この輝きを永遠に


 クロークの周辺は、聴き終えたばかりのコンサートの感想を、興奮気味に語り合う人たちの熱気で溢れていた。
 ざわざわと響く声に負けじと、番号を呼ぶ声が張り上げられては、一人また一人と雑踏へ消えていく。
 ふっと息をつくと、これだけの雑音の中でも、隣に座ったすずが僕を見て笑った。
「瀬伊くん、疲れた?」
「少しね。集中してた反動がきたみたい」
「あたしも。凄い演奏だったね」
「うん、こんな機会めったにないから、一緒に聴けて良かった。これを逃したら多分もう無理だと思うから」
「あとで一哉くんにお礼しなきゃね」
 確かに、発売開始からたった十分で完売した、このプラチナチケットを手に入れられたのは一哉のお陰だけど、すずの口から他の男の名前が出るのは面白くない。
「僕が電話しとくよ」
 気が向いたらね。
「そう? うん、わかった」
 熱気に頬を染めた顔で笑うすずの手を、少し強く握った。

“一宮、興味あるだろう”
 電話の向こうでチケットをチラつかせるような声に、大して興味がなさそうな返事をすると、お見通しだとでも言いたげに畳み掛けられた。
“今回で最後と言われている巨匠の来日公演だぜ?特別席のチケットが2枚あるんだが、俺は他に予定が入って行けそうにない”
 末席ですら入手困難なチケットでも、一哉の手にかかればお安い御用って訳?
 それでも半分聞き流した返事をすると、世界を相手に駆け引きしている顔が目の前に浮かんだ。
“そうか、じゃあ他をあたる。あいつも興味ないだろうしな”
 あいつと呼ぶ相手が誰を指しているのか、聞き返さなくてもわかってる。
 僕と付き合ってからもうすぐ一年たつのに、その呼び方に含まれる響きで、まだ諦めてないというのが伝わってきた。
 あーあ、わかってないね、彼女は僕と音楽の世界に浸るのが大好きだよ。
 貰ってあげる、と伝えてから数日後に送られてきたチケットで、すずと僕は今ここにいる。

 ほんの数分で、クロークの人溜まりは少しずつ減りはじめていた。
「瀬伊くん、そろそろ行く?」
 人ごみが苦手な僕を気遣って、軽く首を傾げて聞いてくるすずを、そのまま抱きしめてキスしたくなる。
「うーん……もっとすずのドレス姿見ていたいけど、ね」
 繋いだままの手を引き寄せると、あわあわと唇を動かして頬を染めた。
「ふふっ、カワイイ。このドレスも凄く似合ってるよ、贈ってよかった」
「せ、瀬伊くんっ、あの」
「んもー、まだ慣れないの? すずカワイイって、毎日のように言ってるでしょ」
「慣れないよぅ……」
 困ったように目を伏せると、つられて首筋が覗いた。
 ドレスに負けないくらい柔らかなうなじが、無防備に差し出されてる。
 そこに軽く羽で触れるようなキスを落とすと、すずの体がビクッと跳ねた。
「ふふっ」
「せ、せせせ、瀬伊くんっ」
「あんまり騒ぐとまわりに気付かれちゃうよ?」
 首筋を手で覆いながら辺りを見渡すと、ひそめた声で抗議をしてくる。
「もうっ、イタズラが過ぎるよ」
「そう? ここ、にキスしたいのを我慢したんだから、褒めてくれてもいいくらいだけど」
 言いながらゆっくり唇を撫でると、予想通りの返事が返ってきた。
「瀬伊くん!」
 近くにいた数人が声につられてこっちを見ると、クリスマスにありふれた光景だとすぐに目をそらした。
 恋人同士の甘い時間を邪魔したくないというよりは、自分には関係ないとでも言いたげに。
 ほんの二時間を同じ空間で過ごしただけの人達にとっては、僕とすずがどうしていようが気になる風景じゃないんだろうね。
「な、なに言って」
「そんなに驚く事? ……ふぅん」
 首を縦にふりながら、今度は唇を覆っている手をそっと外して立ち上がった。
 あからさまにホッとした顔で隣に立ったすずを、クロークへエスコートしながら耳元に口を寄せる。
「キス……以上の事だってしてるのに?」
「なっ!」
 何事かと振り向いた人達の間を縫って進むと、無言のまますずが後からついてきた。
 番号が彫られたシルバーのタグを差し出すと、一礼して下がっていった係員がすぐに二つのコートを手に戻ってくる。
「じゃあ行こうか」
 頬を膨らませているすずに着せ掛け、乾いた風が舞う街の中へ歩きだした。





