あたしの半分
一歩一歩、深呼吸しながら進む。 もう、かなり近くまで来ている……はず。 記憶の中の地図で、森に踏み込んでからの時間と歩いた距離をざっと計算しながら、顎を伝う汗を拭った。 脚をとめた途端にひどい喉の渇きを覚える。 全身で感じる夏に、気持ちがざわついているからかもしれない。 背負ったリュックに手を伸ばしかけたが、ここで手をつけたら空になるまで一気に飲み干してしまいそうで、拳をぎゅっと握った。 リュックを背負いなおして、前方を見据える。 「さて、と。行きますか! あたしはまだ、ぜーんぜん元気なんだから」 口にすれば現実になるかもしれない、なんて……、言霊みたいに大げさなものじゃなくて子供っぽい暗示だけど。 言葉の力を借りてでも、歩みを止める気なんてなかった。 やっと。 そう、やっと……ここに来ることができたのだから。 ◇◇ 一歩一歩、大地を踏みしめるたびに緑が濃くなっていく気がする。 うっそうと生い茂る樹々がだいぶ陽を遮っているとはいえ、むっとする草いきれに自然と息が荒くなってしまう。 目的の地はまだ見えないってのに、靴は泥まみれ、何日もかけて考えた服も汗でべったり肌に張り付いている。 アスファルト舗装どころか、獣道すら出来上がっていない中を進んでいるからとはいえ、日ごろの運動不足を痛感した。 「やっばいなぁ。こんな姿、同僚に見られたらなに言われるか」 これでも超エリートの高級官僚だってのに。 だから、だよ! だから! 次から次と湧いてくるデスクワークに、関係各所との会議また会議。 もちろんその下準備も後始末も必要だし、相手に気力をそがれないよう神経を尖らせていれば、いざ時間ができたって運動しようなんて気になれない。 真っ暗な部屋に帰って、誰もいないのに“ただいまー”なんて言っちゃって、空腹を満たすだけの食事をして、倒れこむように寝る。 朝は目覚まし時計に叩き起こされて、一日を乗り切るため自分に気合を入れて、誰もいない部屋に“いってきます”なんて声をかける。 こなしてる事は一年前と大差ないのに、一人ってのはこんなにキツイ。 一年前は……。 傍にいるのが当たり前だった人の名が浮かんで、胸を刺す鈍い痛みに顔をしかめた。 ……芦屋さん。 いつも一緒に居た人。 いつも一緒に居てくれる、と、思っていた人。 いつも、あたしの中心にいた人。 今は……過去形でしか呼べない人。 一緒に働いていたときはいつだって飄々としてて、のらりくらりと雑用をかわして押し付けられるから、自分の方が絶対に忙しいって思い込んでた。 自分がその立場になってみて、あの人の足元にも及ばないことを痛感させられた。 いつかは追いつけるかも、なんて考えは、はなから持っていなかったけれど。 だって絶対にムリだって分かっているものの、手が届かないことを再認識させられるのは、まだ、ちょっと辛い。 きっと一生、この痛みは薄くなったとしても消えることはなく、自分の中に在り続けるのだろうけど、いまはまだはっきりと自覚したくはない。 幼い、色気がないと散々言われ、そのお陰でこの村に深く関わるきっかけにもなったけれど、歳相応の自己防衛くらい身につけている。 もう少し、思い出しても痛みより幸せを感じられる時まで、あまり浸らないほうがいいとあえて避けていた。 だからここに来る覚悟ができるのに、一年かかった。 悲しい歴史と偽りからはじまった仲でも、いまは心の友と呼び合う当代の玉依姫と、会って他愛のない女の子同士のおしゃべりをしたくなっても必要なときだけ手紙での連絡に留め、来ることはなかったのもそのせいだ。 自分だけならまだしも、珠紀ちゃんにまで思い出させてしまうかもしれないから。 珠紀ちゃんだって、もう十分に苦しんでるのに。 なのにいつだって前向きで、あたしを気遣ってくれる。 玉依姫の重責を突然背負わされても、彼女は絶望に負けなかった。 