春まで待てない
コートの襟を口元にたぐり寄せると、一定のリズムで浮かんでいた白い吐息が中に吸い込まれた。 溜まったぬくもりが指先にかかり、どんなに冷え切っていたのかに驚き、そのままふうふうと息を吹きかける。 じわりと血の通う感覚がくすぐったさを湧き起こして、思わず両手をこすり合わせる。 やっぱり手袋もしてくればよかったかな。 最近は昼すぎになれば大分温かいから、朝早く、市場が開くこの時間から出かけても平気かと思ったのに。 窓の中から天気の様子を確認したときだって、それほど寒そうには思わなかったんだけどなぁ。 時間がたって陽が高くなるにつれて温かくなるはずが、雲の厚さはどんどん増すだけで一向に晴れる気配はない。 白くなった指先に、何度か白い息を吹きかけては両手をこすり合わせ、どんよりとくすんだ灰色の空の下、脚を速める。 あたしだけじゃない。 道を行く人全てが、一秒でも早く温かい場所へ向かおうとしてるみたいに、足早に進んでいる。 ふと目を上げた瞬間、なにげなく視線があった初老の女性が、あたしの仕草を真似て何事か声を掛けてきた。 あたしの手を指してから、頬を両手でこする仕草をする。 何を喋っているのかわからないけど、その表情から“今日も寒いわね”という類のものだと想定して、笑って頷きかえした。 それで正解だったのだろう。 今度は大きく二の腕をこすって、なげきとも諦めともつかない顔で肩をすくめられる。 また何事か一方的に喋って、手を振りながら遠ざかる相手に自分も振り返した。 風を受けて再び冷えた手を、冬物のコートにつっこむ。 長い事、この地で暮らしているだろう人だって、寒いんだもの。 本来の五月なら、とっくに薄手のシャツにスカートで過ごしていたあたしは、余計に寒さが堪える。 今度、夏実か一哉くんたちから連絡が来たら、使い捨てカイロを大量に送ってもらえるか頼んでみよう。 日本じゃ、もう店先に並んでないかもしれないけど。 いまだに慣れない気候と感覚に、いまさらながらここが日本ではないことを自覚した。 日本に居たら、そろそろ衣替えの準備でもしようかって時期だけど、ロシアの春はまだまだ先らしい。 いつもなら瀬伊くんと一緒に出かけるから、気持ちがあったかくて、あまり寒さも感じないんだけどな。 活気ある市場を目指して石畳を踏みしめると、カツカツという硬い音がして、自然と脳裏に音楽が鳴り始めた。 このテンポ……アレグレットっていうんだっけ? 瀬伊くんといる時間が長くなるにつれて、それまでは馴染みのなかった音楽記号が、呼吸より自然に体へ染み込みはじめている。 それが嬉しくて、体がふわふわと軽くなっていく。 瀬伊くんが隣りにいるみたいに、あったかい。 アレグレットからアレグロに。 駆け出す一歩手前の速さで、今日のための特別な買い物をするため、市場へ向かった。 野菜は、こんなものでいいかな? あとは魚、か。 買い忘れたものがないか、身振り手振りで済ませた買い物の成果が溢れる袋の中を覗き込んでから、魚を並べている店がないかぐるりと見渡すと、活気と喧騒でにぎわう市場から瞬間的に音が消えた。 「……えっ!?」 その中から聴こえた声に、思わず声をあげてしまう。 だって、いま確かに“セイ”って聴こえた。 ここロシアの地元の人しか来ない市場で、まさか聴くとは思わなかった馴染みの名に、あわててきょろきょろと辺りを探す。 「瀬伊くん?」 まさか、いまごろはまだ家で寝てるはずだよ。 昨日は、今日の分もって遅くまで練習してたから、ゆっくり寝かせてあげようと思って起さなかったんだもん。 それにこの市場に買い物に行くなんて、あたし言ってないし……。 それでも確かに聴こえた、世界中で一番好きな名前に胸を高鳴らせていると、すぐ脇を駆け抜けていった衝撃に腕から下げていた袋が揺れた。 人ごみが溢れる市場の中を縫いながら、小さな男の子が短い足を一生懸命動かして向かう先には、腰に手をあて怒った顔をしている女の人がいて、大きな声で名を呼んでいる。 「あ……セイって、そっかアレクセイか」 再び名を呼ばれた少年は、はぐれてしまった不安からか地面を蹴って飛びついて、しょうがない子ねと言わんばかりの表情で受け止めた母であろう女性は、一回強く抱きしめてから笑顔で少年の頭をくしゃくしゃにした。 