「まだ怒ってるの?」
 ココアの湯気を払いながら、カップを手にしたすずが頷く。
「なんで? 本当の事いっただけじゃない、何が悪いのかな」
「……あたしの心臓に悪いよ」
 一口飲んで戻すと、少し声をひそめて返事をされる。
「誰かに聞かれてたらどうするの? ……恥ずかしいよ」
「ちゃんと声が漏れないように耳元で言ったでしょ、それに、皆コンサートの感想を話し合ってて、まわりの会話なんて耳に入ってないと思う」
「それでも……」
「それに、聞かれてたとしても僕はかまわないけどね」
 驚いて目を丸くしたすずをじっと見つめながら、少し本気を滲ませた声で告げた。
「すずが僕のものだって、ハッキリわかるでしょ」
 好きになればなる程、不安になる。
 いつか離れていくんじゃないか、って。
 だから今まで適当な距離でしか付き合ってこなかったのに、すずはその壁を簡単に壊してしまった。
 無くなっちゃったら、感情を抑える事が出来なくなるってわかってた、だから……かなり頑丈な壁を作ってたつもりだったのに。
 すずを困らせるつもりなんか、ないんだ。
 ただ世界中の人間に教えてやりたいだけ。
 こんなに……。
「すず、好きだよ」
 丸くなっていた目がふっと緩められる。
 心に染み込ませるかのような、ほんの少しの沈黙が流れた。
「うん」
 なに当たり前のことを言ってるの? って響きがしたのは、自惚れじゃないって思っていい?
「あたしも瀬伊くんが好きだよ」
 外から溢れるイルミネーションの灯りを受けて輝く顔が、笑顔で更に輝きを増す。
「もう一年なんだね……なんだか凄く早く感じるよ。ずっと瀬伊くんと居て、一緒にいろんなとこ行ったりして、毎日が楽しいよ」
「僕も、楽しいよ。すずってからかうとすぐムキになるし、ね」
 もぅ……と膨らんだ頬が、いつもより早く元に戻った。
 真っ直ぐ見つめる視線で、次のセリフが本心だって悟る。
「あたしね、もっと瀬伊くんのこと知りたいって思う。あたしの事も知って欲しいし。だから、これからもよろしくね」
 喫茶店のざわめきが、波が引くように遠ざかっていった。
 僕の壁を壊して、気がつけば一番奥まで入り込んで、かけがえのない存在になったすずが笑う。
 僕の不安なんて、あっさり吹き飛ばすように。
「かなわないなぁ、もぅ……」
「え?」
「ううん、なんでもない」
 不思議そうに見つめ返すすずの手を、優しく包み込んだ。
「ねぇ、このあとレストランに予約入れてるって言ったでしょ」
「うん……だからオシャレしてきてね、って」
「それなんだけどさ、ナシにしない?」
「えっ、なんで?」
「二人だけでいたくなっちゃった。他にだーれもいないとこで……ねぇ僕の家においでよ」
 他人が入り込めない空間で、すずだけを感じていたい。
 僕の世界にはすずだけでいい。
「じゃあ途中でお買い物して行かなきゃね。だって瀬伊くん家の冷蔵庫って」
 うちの冷蔵庫?
 思い返しても何が入っているのか想像できなかった。
 すずが来ない時は適当に済ますから……フリーザーの中に何種類かのアイスがあったのは覚えてるけど。
「あたしが遊びに行くと、いっつも空っぽなんだもん。また外食で済ませてたでしょ」
「じゃあ……」
 口から出そうになる言葉を飲み込んだ。
 ……一緒に住まない?
 この一年で何度も言いそうになった言葉。
 すずがどれだけ自分の家を大事に思ってるか知ってるから、僕からは絶対に言わないって決めたのに、つい口にしそうになる。
 言葉にしちゃったら、きっと凄く悩むよね。
 お互いに一人ぼっちの夜を過ごしても、あそこならすずは安心して眠ることが出来る。
 ようやく戻れた場所。
 その場所を奪うようなことだけは、どうしても出来ないんだ。
 一秒でも離れていたくない気持ちは膨らむだけだけど、すずとそうなれる日が来るなら、心の底から落ち着いていられるって納得してからがいい。
 こんな風に他人のことを考える自分がいるなんて、まだ信じられない。
 それだけすずが大事だって、毎日、痛感するんだ。
 目が合うと、緩んだ眼差しから幸福が溢れはじめる。
「あたし、腕によりをかけて作るから。瀬伊くん、何か希望ある?」
 それは……口にしたら、またすずが機嫌悪くしちゃうセリフが浮かぶ。
 せっかくのイブ、それも付き合ってから丁度一年の日に、これ以上はね。
「すずにおまかせする、僕の好みを全部わかってるでしょ」
「まかせて!」
 一哉のところで一緒に暮らしていた時と違って、僕の希望が最優先されるメニューに口元が綻びはじめた。
「うーん……ケーキはいつものヤツがいいな」
「ヨーグルト味のシフォンケーキ?」
「そう、美味しいから」
「わかった、じゃあそうだなー……デコレーションはクリスマスっぽくしていいかな?」
「もちろん、おまかせするって言ったでしょ。好きな様にしてイイってば」
 レジを抜ける間も止まらない提案に、同じセリフを返しながら笑いあう。
 明るい光に照らされていた喫茶店をあとにして、夕闇に沈み始めた街へと抜け出しても、二人の間には笑顔が消えない。
 いまは暗くても、すずと一緒に家に帰れば、あったかい光に包まれる。