あたしも負けてられない。 「もうちょっとなんだから、ガンバレあたし」 どこまでも続く人を寄せ付けない深い森。 だけどあたしの記憶が、気持ちが、もうすぐだと叫んでる。 とたんに軽くなった気がするリュックをポンと叩いて、あたしはしっかりと前を見据えた。 ◇◇ 垂れ下がる蔦を払った瞬間、日の光が眼を刺して、痛みさえ感じるまぶしさに眩暈がした。 瞬きを繰り返してずれた眼鏡を直すうちに眼が慣れてきて、ぼんやりとしていた景色が徐々に輪郭を取り戻す。 「……ここだ」 まるで結界が晴れたみたいに、突然それまでの木立が嘘のようにぽっかり開けた草野原と、そびえたつ岩肌にぞくりと鳥肌が立った。 典薬寮の資料を盗み見るまでもなく、記憶の中にはっきりと残る地図が、目の前に広がっていた。 記憶……過去……やがて人知れず歴史に埋もれていくだろう事実。 その全てが、目の前にあった。 間違いなく、芦屋さんと別れた場所だ。 たった一度、想いを告げた場所。 上司にではなく、男の人として。 ただの別れなら、それもいつかほろ苦いなるのだろうけど……。 「あ……れ? おかしいな、なにこれ」 けれど、たった一年という期間は生々しい感情をつれてきて、震えだした手を目の前にかざす。 意思の力では止められない震えが、視界をふるふると揺らす。 やがてその震えは全身に広がって……、吸い込まれるように脚だけが勝手に動きだす。 一歩一歩、近づきながら……。 苔むした岩肌に時の流れを感じ、いまだ癒されることのない傷口が広がっていくのを感じ、瘡蓋を無理やり引き剥がされるような痛みに、眉がゆがむ。 心の中でどくどくと血があふれ出す。 まるで、あの時の、芦屋さん、みたい……に。 ずしりと重くなった手が、糸の切れた人形みたいにだらりと垂れた。 「あ……あ」 呻きが喉を震わす。 その重みは、あたしの中にずっとあったもの。 忘れちゃいけない、忘れることなんて出来ない、あたしが引いた、引き金の重み。 あたしが奪った命の重みと、託された世界の重み。 最後の最期に穏やかに微笑んだその人と、かび臭い土の匂い、暗い洞窟、がらがらと崩れはじめる音、真夏だったっていうのにひんやりと肌を撫でる空気、すべての感覚が一年前に戻る。 芦屋さんの言葉一つ一つが耳に戻ってくる。 ついさっき交わしたみたいに色あせてない会話は、絶望と希望が入り混じっていて、時間の感覚を麻痺させた。 “撃て” 断れば世界が終わってしまうから、じゃない。 それが何より芦屋さんの望んだ結末だったから。 いつもいつもいつも、自分だけで計画して実行して、あたしには後から結論と後始末、だけで……。 最後になって、やっとあたしを頼りにするなんて、さ。 “そして……行くんだ” 最後まで一緒にいたいって、お願いしたのに。 離れたくなんかなかったけど、それが芦屋さんの気持ちだったから。 芦屋さんが望んだ、幸せな明日を作るために、あたしは駆け出すしかなくて。 でも……もう二度と来るななんて、言われてない、よ? 気がつけば、かつて世界の果てが待つ場所へ繋がっていた洞窟の入り口の前まで、ふらふらと進んでいた。 「あ、あ……うわあぁぁあああああーーーっ」 もう決して誰も踏み込ませまいと言うかのように、崩れ落ちた岩に指の先が触れた瞬間。 頑なに封じていた気持ちの蓋も崩れて、その場に泣き伏した。 ねぇ、芦屋さん? 今だけは泣いても許してよね。 あたし一年ガマンしたんだから。 芦屋さんが守った世界を、あたしも守ろうって頑張ってきたんだから、これくらいご褒美くれてもいいでしょ。 芦屋さん、芦屋さん、芦屋さん。 あの人を少し馬鹿にした笑顔で、しょうがないなぁって言ってくれるよね。 まだこんなに好きなんだよ。 もっといい人なんて、どこにもいない。 