そして市場に音が戻ってくる。 大きな声で商品を売り込む声、喧嘩かと思うほど激しく値段の駆け引きをしてる客と主人、熱気でより大きく白い息を浮かばせて、人の営みが全身を包み込んで、やけにあったかい。 日本でもロシアでも、人のいるところにはぬくもりがある。 視線を戻せば、さっきの親子が手を繋いで喧騒の向こうへ消えていくところだった。 ……日常的な会話だけじゃなくて、もっと全体的な会話も勉強しないと……。 そろそろ一年にもなるのに、こんなに温かい人の会話が何一つわからない悔しさで、自分一人だけ異国の人間だと思い知らされる。 隣りに瀬伊くんがいないだけで、こんなに不安になる。 体が強張って脚がすくんでしまう。 じわじわと侵食してくる不安にまわりの喧騒が遠ざかって、ぽつん……と、立ち尽くす自分をどこか上の方で見ている感覚に襲われはじめた。 日本にいる間に、もっとロシア語を勉強していれば良かった、かな。 日本だったら分からない事があっても気軽に訊けたし、不安になっても、顔をあげれば周りに人がいてくれた。 寂しくなると言いながらも勉強に付き合ってくれた夏実に、遊洛院さんたち。 おまえの頭で理解するには何年かかるんだ? って彼らしい励ましの嫌味のあとに辞書をプレゼントしてくれた一哉くんと、理解が止まって落ち込むあたしをいっぱい励ましてくれた依織くん、麻生くん。 そして……。 大丈夫って、いつもいつも優しく抱きしめてくれた、瀬伊くん。 帰らなきゃ。 瀬伊くんの待つ家に、早く帰らなきゃ。 「あっ」 また耳に飛び込んできた“セイ”という声に、条件反射で振り向いても、さっきの親子はとうに姿が見えなくなっていた。 気のせいかと踵を返したのに、今度ははっきりと、さらに強く聴こえる。 声を頼りに人波をかき分けると、新聞を覗き込みながら傍らに居る人と会話をしているおじさんがいた。 「あのっ!……あ、えっと」 とっさに声をかけてから、不思議そうな顔で見つめられて、ここは日本じゃないんだからと気ばかりが焦る。 すいませんが……? って、ごめんなさいの方しか覚えてない。 いま何の話を……なんて、難しい会話まだわからない。 どうしよう、とっさに声をかけたのに、あたしは何も伝えられない。 「その、えーっと」 愛想笑いで誤魔化しながら記憶をフル回転させても、パニックになりつつある頭は望む答えを出してくれない。 まごついているあたしを一瞥し、興味がなくなったという雰囲気で傍らに肩をすくめると、元の会話に戻ってしまったのだろう。 何事か早口でしゃべりながら無造作に畳んだ新聞の記事に、引きつった笑顔の中の目が丸くなった。 「瀬伊くん!」 小さい記事の小さい写真だけど、確かに瀬伊くんの顔だ。 見間違うはずなんてない、いま一番会いたくて隣にいて欲しい人の顔だもの。 思わず叫んだあたしに、今度はおじさんが目を丸くする番だった。 「ま、待って。そんなに一気に言われてもわかんないよ」 知っている単語を拾い集めようとしても、興奮気味に喋るおじさんの声はあたしを素通りしていってしまう。 あぁ、もう。 こうなったら、女は度胸よ! 「この人のこと話してたよね、おじさん!」 自分と写真を交互に指差して、日本語で捲くし立てる。 「瀬伊って、聴こえたもん。え? ……ヤポーニア……そう日本人! あたしもっ」 見えないピアノを奏でるように、おじさんが空中で手を指を広げる。 その表情で、この人は瀬伊くんのピアノを聴いたことがあるのかもしれないと感じた。 こないだ、こっちに来てからはじめてのコンサートをしたんだよね。 小さなホールで、宣伝もあまりしなかったのに、音を聴きつけた人であっという間に席が埋まったくらいだった。 「ピアノ、すごく素敵な音でしょ? 瀬伊くんの音楽は最高なんだよ」 頭でぐずぐず考えていた時よりも、勢いで喋っている今の方が伝わっている気がする。 ますます早口になったロシア語はまったくわからないのに、おじさんが何を伝えようとしているのか何となくわかってくる。 「うん、あたしの知ってる人。すごく大事な、人」 おじさんには、あたしの日本語が理解できているはずないのに、大事な人、という響きの大切さは世界共通なのかもしれない。 納得した顔で笑うと、手にしていた新聞をぐいぐい押し付けてきた。 「そんな、貰えないよ。