 急かすように繋いだ腕を引き寄せると、二人の口から白い息が漏れた。





「もうちょっとだからー」
 キッチンからの呼びかけに、一瞬だけ指を止めて返事をした。
「じゃあ次は何がいい?」
 ほんの僅かなタイムラグがあって、弾む声が返ってくる。
「すっごくクリスマスっぽいの!」
「了解」
 すずが料理をしている間ずっと動き続けている指が、陽気な旋律を奏でだした。
 ジャズ風にアレンジした“赤鼻のトナカイ”と一緒に、遠くから鼻歌がコーラスをはじめる。
 キッチンからはいろんないい匂いがここまで漂ってきていて、姿は見えなくてもすずの存在をひしひしと感じられた。
 こんなに浮かれた気分でピアノに向かうなんて、本当に久しぶりかも。
 いつもより跳ねる指先が、言葉より気持ちを熱弁しているみたいだ。
 テクニックや記号なんて意識しなくても、聴いて欲しい人に今の気持ちが伝われば十分。
 頭で考えるよりも先に動く指を、不思議な気持ちで見つめながら弾きつづける。
 キッチンの鼻歌が大きくなって、ついには歌詞までついてきた。
 こんな風に音で遊ぶのを知ったら、眉をひそめる音楽家の方が多いのはわかってる。
 どれだけ正確に楽譜を表現できるか、って……そればっかり追っている評論家なら席を立つかもね。
 頭がガチガチな今の音楽界には受け入れられなくても、この瞬間、たった一人が受け入れてくれれば満足だった。

