女神が鳴らすカンパネラ
この曲は、指示されて弾くものじゃないと楽譜があざ笑ってる。 最も難解で、最も弾き手の個性が出るこの曲は、数多のピアニストに挫折と絶望を味あわせてきたものだけど、一番好きな曲は? と訊かれたら僕は迷うことなくこれを挙げる。 こんなに美しい旋律を、弾きこなす自信があるならどうぞ? なんて挑戦的で面白いじゃない。 展開部分のタッチを何度か繰り返しているうちに、早く弾きたくて仕方なくなってきちゃった。 「お待たせしたね、一宮君。調律、終わったよ」 唐突にかけられた声に楽譜から眼をあげると、漆黒の大屋根が静かに下ろされているところだった。 声の主がピアノに向けている顔は、自分の仕事に誇りを持つ職人のそれで、長年、多くのピアニストから絶大な信頼を寄せられている腕と人柄がありありと浮かんでいる。 道具をしまう淀みない動きも実績を物語っていて、年に数度の調律を楽しみにしていたかいがあったと、しみじみ思っちゃう。 「いいタイミング。さすがだね」 礼を言って立ち上がると、ところどころ擦り切れた大きな黒革のバッグを、いとも簡単に持ち上げてから朗らかな笑顔を向けられた。 「さぁ確認してくれるかな?」 「確認? ふふ、冗談でしょ。自分の腕に絶対の自信をもってるくせに」 ポンと一音、鍵盤を抑えて、初老の調律師は気を悪くしたふうもなく笑う。 「はは、まぁ一宮君が生まれる前から、これで食べているからね」 「うん。だから、僕もおまかせしてる」 「まぁ、確認っていうのは口実かな。新進気鋭、突如現れた期待の新星、ピアノ界の妖精と巷で評判のピアニストの生演奏をご相伴に預かりたくて」 完璧な調律を施された余韻が、次第に小さく小さく消えていく中、重ねられた賛辞が琴線をくすぐった。 「やめてよね。マスコミが勝手に騒いでるだけなんだから」 一哉に頼まれて曲を作って以来だんだん登場するようになった煽り文句は、なんにでも勝手なイメージを植えつけたがるマスコミらしくて苦笑いしてしまう。 「そりゃあ騒ぎもするだろう」 その容姿じゃと付け加えて、仕事の繊細さとはかけ離れた豪快さで笑う相手に肩をすくめた。 こういう言われ方をするのは祥慶で慣れてるし、武器にしてきたこともある。 僕の内面をなにも知らないくせに……そう冷めた気持ちをひた隠して、微笑むことに慣れたのはいつからか覚えていない。 ただ、反論するより利用してやれと開き直ったとき、心のどこかが軽くなったのは覚えてる。 それが僕の生きる手段になった。 わずらわしい雑音を切り捨てながら、上辺の穏やかさで取り繕って。 本音まで踏み込まれないよう自然と覚えた防御方法は、いつの間にか固い鎧になり脱ぐ事も捨てる事も出来なくなっていた。 すずと出会うまで。 すずを知って、僕はありのままの姿で生きてもいいと思えたんだ。 どんな僕も受け止めてくれるから、自由に呼吸が出来る。 重い枷を脱ぎ捨てて、僕が僕であることを喜んでいいんだと、教えてくれたから。 「あぁ、悪かったね。ごめんごめん、気にしないで」 「え……?」 唐突に黙り込んだ僕をみて不機嫌になったと誤解したのか、ぽりぽりと白髪混じりの髪を掻いて、バッグを抱えなおして踵を返そうとする姿に思わず声をあげた。 「ねぇ、待って。時間があるなら聴いていってよ。……お願い」 前回、調律に来て貰ったときとは、まったく違う音だと自信をもって言えるから。 どんなに有名な評論家よりシビアな耳をもつ人に、聴いて欲しい。 言葉にならない気持ちが伝わったのか、ゆっくりと肯いてバッグが床に下ろされる。 リビングのソファーに腰かけたのを眼の端にとらえてから、手にしたままだった楽譜を静かに伏せて、四角張った椅子をひいた。 すっと一呼吸おいて、両の腕が自然に動くままに任せる。 いちいち譜を読まなくても、ついさっきまで頭の中で弾き続けていたんだから、それにこの曲は身に染み付いているから、躊躇いなしに弾ける。 思い出の曲、ラ・カンパネラ。 鐘が鳴る様を表したリストの名曲。 俗に言う、超絶技巧曲の代表で、ピアニストの目標。 すずと出会ったとき、ちょうどこの曲を練習していたんだよね。 はじめは小さなアルペジオ、鐘が一つ鳴り始める。 どこか不安定に揺れ動いている鐘が、まるであの頃の僕みたい。 気がついて欲しくて音を出すのに、誰も共鳴してくれなくて、一人孤独に揺れていたんだ。 次第に鐘が増えていく。 一哉ん家に転がりこんでさ、松川さんや羽倉と暮らすようになって、そして……。 また鐘が増える。 はじめはね、一哉のせいで厄介な事になりそうだって思ったんだ、ほんの少しだけど。 女嫌いの羽倉がぎゃーぎゃー騒いで、ただでさえ冷え切った四人の関係が、もっとギクシャクしたから。 