで素直じゃないやつだな」
「どうせ、あまのじゃくですよーだ」
 素直に感情を曝け出したのはついさっきの事だったが、触れたらまた傷をこじ開けてしまう。
 病気や怪我のとき、安心できる相手に傍にいて欲しいという気持ちは、自分が経験していたからこそ良く解った。
 あの時、俺が望んだのは家族ではなくこいつだった。
 今こいつが望めるのは……俺しかいない。
「今日の俺の時間は全ておまえにやるから、ありがたく受け取っておけ」
 ひとしきり泣いた顔を胸にうずめて、首にまわされた腕に力が入った。
 やがて小さく呟く声がして、強張っていた体からすっと力が抜ける。
 耳に届かなくても口の動きで気持ちが伝わってきた。
 “ありがとう”と感謝されることではないと思いながらも、心の中で弾むセリフに自然と笑いが零れた。





「ほんとにいっぱいある」
 切り分けた状態で届けさせた果実を前にして、椅子に座ったすずが子供のように目を輝かせた。
「どれにしよう、種類が多すぎて迷っちゃう」
「だったら全種類にすればいい」
「そんな、もったいないっ」
 すずらしい一言に苦笑しながら手を止める。
「えっと」
 決まるまで時間がかかりそうな様子に呆れた顔を返すと、ふいに真剣な表情で色とりどりの果実を見比べだした。
「あ、あれ……桃がいいな」
「わかった」
 柔らかい果肉を崩さないよう、季節はずれの水蜜桃を器に盛ると、はにかんだ笑顔が浮かんだ。
「あとね、もう一つお願いしていい?」
「なんなりと」
「冷蔵庫の真ん中の棚にあるのを、出して欲しいの」
 言われるがまま扉を開けて目ぼしい容器を取り出すと、伸ばしている腕に手渡した。
「ほんとは直前に仕上げして、ちゃんとキレイに包んでから渡したかったんだけど」
 蓋をあけた瞬間に、甘い香りがあふれ出す。
「バレンタインのチョコレートなの」
 なぜか、困ったような顔をして見上げられる。
「ねぇ、あとちょっとで完成なんだけど、だめ?」
「駄目だ」
「……けち」
 小さくてもハッキリ聞こえたセリフに眉をひそめると、すずは愛想笑いで誤魔化した。
 手にしていた器を戻して向き直り、すずの元へと足を進める。
「このままで十分だ」
「え? ……あ」
 並んだチョコレートの中から一つ摘んで口に入れると、控えめな甘さがいっぱいに広がった。
「あぁ、美味いぜ」
「ほんとっ?」
「俺が嘘をついたことがあったか?」
 首を横に振りながら、満面の笑みが溶けていく。
「たとえ未完成だろうが、気持ちの問題だろ。昨日から用意していた、それだけで十分だ」
 どんなパティシエが作ったものとも比べる事ができない、世界でただ一つのものだ。
 それに、照れくさそうに笑っている、元気な姿が見られることが何よりの贈り物だった。
「形を整えて、ちゃんと仕上げをすればもっと美味しかったと思うのに、ちょっと残念」
「ほぅ、随分と自信がありそうじゃないか。1年後を楽しみにしてるぜ」
 さらっと告げた約束に、舌に残る余韻以上に甘い空気がキッチンを満たす。
「うん、来年は風邪ひいたりしないで、絶対に完璧なの渡すから楽しみにしてて」
「あぁ」
「あ、さっきのがねビターチョコのガナッシュで、こっちはコーヒー風味なの」
 はい、ともう一粒差し出される。
 口で受け取り、指についたチョコを舐めあげると、面白いほどみるみる顔が赤くなっていく。
「……また熱があがりそうだよ、もう」
「そしたら、また面倒みてやるよ」
 ぶつぶつと文句を言うすずに問いかけると、頬を染めたままふるふると首を振っている。
「バレンタインデーなのに、あたしの方が凄いプレゼント貰った気がする」
「本来は恋人が互いに贈り物をする習慣の日なんだぜ」
 それなら……と、納得する口に一つ放り込むと、甘く蕩ける笑顔が戻った。

あとがき

はい、皆さんご一緒に・・・「欧米かっ!!」

クリスマス一哉×むぎ創作が
ハッピーエンドとはいえ、一哉ドタキャンでむぎが泣いてオイオイな内容だったので
バレンタインは仕事を放り出させてみました

あ、でもまた泣かせちゃった
つくづくむぎを泣かせるのが好きみたいです

彼(=カリスマ・俺様・一哉様)に、看病されてお姫様抱っこで運んで貰ったら・・・
もっと熱があがりそうな気もしますが
何はともあれ
スイート・バレンタイン!一哉&むぎ