あっ」 腕に下げていた袋の開いた口に問答無用で差し込まれて、好意に甘えてもいいのか途方にくれている視界に、先に探していた物が見えた。 「おじさん、魚屋さんだったのね。ちょうどいいや」 特別な今日のためのレシピを思い出しながら、あれとこれとと指を指す。 かろうじて自然と口に出来るお礼の言葉をいい、手を振って市場を後にしたあたしは、もう一人じゃなかった。 「すーず。遅かったじゃない。寒かったでしょ?」 彼だけが呼ぶ、少し特徴のある呼び方に、顔をあげる前からあたしの頬は緩んでいた。 世界中でただ一人、あたしを“すず”と呼ぶ声は、柔らかくて甘くて蕩けるような響きを持っている。 買い物袋をどさりと机に下ろして、ただいまもそこそこに抱きついた。 「うわ、すごく冷えてるじゃないか。早くこっち」 外の空気をまとったコートを脱がされて、瀬伊くんごとあたたかさの残る毛布にくるまれる。 「ここまでしなくても……」 「だーめ。僕のせいで風邪ひかせたくないもん」 「瀬伊くんのせいじゃないし、これくらいで風邪ひくほど柔じゃないってば」 「僕が久しぶりに和食が食べたいなんて、言ったから」 「いいの。だって今日は、瀬伊くんのいう事なんでも聞くって約束したじゃない」 そう、だって今日は瀬伊くんの誕生日だから。 和食にも使える食材を探しに、いつもより遠くの市場まで行ってくることになったけど、あたしは彼のお願いを聞けるのが嬉しかったから。 お願いをされる立場はあたしだけだって、しっかりと実感できたんだもの。 「僕も一緒に行けばよかった。そしたらこんなにすずが冷えるまでほっとかないのに」 「えへへ、一緒だったよ?」 何のことか分からないと首を傾げる瀬伊くんに、さっき貰った新聞紙を差し出す。 「これ……、こないだのコンサート? へぇ、記事になってたんだ」 「それで瀬伊くんの名前が聴こえたの。だから、一緒にいるみたいな気持ちになれた」 あたしが居て欲しいと思ったとたんに、いるはずのない瀬伊くんを感じることができたから、寒さなんて気にならなかった。 体は冷えているかもしれないけど、気持ちは、心はずっとあったかかった。 「小さな記事でも、ロシアの人に瀬伊くんの音楽が伝わっているんだね」 「だと嬉しいな」 言葉の壁なんて簡単に消してしまえるほど、あたしを包んでくれるこの腕が奏でる音楽には、秘められた力がある。 いろんな世界を紡いで、感動を与えられる腕に抱きしめられているあたしは、世界で一番、贅沢な人間だとも思う。 こんなに大きな幸せを受け取っているのだから、瀬伊くんのお願いは簡単すぎて申し訳なくなるぐらいだよ。 ──……一日中一緒に居て、すずの作った料理を食べて、他にはなーんにもしないで二人だけの世界に浸らせて 断る理由も、断る気もない。 それはあたしの願いでもあったから。 あたしまで誕生日プレゼントを貰っている気分になっちゃって、いいのかな? そうだ。 「食事の準備するまで、まだ早いから。ね、他にもあたしにして欲しいことある?」 「じゃあ……。今日はまだしてない、アレ」 そっと耳に唇が寄って、瀬伊くんの希望が鼓膜と心を震わせる。 「起してくれればいいのに、すずったら黙って行っちゃうんだもん。ね……? お願い聞いてくれるんでしょ…………奥様」 未だにくすぐったくなる響きに、頬が熱くなりはじめる。 「もっと、誕生日らしいのでいいのに」 「僕には、これが最高のプレゼントだから。すずが僕の腕の中に居て、僕と同じ苗字で、同じ世界にいてくれる……これ以上のプレゼントなんてあるの?」 ささやかだけど、誰にも出来ないあたしだけのプレゼントなら、心を込めて。 少し遅れて誕生日の幕が開く。 まだ遠い春が、一気にやってきたような気がした。 |
あとがき
瀬伊誕創作をどうしようかと考え始めた頃
何気なく読んでいた歴史の本(ロシア関係)に『アレクセイ』という名前があって
「アレクセイ……セイ……瀬伊!恋愛迷宮でロシアに渡ってたし、ピッタリじゃん」
と、はしゃいで思いついたのがこの話
だから、
『ロシアで名前を呼ぶときは愛称が多い』
『アレクセイの愛称はアリョーシャ』
という事から、すっぱり目を逸らしました
いいじゃないか!いいじゃないか!よいよいよーーーい
なにはともあれ
ハッピーバースデー瀬伊!