でも、不思議とそのうち何もかも上手くいくようになって、気がつけば彼女を中心にまとまっていったんだ。 偶然? 奇跡? それとも……必然? 僕はね、すずに出会えて本当に嬉しいんだ。 出会えたことだけじゃなくて、僕が彼女を大切に思うのと同じくらい、彼女が僕を想ってくれるのも嬉しくて。 きっかけは悲しい事件だから、これから先、すずが幸せだと思えるよう一生をかけて誓うよ。 この鐘のように、重なり合って高らかに祝福するチャペルの鐘みたいに、幸福な響きを奏で続けてあげるって。 ……ね? いつ、自分が弾き終えたのか……。 陶然としていた全身に浴びせられるような拍手が、感覚を現実に引き戻した。 「これは驚いた。こんなに美しいリストを聴いたのは、いつ……いや初めてだ」 礼を言おうとして息があがっている事に気がつくほど、僕は演奏に夢中になってたみたい。 言葉の変わりに精一杯の笑みで返すと、興奮を押し込めているせいか高潮した表情で見つめ返される。 「なるほど。恋……だね」 あぁ、やっぱりこの人の耳は一流だ。 「ふふ、わかっちゃった?」 隠すつもりないから当然だけど、ずばり言い当てる、そして臆面なく言葉にするあたりに、照れくささを感じて軽口を叩く。 「お相手は一宮君の女神だね」 「うん」 ピアノに関してだけじゃない、僕の全てを救ってくれた女神だよ、すずは。 大事にしたい、たった一人の人。 「ありがとう、次に聴ける機会を楽しみにしてるよ。なんなら毎日でも調律に来たいくらいだ」 「おおげさだなぁ。そこまで喜んでくれたなら、聴いてもらったかいがあったけど」 「いや、いい演奏を聴かせてもらって感謝してるのは私のほうだ。ピアノも喜んでるよ」 「女神に愛されてるし? それに、なんてたって最高に腕のいい調律師がいるからね」 「この道、何年だと思ってるんだい?」 褒められたお返しじゃなく、素直に溢れた褒め言葉に、今度は彼が軽口を叩く。 同時についたため息のような笑いが、次第に大きくなって重なって、部屋の中に吸い込まれていった。 「あー、今日はいい気分。何時間でも弾き続けられそう……あっ」 今日は、僕のかわいい女神が来る予定だったんだ。 時間を確認するために時計を見るのに合わせて、彼も視線を同じ方向にあわせると慌ててバッグを拾い上げた。 「もうこんな時間か。おっと、次の予約にいそがなくちゃ」 「ごめんね、引き止めて。それと、ありがと」 「こちらこそ。……では、また」 まるで、明日にでも会える気軽さでまたと言う背中に、またねと繰り返して、思いつくままピアノを奏でる。 調律師への最大の賛辞で送り出すために。 次に会うのは早くても半年後。 その時には、僕のピアノがもっと広がっていますように。 今度は、その理由を愛だといわれますように……。 ちょうど一曲弾き終えたと同時にチャイムが鳴って、ドアが開くのがもどかしいと言いたげに、すずが元気に飛び込んできた。 「下で男の人とすれ違って挨拶されたんだけど、知り合いだったかなぁ? ぜんぜん記憶にないの。忘れちゃってたら……どうしようっ、凄く失礼なことしちゃった」 なるほどね、すれ違っただけでわかったんだ。 彼女が僕の女神だって。 うーん、すずにはオーラでもあるのかな? だとしたら僕以外の男にもみえるのが、ちょっと面白くないけど。 まぁ、今は凄く気分がいいから、それでもいいか。 くすくす笑う僕を、すずがきょとんと見返す。 「ど、どうしたの瀬伊くん。あたし、おかしいこと言った?」 「ううん、違うよ。きっと、すずが女神様みたいだから、つい挨拶しちゃっただけじゃない?」 「え……? えぇ!?」 意味がわからず、頬を染めて慌てるすずを見ているうちに、体が勝手に動いて抱きしめた。 「ほんと、かわいいなぁ」 「なっ、何? 急にどうしたの瀬伊くん」 「おしえてあげない」 これはピアノだけが知ってる秘密。 あっさり言葉にしちゃったら、映画を最後から観るようなものでしょ? すずには長い長い時間をかけて、ゆっくり態度で教えてあげる。 ラストシーンに辿り着くまで、僕達にはたくさんの時間があるんだから。 「でも、これじゃ、瀬伊くんにチョコレート渡せないよ」 本格的に顔を赤くして悲鳴をあげる様子に、愛しさが込み上げてくる。 この気持ちが、すずのチョコレートでもっと甘くなることを確信してから、ようやく腕を緩めた。 |
あとがき
創作中盤
“一哉のせいで”という文章を変換しようとした時
まっさきに“一哉の瀬伊で”になりまして
あら……そこはかとなくBLちっくな表現?
二人とも!
猫百匹がノーマルCP創作しか出来ないことに感謝せよ!
あ……
なにはともあれハッピーバレンタイン瀬伊×むぎ!