あたしのことだけを考えてくれる男の人、って……、芦屋さん以上にあたしのこと世界のこと、考えてくれた人なんていないじゃない! たった一度しか伝えられなかったけど、好きだって言ったの覚えててくれてるでしょ? 芦屋さんはとっくに気がついていたけどさ、言葉にしたのはあれが最初で最後なんだから、いつもみたいにとぼけたら本気で怒るから。 あたしは忘れない。 芦屋さんの全てを忘れない。 今度……が、あったら好きだって言ってくれるって言葉も。 ずるいんだから、そういうとこ。 あたしがその言葉にどれだけ縛られるか知ってて、それでやっと曖昧に気持ちをくれるんだから。 ずるいです、芦屋さんは。 一人で全部決めちゃって、一人で逝っちゃうなんて。 命と引き換えに世界救っちゃうなんて、そんな最高に恰好いいことされたら、一生好きでいるしかないじゃないですか。 残されたあたしは、芦屋さんのいない世界で生きていかなきゃいけないのに。 涙はいつか枯れるなんて嘘だ。 あとからあとから溢れて、止まらないじゃないの。 涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、這うように岩に寄りかかる。 苔むした岩肌は陽の光を吸い込んでいるのにひんやりと冷たくて、でもやっぱりほんのりと暖かくて、まるで芦屋さんそのものみたいだなんて思う。 いつの間に下ろしたのか分からない、足元に転がったリュックを引き寄せて、芦屋さんのために持ってきたものを取り出そうとするのに、覚束ない手がおかしくて少し笑う。 霞む視界の中で、かさっと音をたてたおセンベイにも、ちょっと笑う。 せっかく気をつけて持ってきたのに、下ろした衝撃でなのか、どれもこれも半分こになってて。 「……ちょうどいいや」 どうせ、最初から半分に割るつもりだったし。 こうなっているのが必然だと、なぜか納得して呟いて、袋の口を開ける。 「これ、朝から並んでまで買ったんですよ」 応える人はもういないのに、一つ、半分を隣の岩に置く。 「こっちは、わざわざお取り寄せしたんです」 また一つ、並べる。 「これは……あぁほら、良く芦屋さんに頼まれたお店の」 次々と取り出しては、思い出を辿るように列を作っていく。 どれも芦屋さんが好きだったお煎餅。 よく買出しを頼まれていたからじゃなくて、好きな人のことだから、間違いなく揃えられた。 泣き笑いしながら代金を出して店員さんに不審がられても、ちゃんと揃えたんだから褒めてよね。 やがて軽くなった袋の底を覗き込むと最後の一枚になっていて……、奇跡的に無傷だったそれを大事に取り出した。 「とっておき、ですもんね」 煎餅を両手で持つと、力が入らない手でも簡単に割れた。 とっておきを楽しみにする芦屋さんが、手を貸してくれたんじゃないか……なんて、非現実的な期待ですら縋ってしまう。 「はい……半分こです」 列の最後に加えて、残りを無造作に……芦屋さんの真似をして噛み砕く。 一年ぶりのそれは、言葉通り、泣きたくなるほどの味で、しゃくりあげながら飲み下す。 「やっぱり、おいしいですね」 また一年、その味と記憶に囚われると分かってて、それでも大切に大切に味わいながら隣にいるはずの人に呟く。 嗚咽を繰り返しながら涙をぬぐえば、まばゆい光が世界を照らし出していた。 全ての人の希望を受けて輝いているかのような、どこまでも眩く強い光。 長い夜はもうこない。 いつかはあの出来事全てが、記録からも記憶からも消えてしまうかもしれない。 でもあたしは、忘れない。 「また……来年も二人でおセンベイ食べましょうね。待っててください」 あたしも、待ってますから……輪廻の果てを。 |
あとがき
映し鏡『おセンベイを半分こ』には、泣かされましたぁあ゛ぁぁあ゛ぁ。
泣くって分かってるのに、何度も見て何度も泣いたくらい
芦屋さんと清乃ちゃんにどっぷり感情移入。
あの告白は反則だよぉぉぉぉおろろろーん。
だからこんな話を書いちまったい。