「今日の瀬伊くんのピアノ、すごく楽しそうだね」

 いつの間にか背後に来ていたすずが、笑いながらエプロンを外している。
「音がキラキラしてる感じ」
 弾き続けながら椅子の上を少し移動すると、隣にシルクの衣擦れが滑り込んできた。
 ここからは少しテンポを落として……。
 すずのハミングと僕のピアノ、風変わりな連弾が防音壁に吸い込まれて、透明な感覚を連れてくる。
 静かに静かに弾き終えると、おどけて一礼した僕を見上げながらすずが笑った。
「どう?」
「素敵だった! 楽しんでるって気持ちが伝わってきて……そういえば音楽って、音を楽しむって書くくらいだもんね」
「ふふっ、そう言って貰えると嬉しいな」
「今日のコンサートね、上手だなーって思ったけど……」
「けど、なぁに?」
「あたしは今みたいな瀬伊くんのピアノが一番好き」
 その言葉に、全身が固まった。
 耳も目も、全部の感覚が、すぐ隣にいる存在に奪われる。
「瀬伊くん?」
「……そっか」
「あの、気を悪くしないでね? 一緒にコンサートに行ったのが不満だった訳じゃないよ。さすが世界でも有名なピアニストだけあるなって思ったし」
「そんなことわかってる……違うんだ、あんまり嬉しかったから」
何気ない一言で、全て受け止めてくれた事が。
 どれだけ嬉しいか、わかる?
 たった一言でこんなに安心できて、気持ちが浮くんだ。
「ね、ここに座って」
 二人で座るには狭い椅子を理由にして、膝の上に誘い込む。
 磨かれたピアノに、二人のシルエットが重なって映りこんだ。
「こういう気持ちって、はじめてだから良くわからないけど」
「え?」
「好きとは違う……もっと大きな気持ちを表す言葉って、これ以外思いつかないから、きっとそうなんだと思う」
「瀬伊、くん?」
 戸惑う顔が振り向きかけるのを、少し強めた腕で封じて言葉を繋ぐ。
「愛してる……心の底から」
 使い古されてるって感じても、本当にそれ以外に表現できないんだ。
「愛してる」
 何度、繰り返しても足りないくらい。
 すずの背中からゆっくり力が抜けて、頬がくっついた。
「あたしも、こういう気持ち、瀬伊くん以外の人に感じた事ないけど……」
「うん」
「やっぱり、これが愛してるって気持ちなんだって、思う」
 至近距離で見詰め合う目には、お互いしか見えていなかった。
 穏やかで柔らかい心を分け合うように、そっと唇が重ねる。
 特別な存在になってから初めてするキス。
 甘くて、癖になりそうだよ。
 二回、三回と重ね続けると、腕の中の体が震えはじめた。
「すず、おなか空いてる?」
「え……っと」
「ねぇ、このまま……」
 四回目のキスにキッチンから響くタイマーが割り込んだ。
「ケーキが焼きあがった、みたい」
「だね」
「もうお料理は全部できてるし」
「……仕方ないなぁ」
「せっかく瀬伊くんの為に張り切って作ったんだもん、無駄にしたくないよ」
「わかった」
 腕を放すと、しぶしぶ立ち上がる。
 お互いの手を重ねながらテーブルへ向かいながら、どちらからともなく自然に言葉が出た。
「メリークリスマス……毎年こんな風に過ごせたらいいね」
「メリークリスマス、きっと来年も」





「うん、美味しい。やっぱりこのケーキ大好き」
 紅茶を淹れながら笑っている背中に教えてあげる。
 いつもの味と、サンタの飾りが乗っているスポンジへフォークを刺した。
 ふわふわの感触が指先から伝わってくる。
 それに負けないくらい、全身をあたたかな真綿で包み込まれるような、そんな幸福感に酔いしれる。
「また作ってね」
「喜んで」
 ……イブの夜は、まだ輝き始めたばかり。

あとがき

ベタでごめんなさい
瀬伊=音楽、という図式が猫百匹の中で強いのです

クリスマスの話は全キャラ裏なしで書いていたのですが
キス以上・・・と、匂わすだけならいいかな?
ゲームもCERO12で、あんなシーンこんなシーンあったぐらいだし

甘え上手でいたずらっ子な瀬伊と
“しょうがないなぁ”ってドーンと受け入れるむぎ
いつまでもそんな関係でいて欲しいなぁ
猫百匹の願望強めの話ですが
メリークリスマス!瀬伊×むぎ